第7章:記憶に取り残された男
誰も覚えていない。
田中さんの名前も、顔も、声も。
いたはずの時間も、いたはずの席も――
まるで最初からなかったみたいに、すべてが消えていた。
けれど、俺の中には、ある。
コピー機の前に立つ姿。
社内報に残された笑顔。
白いハンカチの手触り。
あの、柔らかな香り。
誰がなんと言おうと、俺は知っている。
田中さんは、確かに“いた”。
それが事実かどうかなんて、もはやどうでもよかった。
俺の記憶が、何よりの証拠だった。
でも――
その記憶を共有できる人間は、世界にひとりもいなかった。
話そうとしたことはある。
「昔、ここに田中さんっていう人がいたんですよ」
そう切り出しかけて、言葉を飲み込んだ。
話した瞬間、自分が“おかしい人間”にされる未来が見えた。
証拠も、写真も、今では意味がなかった。
人は、目の前に“今あるもの”しか信じない。
記憶だけに生きている人間の声は、誰にも届かない。
俺は、取り残されていた。
時々思う。
もしかしてこの世界そのものが、俺以外の人間で結託してるんじゃないか、と。
大げさじゃない。
本気で、そう感じる夜があった。
でも、ひとつだけ確かなのは――
俺が覚えている限り、田中さんは存在する。
誰も信じなくてもいい。
誰も覚えていなくてもいい。
あの人の姿は、俺の中に確かにあった。
それだけは、誰にも消せない。
だから、俺は忘れない。
忘れないことを、俺自身の存在証明にする。
俺が“記憶に取り残された男”であるなら、
その記憶を、最後まで背負ってやる。