第三十九話:鬼子
上を見やればどんよりとした鉛色で、視線を下ろせばぎらぎらと輝く美しい銀色。
対極すらない両者の存在は、わずかに差し込む光の憎い演出によって幻想的な美しさを描き出す。
それらに見とれる傍らで、身も心も凍て付くような環境は厳しいの一言に尽きよう。日本人である己にとっては馴染みある季節である訳で、しかし彼の中では堂々の最下位に位置づけられてもいた。
さくり、さくりと骨のように真っ白な地面に足跡がくっきりと残されては、しんしんと降る結晶によって埋められていく。ふぅと吐息一つもらしては、無色から白へと変わる二酸化炭素が寒空に静かに溶けていく様を見やり。
「さ、寒い……」
一人、愚痴る。
しかし、すべては目的あってのことだし、本土に冬が訪れればまた似たように愚痴をこぼすことにもなるだろうから、今はぐっと堪えるしかない。――それでも、寒いものは寒い。
「それにしても……これだけ寒いとなると、確かに管理するのも大変そうだ」
耶真杜、弥真白、叢萩、彌廼、琵漸――五つで構成された国が高天原を成り立たせている中で、神威は特殊地方として桜華衆より指定を受けている。
一つ目の理由は、そのあまりに酷な環境下であること。毎年雪が降り続け、四季が失われた大地での適応が極めて難しいこと。
二つ目は、本土からの行き来は船を持ち要らねばならぬこと。海を隔てて位置するので、交通手段はどうしても船を利用せねばならない。
そして三つ目は、新撰組が存在していること――この理由にこそ、悠が本土を離れ最北端の神威へ訪れるすべての切っ掛けであった。
天然理心流――近藤内蔵之助を開祖とし、後に四代目であり新撰組局長であった近藤勇によって知名度はぐんと跳ね上がった。
天然理心流が最強たる由縁は死番制による集団戦法と必殺剣にある。三人から四人でローテーションを組み、内一人が当番制で先頭に立つ……即ち死番を務める。ここから繰り出される臨機応変の集団戦法こそ、彼らが強者として維新志士に恐怖を植えつけた。
先の襲撃者も天然理心流の使い手であった。流れるように敵手に打ち込む草攻剣、挟み撃ちで胴を狙う双龍剣、小狐丸との戦闘では龍尾剣を――どれもこれも、すべて天然理心流の技である。
従って、天然理心流と大きく関わる新撰組がいる地……神威へと悠は単身で赴いた。そこに弥真白を守護する御剣姫守ら――立派な大人を一人加えて――による同行権を賭けた醜い争いが起こったのはご愛嬌だ。まぁ仮に決まったとしても、誰も連れていく気は更々なかったから、悠は現在こうして一人でいるのだけれど。
蒸気機関車で痴女に遭い、波に揺れる船の上でセクハラをされ、いざ到着し雪道を歩き続けて……はて、どのぐらい経過しただろう。
防寒対策をしても体温をすっかり奪われた身体はがたがたと小刻みに震えて止まらない。カイロなんて便利なものは当然持ってもいなければ存在すらしていないし、かと言ってこれ以上の対策と言えば松明の炎ぐらいしかなかった。――その松明の炎も、そろそろ消えそうな勢いだが。
「ほ、本当にこの先に町があるのか……?」
歩けど続くは銀世界。最初こそあった感動も、悪環境の前には遥か昔の感情と成り果てて、現在や生死の危機すら憶え始める始末だ。思考も正常だし幻覚もまだ見えていない。だが、このまま身体が冷やされ続ければ間違いなく低体温症に陥るだろう。その時は最悪、死が訪れよう。
(急がないと……)
既に肉体は疲労に疲労を重ね、休息を取ることを何よりも求めている。もちろん、悠としてもそうしてやりたいのは山々ではあったが、何せ未開の地だ。小狐丸達も把握しきれていない未開の地で、ましてやこの悪環境下で休むのはあまりにも危険が高すぎる。であれば、今は一歩でも多く前に進んで町を目指すのみ。
ふぅ、と大きく息を吐いて悠は前進する。
「あれ? 兄ちゃんこんな所で何してるんや?」
寒空の下で、聞き憶えのある声がした。
ついに幻聴を来たしたかと不安に苛まれながら恐る恐る振り返る。
見知った少女がいた。鉢金と眼帯が特徴的な彼女は、白くもこもことした毛皮の外套に身を包んでいてなんと暖かそうなのだろう。
「お、お前は確か……」
「藤やで。てか一人でどないしたんや兄ちゃん」
「い、いや。ちょっと神威の観光でもしようかと思ったんだけど……予想外の寒さに参ってたんだ」
「あ~、そりゃそうやろ。本土の冬と神威の冬はまるで別モンやからなぁ。そんな格好じゃ、この神威じゃ夏着ですごしとんのと同じやさかいな」
「そ、そうなのか……。藤はどうしてここに?」
「どうしてもなにも、ウチはこの神威出身やからな。こないだ弥真白に行ってたんも、まぁちょっとした観光やったんや……今回は逆みたいやけど」
「現地人だったのか。それなら悪いけど町までの道のりを教えてくれないか? 船着場で聞いた情報を頼りに向かっていたんだけど、一向に着く気配が見られなくてな……」
「よっしゃ! これも仏さんがウチにくれた縁や。町まで案内したる……って言っても、この道をまっすぐ行くだけやけし、後ちょっとの距離やけどな!」
「助かる。そうか、道はあってたんだな……」
心強い助っ人に、悠の顔にも安堵の笑みが浮かぶ。生きて目的地へ辿り着けることへの安心感を糧に、一人ぬくぬくと自慢気――恐らく本人にその意思はなかろうが――に毛皮の外套に包まれる藤の手前、かっこ悪い姿は見せられまいと気丈に振舞う。
(は、早く町で休みたい……!!)
「ん? 兄ちゃんちょっとそこで止まり」
不意に、藤が制止を掛けた。
白い毛皮を纏ったまま、されど彼女の右手は腰の得物に伸びている。抜刀の構え。
そして、はて。この光景をどこかで目にしたことがある。こういう現象を既視感と言って、最近では並行世界からの情報が何かしらの要因で情報が流れ込んだ、なんて疑似科学的説も唱えられている。――結城悠の場合はどうか。
(……そうだ。思い出した)
自分の場合、既に一度経験したことがあるが故の既視感。小狐丸と出会い、初めて鬼なる異形の怪物と邂逅を果たしたあの瞬間。
そんな彼の記憶を呼び覚ますかのように。
「な、なんだあれは……!」
雪の中を高速で這う何かがいる。かなりの大きさだ、数もいる。遅れて悠も抜刀する。
「兄ちゃん気ぃ付けや! 鬼さんのお出ましや!!」
雪が爆ぜた。
冷気を撒き散らし、降り注ぐ雪塊に混じって姿を見せた異形なる者。生きる者の熱を容赦なく奪う悪環境による適応力が導いた進化だろう。異常に発達した筋肉を包む白い毛並みはさながら雪男を連想させて、されど灰色の肌に赤き瞳は鬼の証。
「寒冷地仕様……差し詰め雪鬼ってところか!」
鬼叫が銀世界に確と響く。
四肢が、神経が、魂が、結城悠を形成するすべてが打ち震えた。
討つべき敵が目の前にいる。であれば剣鬼が成すべきことはただ一つ。一振りの刃となりて、か弱き少女を守るために目の前の敵を斬るのみ。左右の星刃が銀河を中空に描く。
「アカンで兄ちゃん! そいつらの毛皮は細かい剣山みたいになってるんや! 毛並みは鉄鍋みたいに硬くて丈夫で並の得物なら逆に――」
金属の感触。されど瞬きの間に肉と骨を両断する、死を掴んだ感触に剣鬼の口元が僅かに緩んだ。鮮血を噴出し、ぐしゃりと倒れた鬼に視線を注ぐ藤の顔は……驚愕しているのだろう。とても面白いことになっている。
「……なんで斬れたんや?」
「心配するな。俺の刀は普通と違うんだ――それより余所見するな、次々来るぞ!」
「そ、そやったわ!」
「ところでなんで例えが鉄鍋なんだ!?」
「なんとなくや!」
雪景色に赤と言う色が添えられていく。原材料たる鬼を切り捨てて、まだ三匹しか斬っていないと言うのに、この身体はそろそろ限界を迎えようとしていた。
「はぁ……はぁ……」
「に、兄ちゃん大丈夫かいな!」
「も、問題ない……」
嘘だ。呼吸はいつもより早くに乱れ、身体は鉛のようにずしりと重い。不慣れな環境が容赦なく悠の体力を根こそぎ奪い去り、こうして未だ刀を握り締めて鬼と対峙している彼は気力のみで己を奮い立たせているにすぎなかった。
悪環境下での長旅による疲れさえなければ今頃はきっと、藤を守り抜き町に着いてゆっくりと休息を取れていたに違いない。
甘かった。認めよう。心象にて雪鬼を、この神威の地を嘲ていた己の浅はかさを認めねばならない。
「兄ちゃん!」
「くっ……」
判断能力が鈍った。怒号に近い藤の声に気付かされた時には、もう目の前まで剛拳が迫っていた。回避――不可能。防御――成功。ただし身体に甚大な被害は確定。次の行動で敗北する確率は……百。
(間に合わない!)
剛拳が鼻先に触れて――結城悠の世界が加速する。
雪景色がざっと流れたかと思いきや、冷たく固い雪の感触が背中に伝わる。
悠はまだ、生きている。鼻先を掠めた程度で彼の顔は中性的な顔立ちをきちんと保っている。では、五体満足である悠が目を丸く見開いているその瞳に何を捉えているかと言うと――。
「堪忍や兄ちゃん。今は……こっち見んといてほしいんや」
「ふ、藤……!」
刀を握り締めて雪鬼と対峙する少女の姿が一つ。歪に歪んだ鉢金と眼帯が遠くに落ちていることと、額から流血している様を見やれば、先の一撃から庇われたと気付くのにそう時間は要らなかった。――それよりも、額の“アレ”はなんだ。瞳の色はなんだ。
尋ねるべきではない。しかし疑問が本能を押し殺して、どうしても。悠は藤に尋ねてしまう。
「藤……その“角”は。それにその目の色も……」
「あ……いや……」
肌色の一部を侵食する灰色。小さくも鋭い突起物が一つ、天に向かって生えている。
眼帯に隠されていた瞳は、血のように赤々しい。
それらは人のものに非ず。今日に至るまでに何匹と、己の手で斬り伏せてきた人外とまるで同じもの。御剣姫守でありながら鬼を宿すもの。混血種……思い浮かべた言葉がしっくりきたことに満足して、されど未だ心中にて渦巻く驚愕と疑問から悠は目が離せなくて――。
「藤っ!!」
額と赤き目を必死に隠そうとしている彼女の隻眼に鬼の姿は映っていない。だから無防備なまでに鬼への攻撃を許してしまい、辛うじて援護に入ったことで事なきを得た。もし悠が後少しでも遅れていれば、今頃藤と言う一振りの刀が無残に折られていた。
「嫌や……ウチを、ウチをそんな目で見んといて……お願い、やから……」
「藤!」
戦闘中であることも、今の藤はトラウマによる恐怖で支配されている。そんな彼女を相手が気遣うはずもなく、ここぞとばかりに苛烈に攻めてくる。――背水の陣だ。
動きをやめてしまった藤と、もう刀を振るうことすらも難しくなってきた自分。相手の数はようやく五体まで減らせた。減らせはしたが、戦況は絶望的と言って差し支えあるまい。このままでは二人とも無残に殺される。
「藤……! お前にどんなトラウマがあるかは知らない。だけどお願いだ、今は俺と一緒に戦ってくれ!」
「お願いや……ウチ酷いことせんから……お願いやから見捨てんといてぇな……」
「くっ……! よく聞け藤! 俺はお前を怖いとは思わない!」
「……え?」
「……俺はお前のことをまだそこまで知らない。だけどこれだけは言える――角があろうが目が赤かろうが、お前は藤って言う一人の御剣姫守であることに変わりはない」
「に、兄ちゃん……?」
「その角と目の色……お前には何かしらの理由で鬼の一部があるんだろう。だけど俺からしてみれば、別にそれだけのことだ。それにいいことを教えてやる、そう言うステータスは希少価値だし、世の中には藤みたいな女の子に萌えるって輩は沢山いるんだ。因みに俺も好きだぞ!」
人外娘――魔でありながら人である。その背徳的姿かつ美しい姿が、数多くのオタクを世に排出した。古くから存在するラミアやハーピィなど、人々に仇名す恐ろしい怪物として描かれてきた彼女達も、平成と言う世になって今やすっかり大人気キャラクターとして人々より認知されている。
各言う悠も、人外娘なるジャンルに目覚めたのは小学校の頃からと極めて早い。たまたまプレイしていたゲームのヒロインが人外娘――ウェアウルフ族の格闘家少女。因みに初恋は彼女である――が悠を虜にしたのがすべての始まりで、その嗜好は彼が成人してからも傍にあり続けている。
御剣姫守と鬼……二つの属性を兼ね備えた藤は、大変希少価値の高い人種だ。混ざり者と彼女を恐れ、罵る輩がいただろうし、彼女らの心情もわからないでもない。
だが、結城悠という男は違う。藤を一人の御剣姫守として認識している彼は不敵な笑みを浮かべて応える。
「お前はお前だ藤! 鬼の一部があろうかなかろうが、俺はお前を怖いとは思わない」
「兄ちゃん……――おおきにな兄ちゃん。そない言われたら、情けない姿見せる訳にはいかへんやんか!」
藤の目に生気が戻った。轟々と燃え盛る炎を宿すかのように、ぎらぎらと輝く赤き瞳は鬼のソレとは対称だ。死と恐怖を与えるのが鬼であれば、彼女の赤き瞳は宝石のように美しく見る者に活力を与える。
「堪忍やで兄ちゃん。かっこ悪いとこ見せてしもたわ。せやけどもう安心してえぇで? こっからは……ウチの本気を見せたるさかい!」
藤が地を蹴った。大地が爆ぜるほどの脚力に驚く間もなく、雪鬼の首が勢いよく飛んだ。
「逃がさへんでぇ!」
藤が更に加速を重ねる。疾風迅雷の剣速に雪鬼達は成すすべなく、その首を少女へと差し出すばかり。その光景に、戦いという言葉を形容するには少々無理がある。どちらかといえば、そう。これは蹂躙だ。既に戦意を失い逃走を図ろうとする者でさえ、藤の刃がそれを許さない。
返り血をたっぷり浴びて、尚その顔に笑みを張り付かせている藤こそ、この時は鬼よりも鬼らしく悠の目には映っていた。
(強い……)
すべてが終わった後で、月並みな言葉とわかっていながらも、しかしそれ以上の言葉を悠は思い付けなかった。
驚くべきは、激しく入り乱れた戦場でただ敵手の心臓のみを一撃で穿つその技量にあろう。とん、と実に軽やかな音が鳴れば、それは死の合図。どこまでも静かに、しかして正確に藤はすべての雪鬼を穿ってみせた。
破壊力に重きを置く加州清光とは正反対の刺突の技量に、悠では真似はおろか足元にも及ぶまい。
(それだけ強いに、どうしてお前は――)
何故実力を隠す必要があった。何故弱いフリを俺の前でしてみせた。悠はそこに納得ができない。
鬼神の如き戦いっぷりと、超高速と技量を垣間見て、悠は一つの結論へと至る。――彼女は今まで手を抜いていた。冷たいものが背中につっと伝う。
弥真白の時も、先程も。藤は己の素性だけでなく実力すらも隠していた。恐らくは鬼としての己を隠すためであろう、だがしかし。真の実力は、なるほど確かに。他者を恐怖させる威圧感がある。
「やっぱり、凄いんだな御剣姫守は……」
「いやぁ、なんや知らんけど。めっちゃスッキリしたわ!」
藤は刀に付着した血をちり紙で拭って鞘に納める。その横顔は、憑き物が落ちたかのようにとても清々しい。
「……えっと、あんがとな兄ちゃん。その……」
「気にするなよ。俺は本当のことを言っただけだし、それに今こうしてお前に助けられた。藤がいなかったら、今頃俺は雪の下で誰にも気付かれないまま眠ってたところだ」
「……なぁ、兄ちゃん。ホンマに、ウチのこと怖くないん?」
再び藤の顔が曇る。不安を孕んだ眼差しで見つめる彼女に、悠は静かに息を吐いた。無論、呆れの溜息である。
「何回も言ってるだろ? 俺はお前を怖いとは思わない。それを言い出したら小狐丸や狐ヶ崎為次だって狐耳と尻尾があるぞ?」
「でも、あの二人は動物やしまだえぇやん。ウチ鬼やで鬼」
「鬼でもいいだろ。別に人に危害を加えている訳でもないんだ。それだってチャームポイントの一つだぞ?」
「“ちゃーむぽいんと”?」
「あぁ、つまり自分の魅力の一つだってことだ」
「魅力……そっか」
「……さてと、そろそろ町へと案内してくれないか? 冗談抜きでこのままだと……さずがにまずい」
「あぁ、せやったな! よっしゃ、それじゃあ急いで町まで行くから兄ちゃんウチに掴まり!」
「……は?」
くるりと背中を向けて身を屈める藤。
一瞬、ぽかんと呆気に取られて……まさか。“そういうこと”なのか。悠は頬の肉を引きつらせた。




