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第8章:田中さんは美人だ

ある朝、ふと思い出せなかった。


田中さんの声。

話したことはないけれど、挨拶の声くらいは聞いたはずだった。

でも、どんな響きだったかが、うまく思い出せなかった。


次に、髪型が曖昧になった。

後ろで結んでいたのか、下ろしていたのか、思い返すたびに変わっていった。


最後に、笑顔だけが残った。


淡くて、儚くて、目を逸らしたくなるくらい、静かな笑顔だった。


記憶は風化する。

人間の脳は、それを当たり前にやるようにできている。


でも、それでも――

あの人は確かに、俺の人生のどこかにいた。


存在が消されても、証拠がなくなっても、

“確かにあった”と思える感覚だけは、まだここに残っている。


俺は今日、ノートを一冊開いた。


タイトルを書いた。


「田中さんは美人だ」


それだけ書いて、しばらくペンを止めた。


理由なんていらない。

意味も、説明も、求められなくていい。


ただ、俺がそう思った。

そう信じた。


それが、俺にとっての真実だった。


田中さんのことを誰も知らなくなってもいい。

忘れ去られても、記録から消えてもいい。


でも、俺は、ずっと忘れない。


あの人がそこにいたこと。

朝の光の中で見た後ろ姿。

コピー機の前の、静かな横顔。


そして、あのとき確かに思った感情。


――田中さんは、美人だ。


それは、俺だけの記憶。

俺だけの物語。

でも、それでいい。


それだけで、十分だった。


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