2-08
「にゃあ」
「あっ、ごめんなさ……えっ?」
蹴ってしまいそうになった足を引っ込めながら、彩音が目を丸くする。彩音の足元を横切ったのは、毛艶の良い一匹の黒猫だった。この大悪魔の支配する万魔殿において、その存在は相応しいといえるか、それともここにいるのは、やはり不自然だろうか。
「にゃあん」
おもむろに黒猫が擦り寄ってこようとするが、彩音はそれを反射的に避ける。おや、と言わんばかりに黒猫は首を傾げ、再び擦り寄ろうとしたが、彩音は同じく足を上げて避けた。
そんな両者のやり取りを眺めていたナナシが、彩音に尋ねる。
「おねえちゃん、猫、嫌いなの?」
「……そうね、嫌いよ」
「うーん……本当に?」
思いがけぬ疑問の声に、彩音が苛立ちを包み隠さず尋ね返す。
「どういう意味? こんなことで、いちいち嘘なんて吐かないわよ」
「だって、クロは猫嫌いの人には、自分からは絶対に近づこうとしないもん」
「……猫なんかに、何が分かるっていうのかし……らっ」
クロと呼ばれた、いかにも単純な名前を付けられてしまった黒猫は、なおも彩音の足に擦り寄ろうと再三の挑戦を繰り返す。そのたびに彩音は、足を上げて避け、上げて避けを繰り返しているものだから、妙なダンスを踊っているようだった。
「そもそもっ、なんでこんな所にっ、猫なんてっ、いるのかしらっ」
身体を跳ねさせながら喋っているせいか、彩音の声も同時に弾んでしまっている。ナナシは少し可笑しそうな顔をしていたが、笑うのは堪えながら答えた。
「それは多分、クロも生きるために必要な〝何か〟を失ったからじゃないかな。何を失ったのかは、聞いても教えてくれないんだけどね」
「バカねっ、ナナシくんっ、猫は普通っ、喋らないのっ、よっ、とっ」
「んふっ……ふ、普通ならそうだろうけど、万魔殿だと犬でも猫でも喋るんだよ」
「……えっ? それってどういう……あっ」
そこで跳ねるのを中断してしまった彩音の足に、黒猫が擦り寄る。再三のチャレンジの甲斐あって目的を達成した黒猫は、ふん、と満足そうに鼻を鳴らせてから去っていった。
一方的に接触された彩音だけが、どうにも納得いかない表情をしている。
「もう、なんだったのよっ。意味が分からないわっ」
「そうなんだよねー。クロってば、ここへ来てからも一回だって喋ったことないし、何を考えてるのか、ぜんっぜん分かんないんだよねー」
「だから、猫は喋らないのが、普通、で――」
そこまで口にして、彩音は自身が発した〝普通〟という単語に違和感を覚えた。この万魔殿において、今さら〝普通〟を主張することは、どれほど滑稽なことだろうか。
だとすれば、ここでは猫だって喋るのだろうか。しかし、そうはいっても――
「でもクロちゃん……あの黒猫は、喋らなかったじゃない。にゃあにゃあ言ってるだけで」
「うん、だから、にゃあにゃあ、って喋ってたんだよ。からかってるんじゃないかな、僕らのこと。そういう、えっと、スタンス? でやっていくのも、自由なんだよ」
そこでナナシが〝案内人〟モードで胸を張って説明を始める。
「ここへ来る動物っていうのはさ、まあ、犬や猫が大半なんだけどね、大体が共通したものを失ってるんだ――〝飼い主〟っていう、ね。でも、クロはちょっと違うような気がするんだよね、勘だけどさ。なんかちょっと、雰囲気が違うっていうか、不思議な感じ」
そう言われた彩音だが、「確かに変な猫ではあったけど」というくらいの感想しか湧いてこないらしい。他の動物が万魔殿でどのような居住まいをしているのかも、そもそも分からないのだから。
ただ、一つだけ引っかかることはあった。
「……〝飼い主〟を失った動物が、ここへ来ることもあるのね」
思わず口にした彩音の言葉に、ナナシが頷きながら返事する。
「うん、ほとんどはそうだよ。そういう意味では、野生の動物っていうのは滅多に万魔殿には来ないんじゃないかな。でも〝飼い主〟の失い方も色々だよ。ご主人様が死んじゃったっていう犬もいれば、いきなり捨てられたっていう猫もいたから」
「最低ね、捨てるなんて。無責任にも程があるわ」
「うん、まあそうだと思うけど……おねえちゃん、やっぱり猫のこと嫌いじゃないでしょ。速攻だったよ、今の言葉」
「……わ、私は一般的な倫理観の話をしているのっ」
その一般的な倫理観も、この万魔殿においては、やはり無意味なのかもしれないが。
それにしても、と彩音は万魔殿へ来てから何度思ったことだろう。不思議の尽きないこの場所で、新たな疑問に首を捻る。
「どうして、犬や猫とも会話できるのかしら。ここへ来ると、いきなり言葉を覚えるの?」
彩音の投げかけた質問に、お喋り好きの少年は喜んで答える。
「それはね、僕も気になってアスモデウス様に聞いたんだけど、簡単なことだったよ。実は僕らだって、本当は言葉そのもので会話してるわけじゃないんだってさ。万魔殿にいる人達は、魂で会話してるんだよ」
「……? え、っと……魂、で?」
ナナシが言うほど、それは簡単な答えではなかった。ナナシは純粋にそれを信じているようだが、ではなぜ口を動かし言葉を発しているのか、彩音の疑問は尽きない。
しかしナナシは、そこまで見透かしていたわけでもないだろうが、疑問に答えてくれた。
「口を動かして喋ったりするのは、あくまで習慣なんだってさ。そうしないと相手に伝わらないっていう〝思い込み〟と、そうしてもらわないと聞こえないっていう〝思い込み〟があるから、僕ら人間は結局、喋るようにしないと会話できないんだよ。でも、言語? っていうのが違っても、意志疎通っていうのは出来るってことらしくて」
軽い調子のナナシの説明で、ああそうか、と彩音の中で痞えていたものが流れ出す。
正体が不明瞭なアスモデウスならともかく、リリエラやナナシは彩音と同じ人間に違いないが、しかし元いた世界の――生まれ育った国などは、全く別だろう。
けれど今まで、会話に不自由したことは一度もない。ナナシはたまに単語などでつまづくことはあるが、たどたどしくなりながらも、きちんと言葉は伝わってくる。
何気なく会話していたが、本当はとんでもないことだったのだ。本来なら言語が違う者同士で、こうも容易く会話が成り立つということは、つまり――
「まあ要するに、会話に不自由しないから便利、ってことだよね!」
ナナシにあっさりとまとめられ、彩音は複雑そうな顔をする。散々複雑に思いを巡らせるより、適当な一言で充分なのだろうか。
「はあ……本当に、もう」
なんだかなあ、とため息を吐きながら、彩音は万魔殿の通路を歩いていくのだった。




