第七十話:凶兆
この場所に再び訪れたのは、ただなんとなくという曖昧な理由。人によっては計画性がないと罵ってくるかもしれないし、彼女が知る人物ならばそんなくだらない理由で勝手に抜け出す馬鹿がいるかと顔を真っ赤にして怒ってくるに違いない。
しかしながら彼女の口から言わせれば、何においても理由とは必要であるのか。明確な目的がなくとも出掛けたくなる時は誰しもあるわけで、そこにいちいち理由を求められては気も休まらない。
もっとも、今回の外出には歴とした理由が楓にはある。
「なんでまた、こんな辺鄙な場所に来ちゃうかなぁ私様ってば……」
二度目の訪問となる葛氣山道中にて、楓は一人愚痴ると自嘲気味に笑った。記憶を取り戻す切っ掛けとなるのでは、と童子切り安綱の提案により連れられたこの場所でも、やはり楓の記憶に改善は見られなかった。では、どうして再びこの場所へと訪れたのか。昔に活躍したとかいう人間の像と祠がぽつんとあるぐらいで、なんの魅力もないとわかっていたはずなのに。
それこそ、なんとなくという理由でしか答えられることしかできず。僅かながらも、もしかすれば何か面白いことが起きてくれるかもしれないと考えてしまった自分に楓は呆れている最中だった。冷静になって考えれば面白いことがそう何度も続くはずがないのに……。
そうこうしている内に、山頂に着いてしまった。
それなりに広々とした空間があるものの、楓を満足させるだけの要素はない。
やっぱりここには何もない。自嘲気味に鼻で一笑すると、楓はくるりと踵を返した。
これから帰ったらまた小うるさく怒られるだろうが、暇を持て余している楓にはそれすらもいい暇つぶしに感じていた。怒鳴られるのは好きではないけれど、聞いているとなんだか落ち着く自分もいる。その後にでも悠にもう一度手合わせを願おう。彼ならばきっと快く承諾してくれる。戦績は一戦一勝一敗……ここは楓としても勝ち越しておきたかった。
従って――あれこれ考えていたことで足元が疎かにしていたことを、楓は認めねばならない。小石に蹴つまずいて、そのまま転んでしまう。更に運が悪いことに地面にぽっかりと穴が空いた。いや、元々その部分の地盤が弱かったのだろう。重力に逆らえぬ楓は、しかし宙でくるりと身を転じるとそのまま静かに地面へと降り立つ。幸いなことに、深さはそこまでなかった。非力な人間だったなら、即死は免れなかっただろうけど。
「もう、最悪! どうして私様がこんな目に遭わなきゃなんないのよもう!」
足元の石ころに八つ当たりをしたところで、さてここはどこだろう。ぽっかりと空いた穴から差し込む陽光が照らす世界に、楓は僅かばかりに関心を持った。山の下にまさかこんな場所があったなんて……。
「明らかに人工物よね、これって……」
朽ちた柱に支えられた宮殿は、黒々とそびえ立っていて不気味な雰囲気を醸し出している。生物の気配は皆無。しかし鬼が息を潜めて根城とするにこの場所ほどよい隠れ家もあるまいと、楓は腰の太刀をすらり、と抜き放った。ゆっくりと宮殿の方へと歩を進める。相変わらず己を除いて気配は、ない。
とうとう、宮殿の中へと楓は足を踏み入れた。うっ、と言葉を詰まらせる楓。それもそのはず。彼女の視線の先には、踏み入れたことを後悔する光景がありありと残されていた。あちこちに積み上げられているのは人骨の山々で、数の分だけ失われていった命を表している。見るに、もうかなりの時が経過している。つまり当時のままの状態が現代も変わることなく残されている。
粘土細工でもやるかのように、あらぬ方向にひしゃげられた分厚い鋼鉄の扉をくぐって、更に奥へ。やはりここも数多の人骨の山が築かれている。奥にあるのは、玉座か――ぽつんと取り残されていて、今では蜘蛛の根城と化しているようだ。
「ここは、いったい……ッ!!」
背中に熱いものが走った。この感覚を楓は知らない。一度も経験したこともなく、されど鋭利な刃で斬られたことだけは何故かわかる。ばっさりと、左肩から右脇腹に掛けて一直線に帯びた熱と激痛に、楓は思わず脇右腹に手を当てる。
手には、何もついていない。そんな馬鹿な。狼狽した様子で楓は着物を捲り上げる。やはり、ない。あれだけはっきりと斬られた感覚があったというのに。血の一滴はおろか刀疵と思わしきものは、白き柔肌のどこを見てもなかった。
「い、今のは……うっ!!」
ずきり、と今度は頭痛が襲ってきた。まるで鈍器で力いっぱいに殴られたかのような感覚。意識が遠のき、全身から力が抜けていく。楓に抗うだけの余力は残されていない。正面から地面へと倒れた。鼻を強打したことによって痛みで意識が覚醒を果たしてくれた。
何かがおかしい。本能的に察した楓はこの場からすぐに離れることを決断した。理由はわからない。しかし、このままこの場は留まっていてはきっといけない気がする。おぼつかない足元で外を目指し歩く。途中何度も転びそうになった。それでも懸命に、とうとう這うことになってでも楓は光を目指してただひたすらに突き進んだ。
「はぁ……はぁ……」
ぞくり、と背筋が粟立った。後ろに何かがいる。楓は恐る恐る振り返る。
一匹の鬼がいた。とてつもなく大きい。牛のような頭に巨大な角を生やし、彼女を捉えている赤き瞳には、狼狽した楓が映りこんでいる。
現存している記憶において、こんなにも巨大な鬼と相対したのは楓にとって初めての経験となる。一人でどうにかできる相手とはとても思えないし、ましてや満足に動くこともままならない自分は逃げ切れない。
このまま嬲り殺されて、それでおしまい。ぎりっ、と楓は歯を噛みしめる。この時、生存本能とは別の感情が彼女の胸中で芽生えていた。
(どうして! こんな鬼は初めて見るのに……どうして私様は知っているような感じをしているの!?)
きっと、失われた己の過去が関係しているに違いない。だが、それらを確かめるにもまずは自身が置かれた状況を打破せぬことには叶わない。残った力で全身を動かす。鈍重な亀にも等しい彼女に、鬼は何もしてこない。いや、そもそもできるはすがなかった。
「え……まぼ、ろし……?」
いつの間にか鬼が姿を消していた――最初から鬼なんてどこにもいなかった。どうやら幻覚を見ていた、らしい。謎の痛みと脱力感に見舞われている状況下だ、意識もまだ朦朧としているからあるはずのないものを目にしたって不思議ではない。
幻影が消えたことによって、這わねばならなかったはずの肉体に活力が戻ってくる。視界も良好。未だ困惑が抜け切らぬ顔で、楓はよろよろと身を起こした。改めて辺りを見やる。何度見ても。どこにも鬼の姿なんてない。無駄な装飾がない。、ただ広々としている殺風景な部屋であの巨体を隠すこともできない。やっぱりあれは自身が生んだ幻影だったんだ。楓は力なく笑う。
「幻覚……だったんだ。そっか、あはは……」
良かった。そう呟くと、おぼつかない足取りで楓はその場を後にした。




