第3章:唯一の証拠
翌朝、会社に向かう足が少し重かった。
エレベーターの扉が開くたび、どこかで期待してしまっている自分がいた。
「やっぱり今日も来ていないかな」
「昨日のは、ただの早退だったのかも」
「いや、何かの手違いだったとか――」
でも、田中さんの席は空っぽのままだった。
代わりに、新しい派遣社員の女性が座っていた。
明るく挨拶し、まわりの人たちと自然に話している。
もう、田中さんの存在など、誰の中にもないようだった。
“消えた”というより、“最初からいなかった”ように。
その違和感を抱えたまま、俺は昼休みにロッカールームへ向かった。
用事もないのに、なんとなく体がそちらへ動いていた。
開けた瞬間、ひどく懐かしい匂いがした。
柔軟剤のような、化粧品のような――
田中さんが使っていた香りだった。
間違いない。
誰も気に留めなかったその匂いを、俺ははっきりと覚えていた。
ロッカーの最下段。いつも田中さんが開けていた扉をそっと開けてみた。
中は、空だった。
何も入っていない……はずだった。
でも、奥に、何かが落ちていた。
白くて薄い布。
――ハンカチ、だった。
ごく普通のハンカチ。
角には、小さく刺繍された名前。
「S.Tanaka」
それを見た瞬間、心臓が跳ねた。
やっぱり、いた。
やっぱり、田中さんは、この会社に存在していた。
何もかもが消されてしまったように思えていたけれど、
このハンカチだけは、消されずに、ここに残っていた。
誰にも見せられなかった。
誰かに見せたところで、「それ誰の?」と言われるだけだろう。
でも、俺にとっては**たったひとつの“証拠”**だった。
田中さんは、確かにいた。
俺の記憶だけじゃない。
この世界に、確かに痕跡を残していた。
その日、ハンカチをポケットに入れて帰った。
それはまるで、誰にも気づかれず拾い上げた“断片のような命”だった。