第二十八話:多角関係の中心にいるヒロイン的立場
見慣れてしまった天井が視界に飛び込んでくる。
僅かに開いた窓から差し込む日の光が、朝の訪れを告げてくれる。
今日も晴れらしい。
布団から身体を起こす。
くぅくぅ、と心地良い寝息に悠は顔を横に向ける。
隣を見やれば、三日月宗近が眠っている。
とても安らかな寝顔だ。さぞ、いい夢を見ていることだろう。
自然と笑みがこぼれてしまい、悠は乱れた彼女の胸元を静かに正すと――。
「……なにやってるんだろう。俺」
激しい自己嫌悪に駆り立てられる。
昨晩、三日月宗近の提案で悠は一緒の部屋ですごした。
一つ屋根の下、男女が布団を共にする。
健全だろうと不健全だろうと、性を知る者であれば何が起こるかなど容易に想像が付く。
そうと理解していながら、悠は三日月宗近と寝た。
何もしないから――まるで信用できない台詞に、心なしか邪な考えを抱く表情をした彼女に半強制的に布団へと引きずりこまれたのが現実だが。
決して誘ったわけでも、誘いに乗ったわけでもない。
なし崩し的に一緒に寝た次第である。
そして翌朝を迎える。
何も疚しいことは起こらなかった。
それは紛れもない事実である。
空気を読んだのか、それとも処女であるが故にいざ本番へと踏み出す勇気が向こうになかったか。
三日月宗近の優しい温もりに包まれて、悠はそのまま身を委ねてしまった。
ただ、露となった胸に顔を押し付けるようにして抱き締められるのだけは頂けない。
一線を越えることこそなかったものの、これでは生殺しと言うやつだ。
悠とて立派な一人の男だ。異性からの性的刺激を受けて反応するのは必然である。
それを悟られぬよう、必死に邪念を振り払い続ける夜を悠はすごした。
おかげで満足な睡眠が取れていない。
完全に寝不足だ。欠伸ばかりが先ほどから絶えずこぼれる。
「本当にこの人は……こっちのことも少しは考えてくださいよね」
「なら、今日こそは私と熱い夜をすごしてみませんか?」
カッと三日月宗近の目が見開かれた直後。
腕を取られた悠は強引に引き寄せられる。
抵抗する間も与えられず、三日月宗近の腕に抱擁されて――唇が重ねられる。
一秒程度の短いキス。
しかし、眠気を吹き飛ばすには充分すぎる刺激剤だ。
そして支部にいる御剣姫守達――特に小狐丸には見せられない。万が一見られたりでもしたら、きっと地獄を見ることとなるだろう。
「おはようございます悠さん」
「……起きてたんですか」
「はい。悠さんが目を覚ます十分ほど前に。悠さんが起きるまで寝顔を堪能させて頂きました」
美男美女だから映える寝顔も、平凡であれば普通でしかない。
俺なんかの寝顔など需要などなかろうに。
満足気に微笑む三日月宗近に、悠は小首をひねった。
「それよりも悠さん。まだ朝の挨拶を聞いていませんよ」
「……おはようございます、三日月さん」
「はい。改めまして、おはようございます悠さん。それじゃあもう一度――」
「――もう一度、なにをするつもりなのかな?」
それはまるで、地獄に落ちた亡者に罰を告げる閻魔大王を連想させた。
凄まじい殺気が部屋に飛び込んでくる。
襖を荒々しく突き破った白銀の光が、真っすぐと三日月宗近へと襲いかかる。
眼前まで迫る切先に三日月宗近は、冷静に対処する。
まるで落ちてきた木の葉を掴むように。
小狐丸の殺意の篭った刺突を指で掴み止めた。
「いきなり刃を向けるとは……小狐丸さん。どう言うおつもりですか?」
「それはこちらの台詞だよ――よくも、よくも私の悠に手を出したな! 私の悠を傷物にしたな!」
「酷い言いがかりですね。それではまるで無理矢理私が襲ったようにしか聞こえませんよ。本来であれば覗き見にしていたことを咎めるべきですが、今は返って好都合です――今小狐丸さんが見た現実が事実です」
「ふざけないでもらえるかな! どう見たってあれは無理矢理だった!」
現実を認めさせようとする三日月宗近。
現実を受け入れられない小狐丸。目頭にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「いい加減認めなさい小狐丸さん。悠さんは私を受け入れてくれたのです」
「認めない……認めない!!」
さて、この状況をどう収めるべきか。悠は沈思する。
小狐丸が怒る理由を、改めて確認する必要はない。
三日月宗近とキスをしたことが原因であれば、彼女にも同じことをしてやればいい――などと、考えて実行に移すようなだらしない男ではない。
仮にキスをしたとしよう。
小狐丸の怒りは確かに、収められるかもしれない。
代償に今度は三日月宗近の怒りを覚ましかねない。
ならば己の口からきちんと説明するべきか。
効果的だろうが、その先に待つものが地獄であることを覚悟せねばならない。
今の小狐丸は危険だ。
事実を突きつけられた絶望と、やり場のない嫉妬と怒りから理性が振り切れれば――。
「悠!」
「は、はい!」
突然向けられた矛先に、悠は反射的に姿勢を正した。
ずかずかと小狐丸が近付いてくる。
胸倉を乱暴に掴まれる。
暴力を振るうつもりか。悠は歯を食いしばる。
そして――。
「んぐっ!?」
唇に彼女の唇が重ねられた。
三日月宗近のキスは優しくて、心が安らぐものだった。
対して小狐丸のキスは強引だ。
まるで自分の物だと周囲に知らしめるように、奪われた物を取り返すかのように。
乱暴で、だけどどこか健気な。そんなキスを悠は静かに受け入れる。
正確には受け入れるしかなかった。
小柄な体格に似付かない怪力で、決して逃がすまいと身体をしっかりと抱擁している。
もがけばもがくほど、どんどん力は増して食い込んでいく。
このままでは絞殺されかねないと判断し、悠は諦めることを選んだ。
口腔内に侵入した|小狐丸の舌が蹂躙する。
激しく唾液が混ざり合い、僅かな隙間からそれが溢れ出す。
ふと視界の端に映った三日月宗近は、般若の形相を浮べている。
この後、どうやって彼女を宥めるべきか。今はそちらに思考を働かせることにした。
そうこうしている内に、ようやく小狐丸の唇が離れる。
甘い吐息をもらして遠ざかる小狐丸。
瞳に映る彼女は、どこか強い決意を秘めた表情を浮べている。
「私は悠が好きだ。ただ単に男が欲しいからじゃない、真剣に心から愛してるんだ。出会って、君にこうして一緒にすごして、どんどん結城悠と言う一人の男に惚れてしまったんだ。だから絶対に君を私だけの物にする。君を三日月宗近から取り返してみせる!」
「取り返すとは心外ですね――悠さんと私はもう相思相愛なのです。いくら姉妹だからと言っても……いえ、姉妹だからこそ貴女に譲るつもりは毛頭ありません。悠さんは渡しませんよ小狐丸さん」
交わる両者の視線の間で、火花が散っているように見えた。
これは、とりあえず丸く収まったと判断していいのだろうか。
だとすれば流血も警察沙汰にもならずに済んでよかった。悠は安堵の息をもらした。
時刻は正午。
太安京に限らず、世間は昼食時だ。
家で自炊する者、外に食べに行く者、今から食料を取りに行く者と――食事係である悠は今日も小狐丸達の食事を作る。
いつもより一人分多く作って食卓に運び、さて楽しい食事が始まるかと思いきや。
こんなにも重い空気の中で取る食事は、はていつ以来だったか。悠は意識を過去へと遡らせる。
まだ父親が生きていた頃。
武術と結城家のことしか頭になかった父親がいる食事は、いつも喉が詰まりそうだった。
まるで楽しくない。栄養摂取だけを目的にした食事から解放されて早数年。
異世界でよもや再び味わうことになるなど、誰が思おうか。
誰一人として喋ろうとしない。
いつもならなにかと絡んでくる姫鶴一文字達も、今日ばかりは談笑を一切交えようとする姿勢が見られない。
それは悠の隣を陣取る三日月宗近とて同じだった。
高天原にいた時はそんなことはなかったと、悠は記憶している。
だからこそ食事に集中している三日月宗近に違和感を抱かざるを得ない。
「……それで悠さん。この後はどうされますか?」
不意に、三日月宗近が静寂を切った。
恐らく、与えられている任務のことだろう。
自由奔放に生きている御剣姫守の勧誘はまだ継続中だ。
鬼の被害がまだ出ている以上、戦力の強化は必要だ。それを心配して三日月宗近は尋ねたのだ。
きっとそうに違いない。それ以外でないことを悠は祈った。
「また町に出て御剣姫守の勧誘に行きます。怪我はもう治ってますし、動かないと身体はすぐに鈍ってしまいますからね」
「いえそうではなくて、挙式についてです」
瞬間、室内の空気が凍った。
湯気が昇り温かな食事も、まるで冷凍食品を口にしているかのような気さえする。
それほどまでに、三日月宗近を除く乙女達の殺気が放出された。
「どういうつもりかな三日月宗近。私の聞き間違えじゃなかったら、君は今挙式と言ったのかい?」
「えぇ、言いましたよ小狐丸さん。それがなにか?」
「……悠は私の物だよ」
「貴女の物ではありません」
「お、お兄様は姫だけ……じゃなくて、姫達のお兄様です!」
「アニキはお前のじゃないぞ!」
「三日月のばーかばーか!」
「兄者は絶対に渡さん!」
猛抗議する姫鶴一文字達。
しかし、烏合の衆とばかりに三日月宗近は平然とした態度を貫くまま、朝食を一人食べる。
「何度も言いますが悠さんは私を選んだ……これが不動の事実である以上、貴女達が介入する隙間は微塵たりともありません」
「正妻気取りでいないでもらえるかな!?」
とうとう、悠はその場から逃げ出した。
殺伐した中での食事など耐えられない。
かと言って下手に仲裁に入れば、全員の矛先が自分へと向けられる。
三日月宗近を少しでも受け入れてしまったのは事実であるし、かと言って一時の迷いで本当はそんな気などなかったと本人に言えるはずもない。
全てを器用に捌き切るだけの自信など、最初から持ち合わせていない。
故の逃走である。
零姫村正を討つ前に、俺が御剣姫守達に殺されるかもしれない。
ありえるかもしれない可能性を想像して、背筋に冷たいものが走る。
全てが終わったら、どこか遠くへ旅に出てみるのもいいかもしれない。
そんなことを、悠はふと考えた。




