第六十三話:静かなる夜にて
――夜。
静寂に包まれた道場にて、悠は手にした木刀を振るうことなく、ただ一人佇んでいた。
微動だにすることなく、しかし大量の汗が滝のように流れ落ちている姿に戸惑う者もひょっとすればいるかもしれないし、貴重な男の汗と飛びつく不遜な輩も現れるやもしれぬ――後者に関しては、高確率であろうが……。
悠が再びこの道場に足を運んでから、かれこれ二時間が経過しようとしている。
その二時間、何もせぬままひたすら突っ立っている……ようにしか見えぬであろうが、実際は違う。彼は休息を挟むことなく二時間ずっと戦い続けていた。
いったい誰と。彼の眼先に広がっているのは闇夜だけで、敵と呼べるものは特に見当たらぬというのに、戦っていたなどとは冗談の類かなにかだろう――第三者がもしもこの場におれば、きっとそう口を揃えるに相違あるまい。
当然だ。悠が戦っているのは、己の脳裏に描いた仮想の敵で、他の目には決して映ることはないのだから。
「――――」
今日の戦いを思い出す。打ち合ったのは、たったの一度だけ。打ち合った、などという言葉は不適切と非難されるやもしれぬ。そのたった一度の攻防から、ありとあらゆる可能性を悠は計算して導き出す。
きっとこんな動きをするかもしれない、いやこんな攻撃だって彼女ならば難なくこなしてみせるであろう……、と。そうした可能性の荒波に彼は身を投じる。
「――――」
木刀を構える。上段の構え。
仮想が先の先を取った。仕合で見せたあの独特かつ迅い走法で、距離が瞬く間に縮まる。
渾身の力を込めて下方より切り上げる。勢いが乗った木刃に呆気なく己の身体ごと両断された。
仕切り直す。戦況はいつもと同じ。
仮想よりも先に仕掛けた。先の先。縮地で懐深くまで踏み込んで、表切り上げに剣を運ぶ。
さながら蜘蛛のような体捌き。虚しく空を裂くだけに留まり、お返しとばかりに死角より強襲した木刃によって胴を断たれた。
「――――」
仕切り直す。逆袈裟に斬られた。
仕切り直す。刺突で心臓を穿たれた。
仕切り直す。三度目の太刀合わせで首を刎ねられた。
仕切り直す、仕切り直す、仕切り直す……――。
「……ふぅ」
疲労を吐き出す。かれこれ五十七回も殺された。最初の頃は刹那……開始と同時に呆気なく殺されてばかりで、仕合にすらなっていない。後半になるにつれてようやく、彼女の恐るべき嵐剣に対応できるようにはなったが、初太刀からたったの三合目では成長したとは彼の口から出ることはなかった。
同時に、殺される姿を想像するというものは、彼の心身に多大な負担をかける。鮮明であればあるほどに。死んだと誤認した脳が発する信号といえば、こうも重々しきものだったか。一度死んでいる身であっても、こればかりは慣れそうにもない。慣れたいと思えるものでもないが。
(こんなんじゃ、全然駄目だな……)
滝のような汗を腕で拭い、息を無理矢理整えたところでもう一度、悠は意識を集中させる。
「あ、あのぉ! 一度休まれた方がいいんじゃないでしょうかぁ?」
そこに、待ったの声が悠に掛けられた。
この道場にはもう一人、自分以外の利用者がいることはわかっていた。それでも悠が気にも留めなかったのは、手を出してくる素振りもなかったし、仮想戦闘を目撃されたところで差して問題もなかった。筆を走らせたいのならば、好きにすればよい。
そうして好き勝手にさせておいたら、とうとう絡んできた。二時間も休息も取らぬばかりか更なる修練に入ろうとしたのを、彼女なりに危険と感じたが故の判断であろう。故に悠も邪険に扱うことなく、彼女の問いに返してやる。
「……そう、ですね。さすがにちょっとだけ疲れましたし、休憩しますか」
「道場に入ってからずっと戦いっぱなしじゃないですかぁ。いくら頭の中っていっても限度がありますよぉ」
「あ、やっぱりわかりますか?」
「当たり前ですぅ。悠さんの真剣な眼差しに思わずあそこが――んんっ! 視線と剣気を追えば私にも見えましたよぉ――楓さんとってもお強い御剣姫守ですよねぇ。それに必死に食らいつこうとする悠さんも相当なものとは思いますけどぉ」
「……これだけやって一太刀も浴びせられるどころか、三合目から伸びませんけどね」
「……どうしてそこまでして強くなろうとするんですかぁ?」
(またその質問か……)
結城悠が男であり、彼が刀を手にし続ける以上、初対面には絶対に尋ねられる内容に、悠もほとほと疲れていた。真相を述べたところで、すぐに納得されないのはわかりきっているし、返って妙な使命感を刺激させて正論と言う名の固定観念をぶつけられる。
そんな輩に、悠は心底願わざるを得ない――どうか、自分のことは放っておいてくれ。好き勝手にさせてくれ、と。
それでも尋ねられてしまったから、悠は渋々とながらも答えてやることにした。
相手は小烏丸だ。想像と妄想だけで実在する人間を自身の創作を盛り上げるための道化師にしてしまえるような輩に、好きに想像しろ、という台詞は自らの首を絞めるも同じ。
彼女ならば、喜んで想像する。万人の予想を遥か斜め上へいくことも、このとんでも作家なら造作もなかろう。
「……守りたいと思える者を守れるだけの力がほしいからです。それ以上答えるつもりはありません」
「そんなぁ。もっと色々と教えてくださいよぉ!」
「それ以上は軽々しく語れるものでもないし、俺自身があまり言いたくないんですよ」
「むぅぅ……仕方ないですねぇ。そ、それじゃあ別のお願いならいいですかぁ?」
「常識の範囲内かつ危なくないことならな」
「そ、それは大丈夫ですよぉ。じゃ、じゃあその……手を握ってもいいですか?」
「手を?」
これはまた、予想外なことをこの娘は言う。常識の範囲とは言ったものの、それを守れる御剣姫守達ではない。故に突拍子もないことをお願いしてきたら即刻却下してやろうとばかりしていたものだから、あまりにも普通すぎる要望には悠も繰り返し尋ねてしまう。
(また随分と普通というか……なんともかわいらしいお願いをしてきたな)
言った本人は、恥ずかしいと自負している身で勇気を振り絞った、のか。いずれにせよ林檎のように赤々と染まった顔で、目を忙しなく泳がせている。やっぱり言うんじゃなかったかも……と、そんな彼女の心の声が心なしか聞こえてきた。
(そんなに恥ずかしいって思うのなら、よく刃戯を使って男を手に入れようとできたな……)
恐らく、この娘は恋愛や性事情に奥手なのだろう。
今までの行動を顧みてみれば、悠への要望はあくまで作品に関連するものばかりだった。
意外と言えば意外で、だからと言ってどうこうする気が微塵もない彼には、まったく関係のない話だ。他の御剣姫守と比べて扱いやすい。
ともあれ一応、理由を尋ねてやってみることにした。
「えっと……どうして手を繋いでほしいんですか? 俺が言うのも変な話ですが、もっとこう、引くぐらいのことをお願いしてくるんじゃないかって思っていたんですが……」
「も、もちろん作品のためですぅ。そのぉ、実際に体験してみるのと頭の中だけで書くのって全然違うんですよぉ。悠さんだって想像だけで書けって言われるより、実際に何かしら経験していることがある方が書きやすいでしょぉ?」
「それは、まぁ……」
一理ある。悠は納得する。同時に驚きもした。
形だけならば凡人でもなぞらえる。研鑽を積むこともなく極められるのは、それこそ天才と呼ばれる存在のみ。
彼女が手掛ける【桜華刀恋記】には、ラブコメディ的な要素も多大に含まれている。
あたかも実体験を元にしているとでもいうような文章には、ネタの提供者もさぞ大変だっただろうに――それがよもや、全部彼女の妄想により生まれし産物であったとは、悠も驚くしかない。
(天才っていうのはいるんだな……ちょっとだけ羨ましい、かな)
「そ、それでぇ……手を握ってもらってもいいですかぁ?」
「まぁできる範囲だし常識の範囲内だからセーフってことにしておきましょう」
悠は小烏丸の手をそっと取った。剣聖と謳われてもなんら違和感なきはずの手は、およそ神剣を振るう者とは想像できないほど柔らかくて暖かい。
「こ、これが手を繋ぐ感覚……癖になってしまいそうですぅ」
「大袈裟な……いや、そうでもないか」
「じゃ、じゃあ次はこのまま私と一緒に町を歩いてもらえませんかぁ?」
「要するにデートってことですね――そうですね、あまり遅いと明日にも差し支えますし、戻るついでがてら、のんびりと帰りましょうか」
「は、はいぃ! やったぁ!」
帰路に着くだけをデートと表現するのもいかがなものか。されど当の本人が喜んでいるから、悠は特に気にしないことにした。




