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万魔殿《パンデモニウム》は眠らない  作者: 初美陽一
第一幕 そこに住まうは『人』か『魔』か

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1/8

1-01

 少女の瞳は、死んでいた。


 住宅街の路を進む足取りはどこか虚ろで、朧げに沈む瞳は地面ばかりを向いている。土砂降りの雨に押さえつけられているかのように、うなだれた頭が上がることはない。


 水を吸い続けて重くなっていく制服を、艶のある黒髪が濡れそぼっていくのを、気に留めることさえなかった。


「……もう、どうでもいいや……」


 繊細で可憐な顔立ちの中心にある大きな瞳は、ただただ空虚で、存在しているというだけで何も見てはいない、何も映してはいなかった。


 少し前まで神童と謳われていた少女、皆月みなつき彩音あやね


 彼女が一度ピアノに触れれば、天使の音色を生み出すとさえ言われていた。彼女が一度鍵盤を叩けば、誰もが惜しみなき称賛を贈ったものだ。


 彩音の右腕が、つきりと痛む。その痛みに誘われるように、彩音は自由に動かすことの出来る左手で、何もせずとも痛む右腕を目一杯の力で鷲掴みにした。


 つき、つき、つき。痛む右腕を、それでも少女は離さない。ずき、ずき、ずき、握り締めた部分に血液が通るのを感じるたび、痛みはなおさら引き立った。


 ずきりと、一際激しい痛みを覚えた瞬間、ようやく右腕から左手が離れる。

 ――彩音の目じりから涙が零れたのは、それとほぼ同時だった。


「うっ、くぅ……ふっ、うえっ……」


 ぽろり、ぽろりと零れる涙は雨と混ざり、既に濡れそぼっているアスファルトへと落ちていく。なおも彩音の上へと降り注ぐ雨が、頬を伝う涙と混ざり合う。


 彩音の右手は、二度と奏でることを許されなくなってしまった。


 将来はピアニストと、周囲から期待を寄せられていた。彩音自身、ピアノを奏でて生き続ける日々を、信じて疑いなどしなかった。


 けれどそんな想いは、儚くも無情に崩れ落ちてしまう。

 齢十五にして、輝かしかったはずの彼女の未来は、暗闇の中へと迷い込んでしまった。


 彩音は――生きるための〝希望〟を、失ってしまったのだ。


「うっ、うぇぇん……」


 どうして自分だけが、どうしてこんな目に――

 抑えることの出来ない涙を、彩音は左手の甲で拭おうとする。


「ふえっ……うっ……?」


 止めどなく溢れる、涙でぼやけた視界に――


「――えっ?」


 ――それは突然、現れた――


 漆黒にのみ彩られた、重量感に溢れる金属質の扉。獅子のような荒々しい二対の獣の装飾で飾られたそれは、ピン、と冷たく張り詰めている。


 まるでお伽話に出てくる、魔女が住む城へと続いているような扉は――だけどそこにあるのは、酷く不自然であることが見て取れた。


 ただ荘厳なその扉だけが、ぽつりとそこに佇んでいたのだから。


「……なに、これ……」


 彩音の空虚な瞳は、前方などほとんど映していなかった。だからといって、このような大きな扉があったとして、眼前に立つまで気付かないことなどあるだろうか。


 今しがた、彩音の目の前に、何も無いところから。


 ――この扉は、突然現れたのだ――


「こんなの……いつの間に」


 彩音は左手を前に出し、得体の知れぬ扉に触れた。手の平に冷やりとした触感が抜けていくことで、これは夢でも幻でもなく、本当に存在するものだということを確信できる。


 普通なら、このような得体の知れないものが眼前に現れたら、恐ろしくて逃げ出してしまうだろう。状況が掴めず、困惑してしまうかもしれない。

 だけど、どうしてだろう。彩音はその扉に、触れているのだ。


 彩音は、左手に力を込めた。扉には、鍵など掛かっていない。その重たげな装いとは裏腹に、少女のか細い片腕でも開くことが出来るほど、扉は軽かった。


「…………」


 自分はどうかしているのだろうか、と彩音はぼんやり霧が懸かったような頭で考えていた。

 住宅街の只中で、いきなり目の前に現れた扉だけが、現実と切り離されたような夢想の様相を醸し出している。異界へと続くような扉は、まるで彩音を手招いているようだ。


 ――行けばもう、帰ってこられないような気がする――


 曖昧な予感を覚えながら、それでもいいか、と彩音は自嘲気味に笑った。

 自分にはもう、失う物なんて無い。何だったら、このまま死んでしまってもいい。


 死んだ瞳に虚ろな思考。自暴自棄になった少女は、手を引かれれば導かれるまま堕ちていくだろう。たとえそれが、悪魔の誘いであろうとも。


 現実味の無い、羽のように軽いその扉に触れていた左手へ、更に力が込められる。

 どこへ続くとも知れぬ、その扉を押し開き――


 ――少女は〝そこ〟へと、足を踏み入れた――

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