二十一
「なっ、なんてことを……っ、ぶっ」
突き出てきた蛇の頭を着物におしこみ、灰をかき混ぜるように泳ぐ。その一瞬で本土側一帯の海が夜のように黒く濁った。
「さあ、三葉姉様は、みんなを呼んできて……!」
「わかった」
「イサ、あとは頼んだよ」
「頼まれた」
一瞬だが、みつめあったその瞳は王にふさわしい光をぎらつかせていた。チセは彼を信じてよかったと、ふと笑みを浮かべ、すぐに海へ集中した。
内海から黒い高波が静かに押し寄せている。
「巳の神よ。勝手をしたこと、先に謝っておく」
チセはこれから巳の神に知らせていない、大勝負に出る。
旅立つ前に、火の大切さを島民へ知らせておくべきだと思ったのだ。それに島民の、芥の子への恐怖をそのままにして、旅立つことはできない。いつかの自分のように、罪のない誰かが犠牲になっては堪らない。
また自身が、島民たちに恨まれようとも。
「巳の神?」
返事がないまま高波は目の前で、姿勢を崩すことなく潮流を分けた。まるで柱を建てたように。一柱一柱が意志をもったように。
やがて海水と穢れが分たれ、粘り気のある泥炭が残った。
タガメだ。
熊ほどの高さのあるタガメがおよそ二〇躰ほど並んだ。そのすべてがチセの存在を認め、食欲をそそらせた。互いの距離はタガメの歩数にして、五歩もない。
だがチセは恐るることなく。
腰に巻いた古衣をほどくと、虹色の尾ひれで水飛沫をあげた。
「憎き海の芥よ。……さぁ、わたしと勝負だ!」
浅瀬の濁った水のなかを海の中道に沿って真っ直ぐに泳げば、虹色の光が天へ突き上がる。その鮮やかな色は集落まで届いた。
「虹色人魚……?」
「間違いない! 虹色人魚だ……っ、それにみろ、タガメだ!」
「巳の国に厄災がおりた……!」
三葉が起こしてまわった島民たちが、お火焚き場に波のように押し寄せる。タガメと島民たちが互いに意識し合うその隙を狙って、チセは反対岸へ渡り身を潜めた。
イサがからだの震えをおさえんばかりに、吠える。
「みんな、聞いてくれ! タガメは、万葉がおこしたこの祓い火で、倒すことができるんだ────!」
中道が日が昇ったように明るくなった。イサの立つ奥からお火焚き場まで、一帯に火があがったのだ。
網だ。
イサがチセの火を網にうつしていた。
クジラたちが編んだ網は浜辺の端から端まであり、更には魚の脂がこすりつけてある。潮風が手伝って一瞬で燃え広がった。
消えるのも一瞬だ。
されどもチセは焦らず、ゆっくりと口を開いた。
「──ひふみ唄、か」
ぼそり、懐が喋る。
夜明けの海辺が虹色の炎で染まっていった。
チセの祓い火とひふみ唄。
両者を合わせることでタガメを滅せるとわかり、チセが最初に思いついたのは、火矢だった。矢に祓い火をつけ、タガメを射てはどうか。だがこのちいさな島国に矢など、そう何本もない。それに当たらない矢は海に流され、戻ってこない。
「火が消えてしまう水のなか、無数のタガメを一度に消すにはどうしたらよいか。わたしは柄にもなくずっと考えていた」
「それで、網か」
「ああ、魚を採るように」
「だが、足りぬ」
虹色の輝きは網の六割ほどでとまっている。広い浜辺に声が届かないのだ。
チセはにんまりと笑った。
「足りぬなら、手伝ってもらうまでさ!」
ほどなくして、イサの荒々しいうた声が辺りに轟く。
「あの火は、タガメを焼いた火だ」
「みんな、イサにならうんだ……!」
虹色の火を目の当たりにした島民たちはイサを真似て少しずつ、唄を広めていった。
── ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけん
島民たちのうた声がいくつも折り重なり、チセの唄を広げていく。阿曇の血がチセの霊気をふくらませるように。やがて網の火はすべて虹色に色を輝かせた。
男衆の群れのなかから、人一倍からだの大きなクジラが前に出る。
「一葉、二葉──────!」
ふたりの名を叫びながら、端に結んでいた木の柱を持ち上げ、網を立てた。
「この網は、俺が編んだ! お前たちを想いながら!」
反対側ではイサが柱を立て、海の中道に炎の壁が出来上がった。お火焚き場に戻った三葉が姉ふたりの背中をドンと押す。
「ちょっ、三葉」
「なんだよ」
「俺と、夫婦になってくれ──────!」
「は」
「はぁあ!?」
お国の危機になにを馬鹿なことを言っているんだ。
そんなふたりの表情は呆れ顔から、
「ぁ、ぁあ、待て。やめろ!」
「クジラ、危ない──!」
恐怖に吊り上がり、やがて感嘆と泣き崩れた。
タガメの断末魔が天へ突き抜けていく。
クジラの編んだ網が、タガメを焼いたのだ。
否、触れることもかなわず火にまかれ、風に散っていく。
イサとクジラは木の柱を支えているだけだ。
陸へあがったタガメが次々と網を突破しようとカマを振り上げるが、網はまるで小魚を絡めとるように容易く、タガメを包みこんでは塵よりちいさく、この世から消し去った。
最後の一匹を絡めとると同時に網が燃え尽きる。
一葉と二葉は光源を失った砂浜を駆け、クジラに抱きついた。
「すごい……! クジラ!」
「なんて男だ! 惚れ直したぞ!」
三葉は、ふたりにもみくちゃにされるクジラを追い越し、消し炭となった網を踏み分け中道をまっすぐ渡った。
タガメは跡形もなく消え去り、荒んだ海は嵐が過ぎ去ったように静かだ。
虹色の光をたどり、ためらいなく海へ入れば、イサの手とぶつかった。
「イサ、成功したんだな」
「ああ……! チセの火、すげぇよ!」
「ほんとうに。まさかあんなにたくさんのタガメを一度に倒せるなんて!」
ふたりに褒められて、力が抜けたチセは子どものように笑った。
「みんなが力を合わせた結果だ。これからどうすべきかは、わかるな」
チセは旅に出る。
その間、万葉を巫女として崇め奉る一方でチセの火を護り、見張る者が必要だ。
人々を束ねる力をもち、勇敢で聡い権力者が。
「任せろ。俺たちがいる」
三葉はイサと共にうなずいた。
ぶつかった手は、強く握り合っていた。
歓喜にあふれる浜辺を背後にチセは、挨拶代わりに尾ひれを振った。二、三半孤を描いただけなのだが、夜空に天の川をかけたように光の粒が虹色の線を走らせた。
未だ吉か凶か判断しかねる虹色人魚の派手な挨拶にどよめきがおこる。
当の本人は、美しい笑い顔で空を仰ぐ三葉をみて、満足げだ。
「やっぱり綺麗だなあ、三葉姉様」
「あまり目立つことをするな。すぐに潜って東へ目指すぞ」
「はい」
巳の神に急かされ、深く息を吸う。
そのとき、微かに肩に違和感を感じた。漂流したわかめにでもぶつかったかな、という程度の感覚だった。
念のため確かめておくかと海底に足をつけ、顔をあげると。
「かあ、さま……?」
額に矢を射抜かれ、泡を吹く母の顔がそこにあった。
「母さま……! 母さま! ああ、なんてことだ!」
反射的に脇を支える。すでにこと切れた母は握っていたであろう矛ごと腕を激しく落とし、水飛沫をあげた。
水のなかなのにひどく重い。
巳の神が端的に言う。
「離せ。穢れが集り、またタガメと化すぞ」
すでに母の足首には黒い手が貼り付いている。
チセは命令どおりに手を離すと、母の額から矢を引き抜いた。矢尻は残ったまま。矢羽の花びらが血と共に辺りに散る。
日向国を象徴する花びらだ。
チセは怒りで声を震わせた。
「おのれ……っ、タオか……!」
「母は鱗欲しさに汝を殺めようとしていた。タオは、汝を救ったのだぞ」
巳の神は、はっきりとタオの名を口にした。
「そんなのっ、わかってる!」
だが殺されたとしても。どんな仕打ちを受けようとも、産みの母には違いないのだ。そしてたった今、タオが仇となったことも。
「ぅぁあああああ────────!」
母を失った悲しみ、タオの恨めしさ。なにもできなかった悔しみが複雑に絡みあい、まるでイルカのような泣き声をあげた。蛇もない耳をふさぎたくなるような声だ。
だが巳の神は、尚も命じた。
「呪縛の唄を」
「……は?」
「母の御魂を海に呪縛せよと言っている。彼女の業の深さは今世にとどまるに値する。根の国に送るべきではない。これは命令だ」
「────ぅあっ、ぁああ!」
海に呪縛するということは未来永劫、転生が叶わない。巳の神の力が続くかぎり、母は延々と海を漂うことになる。
チセは詠った。
やけっぱちだ。
やり直す機会をくれた巳の神を裏切ることだけはできない。
「朝だ。さあ、行くぞ」
詠い終わるころ、ギラついた朝日が水平線に浮かんでいた。チセの手を離れた母の遺体は潮流にのり、跡形もなく消えている。
「汝、速開都姫の名をやろう」
微かに残る気配にぼそりと語りかけ、巳の神は意識を手放したのだった。
ここまでお読み下さったかた、ありがとうございます。
第一部終了です。
いつになるかはわかりませんが、続きがある程度まとまったら投稿します。