第55話 転生乙女、前日譚の戦場へ
「急に冷え込んできましたね」
「そうね。降ってくるのかな?」
私の名前は『シーラ・デ・エマ・スクリブン』という。
茶色の髪に、黒い瞳。東方領の僻地で三つの村を治める男爵家の一人娘だ。
そして、この世界の『主人公』でもある。
そう、私が前世でハマっていたファンタジーRPGの乙女ゲームの世界に転生したヒロインなのである。
気づいたのは、この世界の母親からオギャーと生まれた十四年前。
なにせ、何度も周回プレイを重ねていたおかげで、父や母の間で交わされる固有名詞の数々に、聞き覚えがありすぎたのだ。
そして確信に至ったのは、五歳の時。
今、私が乗る馬の手綱を引く、一歳年上の黒髪で茶色い瞳を持つ男、『アール・クリフ』が乙女ゲームのように私の従者になった瞬間だった。
もちろん、隣にいるアールは、現実の顔をしていて、乙女ゲームのアニメ絵とは違う。
だが、ひと目で将来は甘いマスクになりそうなタレ目の少年がアールだと、魂で分かったのだ。
「俺、軍略に詳しくないですけど……。これって、あれですよね?」
「まあ、そうなんじゃない?」
前世の死因は、火事だ。
たまには幼馴染の剣道馬鹿が好物にしていた天ぷらを作ろうとした。
ところが、跳ねた油が腕に当たり、その熱さでつい天ぷら鍋を箸でひっくり返してしまった。
ずっと前、私は『家事手伝い』という名の引きこもりが災いして、実家から両親に追い出されていた。
距離にして100メートルほど先の隣家。その間には、田畑しか広がっていなかった。
居候中だった幼馴染の家は古民家で、火の回りは驚くほど早かった。
消火が間に合わず、あっという間に家は炎に包まれた。
それなのに、私ときたら大馬鹿だ。
仏間に走り、幼馴染が尊敬していた祖父の位牌を持ったまでは良かった。
だが、次に自分の部屋へ向かった。
何を持っていくかさんざん迷った末、乙女ゲームと、それを遊べるゲーム機を手に取った。
多分、それがこの世界に転生した理由なのだろう。
確実に言えるのは、寄り道していなければ、助かる可能性もあったということだ。
なぜなら、私は居候のくせに一番奥の一番良い部屋を選んでいたからだ。
それも古民家特有の、大きな空間を襖で仕切って部屋を作る造りだったため、隣接する二部屋には工夫を施した。
片方はタンスを並べて擬似的な壁を作り、もう片方は物置にして使った。
物置の惨状を見た幼馴染に『少しは整理しろよ』と何度も言われるたび、私は『女の部屋を勝手に覗くな!』と押し返していた。
そのせいで、部屋まで続く足の踏み場は辛うじて残る程度だった。
工夫の名目は『だって、あんたは男で、私は女だから!』という勝手なもので、要するにプライベートを厳重に守るためだった。
しかし、よく考えてみてほしい。
幼馴染の祖父が健在だった頃は三人暮らしだったが、その後は男一人暮らしになり、そこに私が居候していたのだ。
いくら気心の知れた幼馴染でも、好きでもなければ一緒に暮らすはずがない。
私は、小学生の頃に初恋に気付いて以来、ずっと幼馴染が好きだった。
だが、幼馴染は子供の頃から剣道一直線の馬鹿だった。
私の胸が膨らみだしても、おしゃれをして着飾っても、中学や高校で『誰々と付き合っている』と噂されても、彼は私にまったく目を向けてくれなかった。
私はずっと待っていた。
いつか、幼馴染が夜、躊躇いながらも私の部屋を訪れるその時を。
それこそ、いつか使う日を信じて、勝負下着を用意していた。
幼馴染が密かに好んでいた猫耳や尻尾、メイド服も、ネット通販でこっそり揃えていた。
その幼馴染が今どうしているのかは、私には知る由もなかった。
物置で足を躓き、幼馴染の祖父の位牌を手放してしまった。煙に巻かれ、私は意識を失った。
幼馴染は家から少し離れた畑で農作業をしていたはずだ。
彼が火事に気づき、私を助けようと無謀な突入をしていないことを。ただ、それだけを祈るしかなかった。
「……どうします?」
「多分、平気よ」
東方領の貴族としての義務を果たすため、私はこの地に馳せ参じた。
でも、風邪で床に伏す父に代わって陣代を務めると決まった時点で、この戦はすでに負け戦だと知っていた。
だって、この戦いこそが、乙女ゲームの前日譚なのだから。
この戦いののち、私は『聖女』と讃えられる。
その結果、今年の秋に入学するオーガスタ学園で、同い年の第二皇子の目に留まるきっかけとなる。そこからが、乙女ゲームの本編の始まりだ。
だから、乙女ゲームのヒロインの私と、実は攻略対象の一人でもある従者のアールは、絶対に死なない。
その強い確信があった。
しかも私は未成年の女であるがゆえに、最前線から最も遠い位置に配されていた。
その安心感もまた、確信を後押ししていた。
ゲームでは前日譚はあっさりと済まされ、『絶望的な戦いだった』とだけ記されていた。
その一言の裏に、どれほどの命が失われたのだろう。
『たくさん』で片付けられる数ではない。そう思えば、胸の奥が重く沈んだ。
それに、私は知っていた。
この戦いの総大将、第一皇子『テオ・デ・ツバル・レスボス・アルビオン』が、ここで戦死することを。
身分が違いすぎて、今も遠くから横顔をみることしかできない。会話さえ、到底望めない。
それでも、唯一確定している死を回避すべきではないか。そんな思いが胸の奥でざわめく。
けれど、その確定した死を覆せば、私の未来までもが音を立てて変わってしまうかもしれない。
心は恐怖と期待に引き裂かれ、私は目を逸らすしかなかった。
「我が名はメアリス!
東方領、リリアンの生まれにして、ウォースパイト侯爵家が長女! メアリス・デ・リリアン・ウォースパイトだ!」
そんな憂鬱を抱えている最中、激戦が繰り広げられる最前線の奥、戦場の向こう側に巨大な氷柱が現れたかと思ったら、冷たい風に乗って、知っている名前が届いた。
この戦いに絶対いるはずのないその名前に、私は思わず目を見開き、間抜けな声を漏らしてしまった。
「……へっ!?」
彼女こそ、第二皇子の婚約者にして、悪役令嬢。つまり、ヒロインである私のライバルだった。




