5
十一月八日、日曜日。
事件のあった翌日の校内は、溜め息で飽和していた。
文化祭が潰れたから、というのも理由の一つだが、設営して早々、あと片付けをしなければならないことに、皆が落胆しているのである。また、その大半は、大体の準備から片づけまでの大役を一任される一年生のものだった。
そして、この日は快晴だった。「蒼華祭の日には雨が降る」という俗説は、真実であると認めざるを得なくなった。別に、関連性が認められたわけではないのだが。
さらに、校内には、昨日発生した事件の捜査のため、警察が出入りしていた。その緊張感からか、高専の敷地内全体が静まり返っていた。
「こんなの前代未聞だよね」理玖は、模擬店のあった教室の床を箒で掃きながら言った。
「ほんとにねぇ……」同じく箒の柄を握る楓馬が応える。「文化祭で殺人があったなんて、ホントに前代未聞」
「そういえば。ツイッターなんかじゃ、もう昨日のことが出回ってるらしいね」
「ん、マジ?」楓馬の眉がピクリと動く。
「SNSの拡散力を舐めたらダメだよ。あれは、殺人ウイルスなんかよりも早く広がって、人間の思考を侵していくからね」
「怖いなぁ……」
「でも、記憶には残らない。人の噂も七十五日というけど、一週間も経てば、皆が忘れる。常に情報の荒波の中で揉まれる現代人は、一つの情報に固執してしまうなんて非効率なことはしないんだ」
「それだといいけど……」
「じゃ、楓馬は、一週間まえに何が起こったか、月曜日から全部言える?」
「え? あ、え、えーと……、そうだな……」
楓馬が言葉に詰まるのを見て、理玖は口元に微小な笑みを表した。
「ね。いちいち、そんなことに労力を割いてないんだよ、脳は。無駄なエネルギーを食わないよう、極力、手を抜いてるんだ」
言ってから理玖は、脳には手が無いのに「手を抜く」という表現を使うのは不適切だったか、と自問した。しかし、それ以外に適切な表現が思い浮かばなかったので、それについてはスルーをかます。スルースキルは重要な技術の一つだ。
「でもさぁ」楓馬は、窓際の壁に肩を掛けた。「騒ぎになれば、それだけ人の記憶にも残りやすくなるんじゃないの?」
「断片的な記憶しか蓄積されないよ。今回は、ただの事件。憶えておく価値も必要性も無い」
「……まぁ、俺も忘れたいけどさ」
「楓馬は……なかなか忘れられないだろうね。見ちゃったわけだし」
理玖が手を止めていると、
「おい理玖、掃除サボんなよ!」
という大きな声が、彼の背後から聞こえた。首だけ振り返ると、緋香里が腕を組んで理玖を睨みつけているところだった。
「昨日やってなかったんだからさ、しっかりやってよね」
「別に、サボったわけじゃないよ」
「口答えしなーい。ここでの地位は、僕のほうが上なんだからね」緋香里は、びしっと人差し指を立てる。その行動にどんな意味があるのかは、誰も知らない。
「了解しました、将軍様」
吐き捨てるように言ってから、理玖は元に直る。「将軍様」に意味はないし、ここは江戸時代ではない。二十一世紀の日本である。
「……落雷さん、ちょっと怒ってる?」
緋香里が教室から出ていったあとで、楓馬がそう訊いた。
「名前の通り、心の中では雷が落ちまくってるんじゃないかな。いい迷惑だよ。迷惑に良いも悪いもないけどね」
「まぁ、急に中止になったもんなぁ……。相当な痛手だし、そりゃ怒るよねぇ」
「でも、いつまでも残念がっているわけにはいかないよね。もうすぐ中間試験」
「……それを思い出させるんじゃない。とてもつらい」
「今回も徹夜?」
「……そうなるかな。モンエナは手放せないねぇ」
「飲みすぎて、躰を壊さないようにね。試験勉強で死んだなんて末代までの恥だよ。……あっ、子孫を残せないからそんなことはないか」
「俺はまだ死ねない……、大丈夫」理玖のブラックジョークに対しそう答える楓馬の声は、微かに震えていた。「子孫も残すよ」
「……精神的には死にそうだけど」
理玖がそう言い放った、そのときだった。
「う、うわぁぁああぁっ!!」
ガラス越しに、漫画で聞くような叫び声が聞こえてきた。
「……あ?」楓馬は、だらしなく口を開ける。「なに、今の」
「外からだね。どうせ、誰かがふざけてるだけ。精神年齢の低い男子たちの集まる場所ではよくあることだよ。男はバカばっかだ」
「そうだとして、あんな声出すかねぇ?」
「さぁ……?」
そのとき彼らは、その悲鳴についてとくに気に留めもしなかった。それは、理玖や楓馬たちだけでなく、その教室にいたほとんどの学生がそうだった。ただの叫び声、もしくは奇声。誰もが、そう認識していた。
だが、約十分後、状況は一変する。
「お、おい。また死体が見つかったみたいだぜ」
「え? マジ?」
「次は誰が死んだってんだ……」
そんな言葉を、まるで空気感染でもしたみたいに皆が言い始めたのだ。
もちろん、その話は理玖や楓馬にも聞こえていた。
「理玖、聞いた?」
「うん、聞いた」
「また殺人かぁ……」
「いや、そう決めつけるのはまだ早いよ。『死体』という情報しかないから、事故、自殺の可能性も十分にある。それに、『人間の死体』だとは誰も言ってない」
「たぶん、さっきの悲鳴がそれだと思うんだけど、イヌとかネコの死体であんな悲鳴出す?」
「楓馬なら出しかねないね。道路の上でハトが内臓をぶちまけて死んでるのは見たことあるけど、楓馬にとっては阿鼻叫喚の地獄絵図なんじゃないかな」
「うぇぇ……。もう、その話題はよそうぜ。気分悪ぃよ」
「うん、ごめん」
具体的な情報が伝わり始めたのは、それから五分ほどしてからだった。
死んでいたのは、霊長目ヒト科のホモ・サピエンス――すなわち、俗にいう人間だった。そして、その人間はこの学校の学生であることも伝わってきた。
その瞬間に、皆の顔が少し引き攣った。明日は我が身とはこのことか、というような表情だ。さきほどまで静寂が支配していた空気は、ざわめきに押し倒されつつある。
ついに、学生の名前が伝わってきた。
その名前を聞いて、理玖と楓馬に、戦慄走る。




