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第9章:忘却と、ただ一行

それは、何の変哲もない火曜日だった。


朝、机の上に見慣れないノートが置かれていた。

表紙は少し色あせていて、端がめくれている。

何かのメモ帳かと思って、なんとなく開いてみた。


表紙の裏に、たった一行、ボールペンで書かれていた。


「田中さんは美人だ」


それだけだった。


誰だっけ、田中さん?

……思い出せない。

顔も、声も、何も浮かんでこない。


だけど、なぜだろう。

その一文を見た瞬間、胸の奥がざわついた。


懐かしいような、切ないような、でもどこか怖いような。


記憶をたどろうとしても、何も出てこなかった。

そんな人、知っていたような気もするし、知らないような気もする。

数秒間、じっとその言葉を見つめていた。


けれど――

俺はノートを閉じて、それをデスクの引き出しにしまった。


「まあ、いっか」


誰の言葉だったのかも、何の意味があったのかもわからない。


ただ、俺はそれを必要としていた気がした。

たぶん、もういらないと思っていたけど、本当は手放せなかった。


引き出しの中で、ノートは静かにそこに残った。


俺は、ふと立ち止まって空を見上げた。

忘れてしまった“はず”の誰かの笑顔が、なぜか胸の奥で揺れていた。


記憶は風化する。

誰のものでも、どんなに強く願っても。


でも、もしかしたら――

あの一行だけは、世界のどこかに残っているのかもしれない。


田中さんは、美人だ。


たったそれだけ。

でも、それがすべてだった。


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