第72話 暖簾分け
弟子の頭ってのは、下げた角度で用件の重さが知れる。
閉店後の店。エプロンを畳み終えたリズは、頭を下げたまま言った。
「国へ――帰らせて、ください」
口上は用意してあったらしい。組合が競売から工房の建物を買い戻してくれたこと。戻るなら、屋根が残っているうちだということ。それから娘は、一番言いにくいやつを最後に置いた。
「教わった技で、ヴァイスの工房を建て直したいのです。……恩知らずと、承知の上で」
全財産の残り二割が丼になった夜から、まだ一年も経っていない。それでも皿の音で異変が知れる程度には、うちの店の音の一部だった。その音が、出て行くと言っている。
「顔を上げろ」
上がった顔は、覚悟と不安が半々だった。断られたときの口上まで用意してきた顔だ。うちの弟子は、妙なところで手回しがいい。
「工房は、どうなってる」
「屋根と、研ぎ場が残っています。機械も什器も運び出されて……中は、空っぽです」
「研ぎ場が残ってるなら上等だ。看板より先に研ぎ場。正しい順番ってのは、どこの国でも同じらしい」
湯呑みをひとつ、娘の前に置いてやる。
「向こうで、一人でやるつもりか」
「最初は一人です。……いつか、雇い戻したいのです。父が切るしかなかった五人を、全員」
娘の帳面には、もう再建の段取りが書いてあるんだろう。読む前に間を取る癖まで、あの家の流儀だ。止める理由を、俺は一つも持っていなかった。
「で、いつ発つ」
「……えっ」
「便が決まらんと、こっちの仕込みの日数が読めない」
リズは二度まばたきをして、それから背筋を伸ばした。
「十日後です」
「十日か。ぎりぎりだな」
何がですか、と聞かれたが教えなかった。餞別ってのは、中身を先に言うと値打ちが半分になる。
翌日から、閉店後の俺には内職が増えた。
昔なじみの鍛冶に、無理を言って刃を打ってもらった。竜宮の礼だと爺さんは金を取らず、代わりに鋼だけは一番いいのを選んでいった。銘を彫るかと聞かれて、断った。銘の代わりになるもんは、柄尻に空けてある。
刃付けと柄は、俺の仕事だ。峰は厚めに、裏は浅く梳く。生き腐れ相手に速さは要らない。粘って待てる刃がいい。
柄の寸法は、あの痩せた包丁から写させてもらってある。研ぎを預かるたびに、握りの痕を手のひらで覚えた。曾祖父の代から継ぎ足されてきた、あの家の握りだ。新しい刃に、古い握りを乗せる。
仕上げの晩、灯りにかざして刃線を見た。まっすぐで、素直で、まだ何も知らない刃だ。何を覚えるかは、持ち主が決める。
内職の間、リンは何も聞かずに夜食を置いていった。聞かないのは、たぶん全部知ってるからだ。
夜が三つ潰れた。悪くない潰れ方だった。
発つ前夜、最後の稽古をやった。
こはくがカメラを回し、リンとガルシアが検分役でカウンターに並ぶ。台の上にはS級の柵と、届いたばかりの根菜。
「今夜は俺は手を出さん。仕込みから提供まで、全部お前の段取りでやれ」
「……はい」
娘はエプロンの紐を締め直して、台に立った。所作に迷いがない。初日に七時間並んだやつが、いつの間にか店の段取りで動いている。
リズの稽古は、解体だけじゃなかった。洗い場に始まり、仕込みから勘定の付け方まで盗んでいった娘だ。持って帰るなら、丸ごとでいい。
一枚目。手を置く。息を、指で聞く。数えない。
絹の一枚が、まな板に並んだ。断面の霜まで拾ってある。
そこから先は、湯気の仕事だった。柵の切り落としを甘辛く炊いて、根菜の出汁で締める。丼が三つ、検分役の前に並んだ。
岩がまず空けた。批評は単語で来る。
「ウマイ。オカワリ、アリマスカ」
リンは長かった。一口ごとに箸が止まる。検分ってのは、そういう顔でやるもんらしい。丼が空いて、短い判決が出た。
「……おかわり」
「あるそうだ。――合格だな」
《合格きたああ》
《検分役、ただ食ってるだけ説》
《いや、あの二人の胃袋が一番厳しい審査だろ》
俺は棚の奥から、布巻きの包みを出した。リズの前に置く。
「開けてみろ」
娘の手が包みを解いた。油紙の三重巻き。あの家の流儀に合わせておいた。
刃が出た。
リズの息が、止まった。
「……柄が」
「お前の家の握りだ。寸法は写させてもらった。柄尻は空けてある。屋号の焼き印は、向こうで入れろ」
「いただけません。こんな――」
「餞別だ。断ると、暖簾分けの仁義に反する」
《暖簾分けキター》
《飯屋の流儀で職人を送り出すな》
《泣くなよ俺》
リズは包丁を両手で捧げ持ったまま、動かなかった。眼鏡の奥が光りかけて、娘はそれを職人の顔で堪えた。
「……技まで、持って帰ってしまいます。ししょうの技を」
「技ってのは、俺のもんじゃない」
寸胴の火を、少し落とした。
「倉庫の十年で盗んだもんと、先輩たちの手癖の寄せ集めだ。石板の八人も、帳面の九人目も、技に名札なんぞ付けてない。――お前が持って帰る分も、ちゃんとお前のもんだ」
「……はい」
返事の代わりに、雫が一滴だけまな板の外に落ちた。落とす場所を選ぶあたり、体はもう職人だった。
《ポルトガルから見てる。工房、待ってる》
《嬢ちゃん、うちの町にも寄ってくれ》
《九人目の帳面に、続きが書かれるんだな》
弾幕は今夜も、時差の向こうから来ていた。数百年前の出張報告書に、また返事が増える。
十日後の朝。空港ってのは、深夜営業の人間には眩しすぎる。
見送りは総出だった。こはくは珍しくカメラを提げていない。今日のは私用なので、だそうだ。
リンが紙袋を突き出す。
「……機内食の、足しに」
握り飯が、目方で十人前。足しの規模じゃない。リズは紙袋を胸に抱えた。荷物検査で揉める未来しか見えんが、言わないでおいた。
「リズちゃん、向こうで配信始めたら絶対コラボです! 時差はガチでなんとかしますから!」
「リズ。ムコウデモ、常連、ツクリナサイ」
岩の餞に、リズは深くうなずいた。それから、俺の前に立つ。
「ししょう」
「師匠はもう卒業だろ」
「いいえ。工房を建て直しても、わたしはヴァイスの十四代目で、ししょうの一番弟子です。どちらも、名乗ります」
「勝手にしろ。――刃が痩せたら、いつでも研ぎに来い」
「はい。……行って、参ります」
娘は深く、長く、頭を下げた。リュックの中には古い包丁と、新しい包丁。来たときより、荷物は一本だけ増えた。
搭乗口へ歩き出した足が、掲示板の手前で止まった。端末を耳に当てて、二言三言。振り返った顔から、旅立ちの色が抜けていた。
「ししょう。組合からの転送で……再建前の工房宛てに、手紙が来ていると」
「差出人は」
「オムニ・マテリアルズ。……ヴィクター・ミルズ」
一族の工房を潰した男から、まだ建ってもいない工房に――提携の招待状が届いていた。




