サイアスの千日物語 四十二日目
波間の漁火のような城壁の篝火を眺めながら
微かに起こる防具の鳴りを供にサイアスはその歩を進めていた。
ベオルクを先頭としてすぐ後方にベオルクの供回り2名。
さらに後方にはデレクの供回り2名。これら5名で一つの班を成し、
次いでサイアスを先頭に城壁側にシラクサ、荒野側にニティヤ。
最後尾をデネブが固めていま一つの班を成していた。
一行は5名と4名の班に分かれる形で着かず離れず歩を進めていたが、
足元もおぼつかぬ闇の中、ともすれば方位や時間の感覚さえ怪しくなり、
サイアスはその分惑わぬようにと歩数を数えるのに集中していた。
歩数は既に1000を超えており、城壁の灯から察するに
概ね城砦北壁西側の半分を超えたあたりではないかと推測できた。
「徐々に感覚も麻痺してきたか?
流石に眠くはならぬだろうが、退屈凌ぎに一つ話をしてやろう」
先頭を行くベオルクが
緊張の欠片もない普段通りの口調でそう言った。
「こうして闇の中を歩けば否応も無く身に染みることだが、
我々は普段の状況認識において、あまりにも視覚に頼り過ぎている。
視覚が外部情報の取得において担う役割は実に全体の9割近いとも
言われている。これを断たれるのは孤立無援の籠城戦に等しい。
不安や恐怖に駆られるのは無理からぬことだ。
理解の及ばぬものへの恐怖というのは、本能に根差しているらしい。
闇に対し人が抱く恐怖もこの類だろう。人が魔や眷属に初遭遇した際に
抱く、抗い難い恐怖に通じるものがあるな」
ベオルクは淡々と話を続けた。
「だが目に見えぬことは必ずしも理解不能と同義ではない。
元々日中であれ、目に見えぬ存在というものはいくらでもある。
これは詩人の好む比喩的な意味ではない。背後や頭上といった
自身の視界の外側にも世界は厳然として拡がっているという意味だ。
そしてそうした領域や視力の及ばぬ遠方については、自身の内側で
構築した想像上の光景を基に現実の諸情報を補って理解している。
我々は視覚に頼り過ぎるがゆえに目視情報で構築される世界が
全てであると思いがちだが、このように肉眼で捉えていないものも
脳内では『観ている』わけだ。元より1割程度は視覚以外で
情報取得を行っている。そちらを活かせば状況は改善され得るだろう。
月並みな表現だが五感を研ぎ澄まし、音を聞き匂いを嗅ぎ、
空気の流れを肌で感じて世界に対峙すれば、闇の中に見えるものもある。
味覚は勝利の美酒のためにとっておけ」
「闇中での認識力を高める方法は他にもあるぞ。
それは営舎で脳裡に叩き込んだ地図を改めて脳裡に展開し、
自分自身を俯瞰して適宜情報を更新しながら動くという手だ。
言葉で表せば難しく聞こえるが、例えば何十年と暮らしてきた
勝手知ったる我が家となれば、目を瞑っていても動きまわれたりは
するだろう。あれと同じことだ。脳裡に描いた光景と視覚以外の
五感による認識が視覚に匹敵する情報量を持ち得るという、
良い証左となっている。
無論一朝一夕にものになることはないが、
普段から視覚が唯一絶対の認識器官でないことを意識し
視覚以外での認識力を高める努力を重ね、脳裡に映像を描き出す
訓練を積めば、闇すら畏るるに足らず、ということになるやもしれんな。
……ところでサイアスよ。今何歩目か判るかね」
「1978歩です」
サイアスは淀みなくそう答えた。
「結構だ。そろそろ北壁も終わる。
一息入れたら南下に移るぞ」
ベオルクはそう言って笑い、後続に待機を促した。
動きを止めると途端にじとりと闇が纏わりつき、不安と不快とを
煽りだした。サイアスは目を閉じ周囲の気配を窺った。
何度も戦場に立てば、いやでも気配というものに敏感になる。
サイアスは前方の気配からベオルクらが確かにそこに居るのを感じていた。
しかし後方のシラクサは気配が薄く、潜伏の達人たるニティヤに至っては
その気配を探るなど光の下でも困難であった。
デネブは僅かに甲冑の質量を漂わせていたため、サイアスは
自身とデネブとの間の闇に二人が潜んでいるものかどうか、
意識を集中して探り始めた。
「どうしたの? ちゃんといるわよ?」
サイアスの思惑を悟ってか、ニティヤがサイアスへ声を掛けた。
「シラクサも居ります。大丈夫です」
シラクサもまた返事をした。
「そう、なら良いんだ。
あぁ、デネブは気配で判っている」
サイアスは闇の中肩越しに後方へと頷いて、
何故伝わったのだろう、と沈思黙考し始めた。
「さて、そろそろ進むぞ。まずは城壁に沿って50歩南下だ」
ベオルクが声を上げ、一行は再び動きだした。
「城砦の西方、やや北寄りは岩場が続く。その先は基本的に
未踏領域だ。 ……10年程前だったか。剣聖閣下や戦隊長と
共に、眷属のねぐらを探しにいったことがある。無論上には無断でな。
当時の副長がとにかくやんちゃな方でな。平原のためだと嘯いて、
しょっちゅう任務外の悪さに熱中していたものだ。
当時の団長は真面目な方だったから、さぞ胃が痛かったろうな……
ともあれこの先は城壁の二倍程の距離に渡って起伏の激しい岩場が続き、
その奥の高台に石柱群らしきものがあるのをこの目で確認している。
地形や時間的事情から詳細の確認には至らなんだが、人の文明の跡では
無かろうというのが当時の我々の見解だった。
さて宴の話だが、宴とは魔や眷属の軍勢と我ら城砦騎士団との
会戦という形で幕を開ける。会戦を行うには開けた土地が必要だ。
古今、戦とは平地の奪い合いなのだ。そのため河川が程近い城砦北方や
大湿原が遠からず横たわる城砦東方は、宴の主戦場にはなり難い。
大抵西か南かということになる。さらに西の北寄りには岩場が続くため、
専ら南西か真南が敵陣の本営となるわけだ。
今回に関しては南西の可能性が高いだろうがな」
ベオルクは一旦言葉を止め、
「50歩だ。ここからは西へ150歩進む。
下りは歩幅に誤差が生じやすい。焦らず確実に進むがよい」
と告げ、僅かな篝火からも遠ざかるようにして、
底なしの闇の中へ進んでいった。




