22.宮地と酒場と銃撃戦(前編)
宮地と義維と千風の話。
前・中・後編の3話でひとまとまりです。
とある日。夜。
風呂上りの義維が自室のドアを開けて中に入ると、千風が布団の上をころころと転がっていた。耳に端末を当ててなにやら楽しげに話している。
その動きがぴたりと止まり、
「むー?」
大きく首を傾げる。
『だぁー、もう!!』
電話の向こうからの癇癪じみた大声が、義維の耳にまで届く。聞き覚えのある声に、義維は千風の横にすとんと腰を下ろして聞く。
「ちー、電話、宮地さんか」
「う!」
大きくうなずき、布団の上で海老のように飛び跳ねる千風。
『あ、何、誰さん?』
「ぎぃちゃん戻ってきた」
『え、まじで? じゃあさ、ちょいとちーさん、お電話、ぎぃちゃんに替わってよ』
「ん!」
千風はすぐに端末を差し出す。義維は少し居住まいを正して。
「……もしもし、ご無沙汰しております。義維です」
『よぉぎぃちゃん、あのさぁ聞いてよ、ちーに言っても通じなくってさぁ』
やけに甲高い宮地の声。上機嫌と言うよりは酔っているのか、と義維は壁掛け時計を見上げる。そろそろ千風のいつもの就寝時刻。
『携帯にちーのこと「ちー」って末尾にハートマーク付きで登録してたらさぁ、ヤった女に見られて「どこの女よ!」っつーから、ついはぐらかしちまったら本命かって誤解されちって、なんかこじれてちょう修羅場! 想像してみ、よりによって、ちー中心に、今どろっどろの修羅場!』
「……はぁ」
『そいつがめんどくせーやつでさ、そこらじゅう嗅ぎまわって騒ぎ立てたせいでさ、昔の女とかも出てきてさぁー。はは、もうちょっと酔ってたら、確実に腹に刺さってたね!』
義維は何と言うべきか迷って。
「……おつかれさまです」
ぎゃはははは、と上機嫌な笑い声が返ってくる。
『ぎいちゃんリアクションうっす! ひっでぇ!』
ばんばん、と何かを叩くような音。
『なぁ、ぎぃちゃん酒は? クスリはイケる人?』
「どちらも摂取できますが、ご期待には添えないかと」
『あん?』
「ザルなので」
『あっは、いーよ、大体想像通り! いいね、じゃあ行こうぜ、ガキでも入れるトコ知ってんだ』
別の端末に向かって「よう、今から三人なんだけど入れるー?」と予約する宮地の声が聞こえて、
「……今からですか?」
『――あ゛ん?』
急遽、ドスの利いた声。
「……いえ、すぐ行きます」
義維は乾いたばかりの髪を振って立ち上がった。
***
闇夜にきらめく繁華街のきらびやかな明かりを、千風が物珍しそうに見上げる。その手を引いて義維が待ち合わせ場所にたどり着いた直後、宮地が近くのバーの入口扉から、グラスを持ったままでふらりと出てきた。後ろからバーテンらしき青年に呼び止められて、そこで手に持ったままのグラスに気づき、げらげら笑いながら返している。
「みゃーじー!」
酔っ払いと客引きばかりの往来に、とつぜん甲高い女児の声。周囲の人間が何人か、不思議そうな顔で振り向く。
両手をポケットにつっこんだ宮地が、細かなひびの入ったアスファルトの上をゆっくりと歩いてくる。
「こんばんは」
そう言って義維が一礼するのに、宮地はオカタイねぇとにやりと笑って、
「すぐそこの店だ、行こうぜ」
旧駅側の通りをあごで示して、さっさと歩き出す。
「みゃじ、よっぱらい?」
その隣に駆け寄って並んだ千風が、宮地のジャケットのすそを引いて聞く。
「おう。何かあったら頼むぜ、ちー」
「ん。ぶかのひとは?」
「部下? ああ、あいつら? 一緒に店入っても俺の警護のためとか言って飲まねぇからつまんねーの、だから置いてきた」
ということは俺も飲まないほうがいいのか、と二人のすぐ後ろを歩く義維が考えた直後、その思考を読んだようにくるりと宮地が振り返って、どぎつい笑顔を浮かべる。
「つまんねーこと考えてたら、度数60度、ストレートで鼻から飲まっぞ、ぎぃちゃん?」
「……口から飲みます」
どうせザルだし良いか、と結論付けて、ふたたび楽しげな会話に花を咲かす二人の後ろで、そっと息をもらす。
「着いたぜ、そこだ」
宮地の声に前を向く。
白い扉の両側に立っていたドレス姿の女性二人が、宮地を見つけて笑顔で手を振る。片手をズボンの尻ポケットに突っ込んだまま、宮地が気安くもう片方の手を挙げる。
「いらっしゃいませ、宮地さん!」
はしゃいだ声の二人が扉を開けてくれるのに、宮地がさらっと礼を言って明るい店内に足を踏み入れる。
「宮地さん、いらっしゃいませ。あら、可愛いお客様もご一緒なのね」
ロングドレスの女性がゆったりと微笑んで出迎える。彼女の耳元できらきらと揺れる大ぶりの宝石を、千風の両目がじいっと追う。
「わーわーかわいい。宮地さん、どしたのこの子!」
茶髪の髪をふわふわと揺らした別の少女が、店の奥から飛び出してきてロングドレスの女性の背中に引っつく。膝上丈の、ドレープの多いスカートがふわんと広がって、すぐにまとまる。
「知り合いの子。ちっと世話することになってさ」
宮地の手が、千風の頭の上にぽんと置かれる。
「で、後ろのこいつは後輩。ブアイソだけど良い奴よ。構ってやって」
しれっと嘘をつく宮地に合わせることにして、義維は黙って頭を下げる。
こちらにどうぞ、と案内された革張りの黒いソファのど真ん中に、宮地がどっかりと腰かけて足を組む。その途端、千風がおお、と歓声を上げて宮地の脚を指さした。
「みゃじ、くつした、しましま!」
「ん? おう」
ズボンの裾からのぞく、原色オレンジと赤の鮮やかな靴下を見せるように、宮地のふしばった手がスラックスの裾をぐいと上げてみせる。
「みてみて、ちーも!」
千風がそう言って片足立ちになって靴下を見せようとしてすっころびそうになるのを、脇から手を出した義維がひょいと持ち上げた。宙に浮いた千風の両足から手早く靴を外すと、宮地のすぐ横にすとんと下ろす。
両足を揃えてちょこんと行儀良く座った千風が、嬉しそうな顔で自分の両足を揺らしてみせる。パステルブルーと水色のボーダーがひょこひょこ揺れるのに、宮地の目がゆっくりと細められる。
「んーとだ。おそろいだな」
「んー!」
「ぎぃちゃんも、そうだな、黄色とか履いたらどう?」
義維の黒無地の足元を指さす宮地に、義維は「落ち着くので」と可愛げのない返答。えー、と宮地が不満そうな顔をする。
しつれいしまーす、と明るい声で言って、着飾った女性が数人、ソファに座る。千風はすぐ隣に座った金髪の女性をじっと見上げた。千風の視線に気づくと、背を丸めて視線を合わせて、にこりと微笑んでくれる。
「こんにちは。お名前は?」
「ちー!」
「ちーちゃんね。私はレイナ」
千風は女性の長いまつげと、鮮やかな色の唇をじっと見て、それから。
「おねーさん、おっぱいおっきい!」
「げっほ!!」
千風の横に座り別の女性と歓談していた宮地が、盛大に吹き出した。
「わはは、そうな! ちょうどちーの目の高さだよな、丸見えだもんな、そりゃ目ぇいくよな! 良かったなレイナ、ほめられたぜ」
「あはは、ありがとちーちゃん」
「う?」
きょとんとしている千風。
「ははは、ぎぃちゃん真顔ー」
宮地が義維を指さして笑う。
人数分の空のグラスと、山盛りの氷の入った銀色の氷入れがローテーブルにそっと置かれる。
「ちーちゃん、何飲む?」
レイナが言うなり、千風は途端にげんなりした顔になって。
「……ちー、苦いのやー、です」
宮地と義維が無言で目を合わせる。
「……10歳に酒飲ませんなよ十堂の奴」と宮地。
「ちー、大丈夫だ、甘いのもあるぞ」と義維。
レイナが笑顔でうなずいて、指折り数えてメニューを思い出す。
「えっと、オレンジジュースとコーラとジンジャーエールがあるかな」
「しゅわしゅわはね、ゆっくり飲むんだよ!」
「ふふ、うん。炭酸も飲めるんだね」
「せっかくだから割ってもらったらどうだ」
義維の提案に、宮地が「いいねぇ」と笑う。
「ちー、割らない!」
千風が慌てて言って、空のグラスを両手でしっかり持つ。
「ん?」
宮地がけらけら笑う。
「その『割る』じゃねぇよ。んーとな、たとえばな、オレンジとしゅわしゅわを混ぜて、もっと美味しくすんだよ」
「う?」
「やってみせたほうが早ぇな。レイナ、なんか適当につくってやって」
「はーい。じゃあ、オレンジ系にしよっかぁ」
ストーンのちりばめられたピンク色の爪先が、グレナデンシロップをゆっくりと注ぐ。マドラーを斜めに差し入れ、それに沿わせるようにして、そっとオレンジジュースを流し入れる。
「はい、できたよー」
レイナが言うなり、千風はするりとソファから下りると、目をきらっきらさせてローテーブルにしがみつく。至近距離でグラスを見つめ。
「ぎぃちゃん、みゃじ、見て見て、にじー!」
「おぉそうな、虹な」
ロックのウイスキーを注文しつつ、宮地が笑う。
「ジュース割ると、にじ!」
「世紀の大発見だな、ちーせんせ」
「これ、ちーの?」
そわそわする千風に、「どうぞ」とレイナがうなずき、
「いただき、ます!」
「あっ待てちー、こういうときは乾杯すんだよ」
宮地が千風の動きを制止して、ソファの後ろを振り向きロングドレスの女性を呼び寄せ。
「こちらのぎぃちゃんには、アレ出してやって」
「あら」
度数も価格も高い有名な酒の名を告げた宮地に、義維が眉をへの字に下げる。
「ですから、もったいないと……」
「へーき、ホレ、臨時収入」
ばさり、と投げ出された帯封つきの札束がローテーブルに載る。
「あらあら」
見慣れているらしい女性がそれを見て慎ましやかに微笑み、同じく見慣れている千風が平然と言う。
「みゃじ、荒稼ぎー」
「お、良い言葉知ってんな」
革靴を履いたままの足をローテーブルに乗っけて背中を伸ばし、義維に運ばれてきたグラスを見て身を起こす。
「ちーグラス持てる? そいじゃ、かんぱーい」
「かんぱーい!」
「そうそう」
宮地が美味そうにグラスを傾ける。
しばらく楽しげにレイナと会話していた千風が、突然はっとなって横を振り向き、
「ぎぃちゃん、ちー、ぎぃちゃんの横がいい」
あわてたように言って、レイナの膝をまたごうとする。グラスを置いた義維が顔をしかめ。
「こら、ちー、人の上を」
「大丈夫ですよー。ごめんね、レイナが間に座っちゃって」
レイナは千風が通りやすいようにしてやって、宮地のほうに一人分座る位置をずらした。義維が短く礼を言う。千風はレイナと義維の間にすとんと座って、飲みかけのグラスを再び受け取って両手でぎゅっとつかみ、満足そうな顔をする。
義維がグラスを傾ける。喉仏が上下するのを千風の両目がじっと見上げて。
「ぎぃちゃん、それ、苦い?」
「かなりな」
少し考えた義維が、好奇心に輝く少女の顔に飲みかけのグラスを近づける。それだけで漂ってきたアルコールのきつい匂いに、ぐぐっとしかめっつらになる千風。
「おいしい?」
「ああ」
「……ぎぃちゃん、おかしい!」
「おいおい、それ人気の酒なんだぜ、ちー」千風の断定に、談笑していた宮地が振り向いて言う。「まぁ普通ものすごく水で割って飲むんだけどな」
ストレートで平然とグラス半分まで飲み終えている義維をちらりと見ながら、からかうように言う宮地に、あきれた目を向けて義維の反論。
「絶対に割るな一滴も薄めるなと注文したの、宮地さんでしょう」
「そーだよ、なんか文句ある?」
「……いえ」
あきらめて首を振る義維。
二人のやりとりをぼんやりと聞いていた千風が、
「あ」
何かに気づいて、急にそわそわし始める。
「……ああ」
千風の視線の先にあるものに気づいた義維が、千風のグラスを取り上げるとその背をレイナのほうにそっと押し出す。きゅっと唇を引き結んだ千風が意を決して、酒を作っていたレイナの腕をつんつんして、
「ん? なぁに、ちーちゃん」
「あのね、み、みつあみ、できますかっ」
「ん? みつあみ? ああこれ?」
左の耳の上にだけ作った細い編み込みを、レイナの指がなぞる。
「できるよー、これ自分でやったの。ちーちゃんにもやったげよっか?」
じわじわと千風の顔が赤らんでいき、きゃー、とわめきながら、ソファの上をごろごろと転げ回る。
その様子をみんなで笑う。
レイナから受け取った三杯めのグラスを傾けつつ、へぇ、と宮地が片眉を上げる。
「ちー、おさげ好きなんか」
「この前「やって」とねだられたんですが、器用な奴がいなくて」
義維が答えるのに、
「女っ毛っつうか色気のねぇエンライだな」
宮地に吹き出されて、義維は黙るしかない。
レイナは別の店員にクシを持ってくるように頼んでから、千風に向き直り。
「さて、どんなふうにしよっか。二つ分けのおさげがいいかな?」
「おねーさんとおそろいがいい!」
即答する千風に、レイナがうれしそうな顔をする。
***
トイレから戻ってきた義維が、
「お、お帰りー」
へらっと笑った宮地がさっと後ろ手に何かを隠すのを見咎めて。
「宮地さん?」
「みてみてぎぃちゃん!」
「あっこら言うなちー」
あわてる宮地をさしおいて、千風がうきうきとつまんだパチンコ玉を掲げて見せる。照明をよく反射する鉛玉に映りこんだ満面の笑み。
「良かったな、宮地さんにもらったのか」
「ううん、交換!」
「交換?」
「ん!」
テンション高めの千風がポケットからじゃらりと出してローテーブルに転がしたのは、千風が溝を刻んだお手製の特製銃弾。先日知れたことだが、かなり高価。もちろん、パチンコ玉となんて金額的につりあうはずもなく。
「……宮地さん」
義維が呆れ顔で小さく言うのに、宮地は「見つかっちった」と悪びれずに舌を出して。
「いいじゃん、売買契約はきちんと合意の上なんだし? ね、見逃してよぎぃちゃん。今週ちっと入り用でさぁ」
「……」
パチンコ玉をテーブルで転がして楽しげに遊ぶ千風を見て、少し考えてから、義維は「良かったな」と千風に声をかけた。
「う!」
「あ、ちーちゃん、チョコ食べる?」
ボーイが持ってきたツマミの中からレイナが聞くのに、ぱあっと顔を輝かせる千風。
きらきら光るピンク色の指先が、チョコを包む銀紙をぺりぺりと剥く。
「はい、どうぞ」
「ありがと!」
千風は両手でそれを受け取る。
――と。
「全員動くな!!!!」
室内に響き渡る突然の怒号に、全員の肩がびくりと震える。
――発砲音、というよりも砲撃音。
がらがらと何かが崩れる音。グラスの破片が飛び散る。そこかしこから男女の悲鳴とどよめきが上がる。
薄暗い部屋の一角がもうもうと煙を上げ、通路を照らしていたいくつかのスポットライトの光が線状に浮かびあがる。
再び断続的な発砲音。飛び出た薬莢が弾ける、甲高い金属音。
倒れたソファの裏側に反射的にしゃがみこんだ義維は、首根っこをつかむ前に俊敏に消えた千風の姿を、視線の先に捉えた。太めの柱を背にして片膝を立てている千風は、既に装弾を終えた拳銃を顔の横に構えている。
「ちっ、めんどくせぇーっ」
その奥、黒い絨毯敷きの床に座り込んで、開いた足をじたばたと子どものように揺らす宮地の姿も見えた。宮地のかかとの下で、ガラス片が割れてぱきぱきと鳴る。左右に抱えた女性二人を、なだめるようにぽんぽんと背中をたたきつつ。




