第1話:『死んで詫びろ』の3秒後
「死んで詫びろ、シセル!」
大講堂の天井に、よく響く声だった。
学園の卒業パーティーという晴れの場である。シャンデリアの下で、着飾った生徒や教師、貴族の親たちが一斉にこちらを見た。
壇上に立つ第一王子ローレンツ殿下は、泣きじゃくる男爵令嬢コレットの腰を抱き、私を指差していた。
「コレットが王宮の階段から転落したのは事故ではない。お前が背中を押したのだ! 踊り場から立ち去る姿を、複数の令息が見ている。嫉妬に狂って罪なき者を害するなど、未来の国母たる資格はない!」
彼はそこで、私が泣き崩れるのを待った。
私はいっそ感心しながら、その男の顔を見ていた。
青い礼装。襟元の金糸の刺繍。
昨夜、私が王宮の裁縫室に張り付いて、仕立て屋と直したものだ。袖が気に入らない、襟が気に入らないと、本人が前日になって言い出したせいだった。最後の針を抜いたのは深夜二時半。部屋へ戻って、三時にようやく寝た。
五時半には起きて、今日の式典で彼が読む祝辞を清書した。文法の破綻を直し、息継ぎの位置に印までつけておいた。
その原稿は今、彼の胸ポケットから角を覗かせている。
「何か言い訳があるなら聞いてやろう。だが、どのような嘘を吐こうと無駄だ」
聞いてやるのか、聞かないのか。
以前なら、そんな矛盾まで私が取り繕っていた。
コレットが、ローレンツの胸に顔を埋めたまま、ちらりとこちらを見る。
額に貼られた湿布と、片足に巻かれた包帯。私がその傷を疑えば、殿下はますます怒るだろう。実際、転落直後に事情を話そうとしたときは、傷ついた彼女を責めるなと一喝された。
今度は、人を集めて同じことをするつもりらしい。
七歳で婚約者に定められてから、十年。
初めは一緒に文字を習うだけだった。それが祝辞の下書きになり、嘆願書の整理になり、いつの間にか王太子府の仕事が私の机に積まれるようになった。
失言の後始末に重臣の屋敷を訪ねた夜も、帳簿が合わずに朝を迎えた日もある。
殿下を助けるのは、将来のお妃様のお役目でしょう。
そう言う大人たちは、私が助けを求めると忙しそうに目を逸らした。
「シセル! 聞こえなかったのか!」
聞こえている。
講堂にいる誰もが、聞いた。
私は腰元の隠しポケットに指を滑り込ませた。そこには、眠れない日が続いていた頃から持ち歩いていた小瓶があった。
危険なものだと知っていた。手放すべきだということも。
それでも、この場から逃げる方法が、それしかないように思えてしまった。
ローレンツは本気で私に死んでほしいわけではない。
十年も付き合っていれば分かる。謝罪して、泣いて、すがればよかったのだ。そうすれば彼は、皆の前で寛大な婚約者の顔をする。
私はもう、その顔を見たくなかった。
「ローレンツ殿下」
声は震えなかった。
ポケットの中で、指だけが冷たくなっていた。
「これまで、不行き届きの数々――」
いつもの謝罪を言いかけて、口を閉じた。
せめて一度だけ、私の話も聞いてほしかった。
「今のお言葉、取り消されませんか」
「取り消す? なぜ私が! 反省する気がないのなら、死んで詫びろ!」
そこからは、三秒ほどだったと思う。
瓶を取り出した私を見て、教師が席を蹴った。制止する声を聞きながら、私は中身を飲んでしまった。
「おい、シセル!?」
ローレンツの顔から、笑みが消えていた。
手を離れた瓶が、足元で砕けた。
喉が痛い。
息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
思っていたように、何もかもが静かに終わるわけではなかった。
「な、何を飲んだ。そんな芝居で同情を引こうとしても――」
続きは聞こえなかった。
膝が折れ、絨毯に手をつこうとして間に合わなかった。周りの人たちの靴が、妙に近い。
嫌だ。
苦しい。
今朝のパンを、もう一口食べておけばよかった。
そんなことを思うくらいなら、最初から瓶など持ってくるべきではなかったのに。
「医官を呼べ! 早くしろ!」
「誰か、あの子の家族に!」
「走らないで! 出口を塞がないでください!」
椅子の倒れる音に、悲鳴が重なる。
コレットがローレンツの袖を引いて何か言っていた。彼は私を見下ろしたまま、動かなかった。
助けて、と言おうとした。
喉から漏れたのは、言葉にならない息だけだった。
講堂の扉が大きく開いた。
「どけ! 道をあけろ!」
人の足の間を、黒い軍靴がこちらへ向かってくる。
すぐ隣に誰かが膝をつき、私の顔を覗き込んだ。薬草と、乾いた紙の匂いがした。
「何を飲んだ! 瓶に触るな、そのまま残せ! 医務室の者はどこだ!」
「あ、アルトハイム公爵。違う、俺は何も。あいつが勝手に――」
「貴様の言い訳は後だ!」
銀縁の眼鏡の奥で、灰色の瞳が動いた。
宮廷首席医官、ディートリヒ・フォン・アルトハイム。
社交界で氷の刃と呼ばれる男だった。
非番だと聞いていたのに、どうしてここに。
「シセル。聞こえるか」
彼はさっきまでの怒声を抑え、私の名を呼んだ。
「今から助ける。私の声を聞いていろ」
返事をしようとした。
けれど唇が動かない。冷たい床に触れているはずの指先も、もうどこにあるのか分からなかった。
「シセル!」
その声まで遠くなる。
私は彼の袖を掴みたかった。
暗くなる前に、たったそれだけができなかった。




