虎と烏
少年――結城悠はひどく狼狽していた。
気が付くとまったく知らない世界がそこに広がっている。鬱蒼とした森だ。
漆黒の空にはぽっかりと白い月が浮かんでいてる。耳をすませば、遠くから梟がホウホウ、と鳴いていた。
「どうして俺はこんな場所に……?」
彼の記憶の最後は、使い慣れた温かい布団へ就いたところで終わっている。
そうなると、次に目覚めた時に彼の視界には、見慣れた天井が映っていなくてはならない。見慣れたものが何一つない。寝間着から普段着にいつの間にか着替えていることもそうだが、今の彼にとっては些細なことにすぎない。
辺りを見回してみる。当然ながら、人の気配は感じない。
「お、俺はどうしたらいいんだ……!」
彼の中の不安が一気に爆発する。
怖い。夜の森には獰猛な獣がいる。それらにもしも襲われてしまったなら……。
全身が打ち震えて、悠は止める術を知らない。とりあえず、両肩を抱いてなんとか落ち着かせようと彼なりに試みたものの、効果はまるでない。とうとう、うずくまってしまった。
きれいな瞳からは透明な雫がぽたぽたと落ちる。誰だっていい、どうか俺を助けてください……! 普段神仏に祈るような性質でない悠も、この時ばかりは藁にも縋る思いであった。
そんな時だ。すぐ近くの茂みから音がなった。
ガサガサ……ガサガサ……――。
何かか茂みからこちら向かってきている。立ち上がって、悠はじっと茂みの方を凝視した。このまま喰われてやるものか。例えここで死んでしまうことになったとしても、最後の最後まで足掻いてやる……! 茂みから出てきた存在と対峙した。
対峙して、悠は目を丸くする。彼の前に現れたのは、獣ではない。人間だ。それも飛び切りきれいな女性。月並みな言葉ではあるが、彼女に対して悠はきれいという言葉以外に何も思いつかなかった。
強いて言うなれば――刀だ。折れず、曲がらず、そして美しい。
ともあれ、念願の人と出会えたことを思い出して、悠は慌てて声を掛ける。
「あ、あのすいません! 実は俺……目が覚めたらこんな場所にいて。どうしてここにいるのかわからなくて……! その――」
「ふむ、どうやら酷く混乱しているようだな。とりあえず落ち着け、ゆっくりと深呼吸をし、乱れた心を鎮めさせろ」
「あ、は、はい」
女性に言われるがままに、悠は深呼吸をする。
吸って、吐く。そしてまた吸って、深く吐く――幾分か心が落ち着いてきた。
改めて女性を見やる。満足げに頷く彼女に、思わずドキリと心臓が跳ね上がった。顔もなんだか熱い。はじめての感覚に再び戸惑うも、悠は女性へと再度尋ねる。
「いきなりですいません。こんなこといきなり言って、訳がわからないと思いますけど――俺、本当に気が付いたらここにいたんです。どうやってきたのかもまったく憶えてなくて……」
「ふむ……それはまた奇妙な話だな。とりあえず、某のところに来るがいい。申し遅れた、某の名は長曾祢虎徹と云う。虎徹と呼んで構わん」
「こ、虎徹さん……。お、俺は――」
「よい」
「あ……」
彼の身体が優しい温もりが包み込まれる。
女性――長曾祢虎徹に悠はそっと抱き寄せられた。
着物一枚を隔てて感じる心音と人肌は、不思議と心を落ち着かせてくれる。何故こんなにも落ち着けるのだろう……初対面なのに。どんな人なのかも、まるでわかっちゃいないのに、今の自分には恐ろしいぐらい警戒心というものが欠如している。この人になら、俺の純潔を捧げたって構いやしないとさえも、思っている。
目が合った。顔が一瞬にして赤くなったのが、自分でもはっきりとわかる。
「あ、あの……!」
「案ずるな。某にすべてを委ねるといい」
「あ……」
「美しい身体をしている……ふふ、まるで赤子のようだ」
「こ、虎徹さん……」
するり、と白い手が服の中へと侵入してくる。
不思議と、不快感はなかった。このまますべてを委ねたい。悠の心は完全に、長曾祢虎徹へと魅了されていた。どうやら俺はこの女性に一目惚れをしてしまったらしい。両親から散々大切にしろと言われていた純潔、今日で失うこととなるようだ――が、悔いはない。
「某の家に行く前に、少しばかりお互いに火照った身体を冷やしいくとしよう」
「お、俺……」
「案ずるな。某にすべてを委ねるといい」
―――――。
――――。
――。
「――いやこれなんですかぁ!」
「何とはなんだ? 某の力作だぞ?」
「いやいやいやでもこれはぁ! う~ん……」
某日、神威、新選組駐屯所にて。
一冊の本を手に批判的な態度を示す小烏丸と、新選組局長たる長曾祢虎徹が対談をしていた。どういう内容かと言うと、小烏丸に触発されて自分も書いてみたから是非読んでみてほしいということだった。
せっかくだからと彼女は快く承諾して――また五頁にして評価を下した。作家の目線からみて、彼女の書いたのは駄作にも等しかった。素人だから、無理もなかろう。しかしながら創作……ないし、起承転結というものをまったく彼女は理解していない。ここは先輩として、小烏丸には指導する義務がある。
「いくらなんでも展開が速すぎますよぉ。悠さんはあの性格ですから嫌がっているところを段々と落ちていくのが読者の心を掴むんですぅ」
「そうなのか? しかし、貴公の手掛けた【桜華刀恋記】も最初はそうだったではないか」
「あれはぁ、そのぉ……確かにそうですけどぉ! でもちゃんと悠さんに密着取材をしたからぁ、今まで以上にもっといいものを書いてますぅ!」
「何? 貴公……悠と会ったのか。しかし、密着取材とはどういうことだ?」
「言葉通りの意味ですよぉ。ちゃんとした作品を書かないと打ち切らせるって言われたからぁ、必死になって結城悠さんを知るために取材をしてきましたぁ。一緒にいることで本当に悠さんを知ることができたからぁ、本当によかったですぅ」
「そうか……して、悠はどうだった?」
心なしか、声が弾んでいる。
もちろん、小烏丸に彼女の質問の意図は汲み取れない。
どう、とはどういう意味か。尋ねられた言葉をそっくりそのまま返す。
「どう……っていうのはぁ?」
「悠のことだ。きっとあの時よりも更に強くなっているのだろう? 某にはわかる。男でありながらもあの男は生粋の剣鬼だ。強くなることに貪欲で、それでありながら人としての心を捨てていない――どうだ?」
「う~ん、虎徹さんがいう前の悠さんを知らないからなんとも言えませんけどぉ。でもきっとぉ、悠さんは強くなってると思いますぅ」
「そうかそうか! それでは次に剣を交えるのが楽しみだな――ではその時までに、某も腕を磨いておかなくてはな。小烏丸、今から少し某に付き合え。貴公もたまには身体を動かさねば毒だぞ」
「……えぇ!?」
からからと笑う長曾祢虎徹に、小烏丸はぎょっと目を丸くした。




