第2章(その4)
剣の切っ先を叩き込まなかっただけまだましだ、とばかりにナイゼルが次なる拳を叩き込もうとしたその瞬間、両者の間に割って入るように、一本の矢がさっとナイゼルの眼前を通り過ぎていった。
一拍の間をおいて、ナイゼルはしまった、と舌打ちした。
ひとつには激情に駆られておのが身を狙う者の存在に気付かなかったこと。ひとつには、そのまま若い騎士を放っておけば、彼はその矢の標的になっていたであろうということ。結果的に、ナイゼルに殴りかかられたことでその若い騎士は逆に一命を取り留めてしまったのだ。
矢が外れたとみるや、物陰から武器を持った男達が一斉に躍りかかってきた。異邦の兵士同士で殴りかかった事情など彼らには知る由もなかったし、知ったとして同情など一切しなかっただろう。ナイゼルもそこは訓練された戦士であるから、挑みかかられればそのまま刃を振るって反撃に転じるより他にない。敵は数で勝ったが、結局は武器を手にしただけの、多少は勇敢な市民達に過ぎなかった。
むしろ、そんな彼らを切り伏せるナイゼルこそが悪者であった。そうやって群がる異教徒達を切り捨てているうちに、若い騎士の従者と思しき一団がこちらに駆け寄ってきて、ナイゼルに加勢した。
その若い騎士が、遠征軍に参加していたサリック王子であるということに、ナイゼルも遅ればせながら気がついていた。順位は低いとはいえ王位継承権を持つ者に殴りかかるなど、それだけで死罪に相当する行為だった。当然、サリック王子もお付きの者どもに、ナイゼルを殺せと声高に命じていたが、下帯を解いて下半身が丸出しなのを見て、従者達も状況を察した様子で、ナイゼルには早急にその場を立ち去るようにと促すばかりだった。
国元へ帰れば、相応の罰を受けなければならないのかも知れなかった。
けれどその時のナイゼルには、そんな事はとても些細な事のように思われた。この場で彼ら遠征軍が行った殺戮の数々――ナイゼル自身もそこに当事者として居合わせた事は、神の恩寵に見放されるには充分であるように思えた。
カラルフラルが陥落し、遠征軍の占領下に収まると、ナイゼルは負傷兵らと共に帰国の途についた。こんな現実はこりごりだった。故郷が懐かしかった。特に愛するコーデリアが。
信じるものは一つずつ失われていった。刃を血に染めるたび、おのが祖国への信頼が揺らぎ、神への信仰が揺らいだ。神の名の下に幾多の死体を積み上げてきたが、恐らくはその積み上げた山の分だけ、ナイゼルには裁きがいずれ下るだろう。戦地へ赴く事に反対した父が正しかった。憂い顔で、行くな、と懇願したコーデリアが正しかったのだ。
だが気まぐれな運命のせいで、彼女はナイゼルの手を離れてしまった。
かといって、故国には彼の居場所はなかった。王子の命を結果的には救ったナイゼルだったが、実はサリック王子はナイゼルに横っ面をひっぱたかれたさいに偶然にも鼓膜を損傷し、片耳が聞こえなくなってしまっていたのだ。王子の戦場での行いが決して褒められたものではなかったからこそ、ナイゼルは罪を問われずに済んだのだが……だが人にそういった事をとやかく言われるのも嫌だったので、耳の事は「御身をお庇いするのに必死で、思いがけず」という形でナイゼルの方から公式に詫びを入れ、それを理由に恩賞の全てを辞退してしまった。
家督も継がねば目立った私財もなく、王都に滞在する彼はまるきり放蕩の徒に過ぎなかった。風の噂に二次遠征軍が組織され、程なくして出征の旅に出ると聞いたとき、彼は再び志願していたのだった。最初のような高邁な目的など何もない。ただ、この地を離れ遠く旅に出る、その口実が欲しかっただけだった。
(次章につづく)