クラム
翌日。大河は寝坊しかけた。
「や、やべえっ!」
大慌てで服を着替え、部屋を飛び出した。そこへ真奈美が「大河くん、おはよう。どうしたの? そんなに慌てて」と、不思議そうな顔をして尋ねた。
「何言ってんだ! 遅刻するぞ」
大河は、真奈美の呑気な様子が信じられないといった風だ。
「え? どうしたの、今日は日曜日よ。落ち着いて」
「へ? ……マジで?」
「うん。起きたのなら朝ごはん食べようよ。トーストだったらすぐできるから」
「あ、ああ……」
大河はダイニングに向かい、壁掛け時計についてるカレンダーを見た。
真奈美の言う通り、今日は日曜日だ。
なんとも間抜けなことに、全然気がつかなった。じゃあ、もう一回寝るかと思っても一度完全に目がさめると、今度はなかなか眠くならない。
「まったく、うっかりしてた。完全に目が覚めちまったし、どうしたもんかな……」
大河はトーストを一口かじって、それからコーヒーを一口飲んだ。さらにもう一口二口と食べ、あっという間に食べ終わる。それに合わせたように、真奈美が大河に声をかけた。
「大河くん、今日は何か用事ある?」
「うん? そういや……まあいいや。ないぜ」
「だったら岡山駅の方に行ってみない? 去年、駅前みなみストリートができたでしょ。この春にもさらに色々とお店ができてて、まだ行ったことないから――」
「へえ、そうなんだ。よく考えてみりゃあ、こっち来てまだろくに出歩いてもないし。よし、それじゃあ行こうぜ」
二人は午前十時ごろ、修平に「駅前に行ってくる」と言ってマンションを出た。とりあえず、最寄り駅の原尾島駅からリニアモーターカーに乗って、岡山駅に向かうことになる。
原尾島駅にたどり着くとすぐに改札に向かう。電車同様、券売機で切符を買うこともできるが、近年はもうスマートフォンをかざして自動支払いが当たり前だ。切符を買っているのはスマホ払いが馴染まない、何らかの理由でスマホ払いができない、などでしかない。
二人は改札を通り抜けてホームに向かった。
もうあと十分ほどでやってくるリニアを待っている時、大河に電話がかかってきた。相手はイツキだった。
「――もしもし、大河くん。起きてる?」
大河は「何言ってんだこいつは」と少し呆れた顔で答えた。
「それはよかった。じゃあ、岡山駅の東口側で十一時に待ってるから」
「――って、おい! もしもし! お前何言ってん――」
電話がきれた。
「どうしたの?」
真奈美が声をかけた。
「いや、イツキ何言ってんだって……あっ! やべぇ、忘れてた。今日イツキと約束してたんだ。……完全に忘れてた」
岡山駅に到着すると、東口から出て駅前広場に出た。
岡山駅は三十年くらい前に全面的にリフォームされ、景観がそれまでとガラリと変わった。
それまでの新幹線が高速リニア化し、それを機会に駅舎を含めて大幅な改修工事が数年続けられ、とても未来的な景観になっている。
大河と真奈美は駅前広場の中央部にある大きな噴水を、ぐるりと囲むように置かれているベンチの一つに座った。
さすがに日曜日だけあって人が多いが、それでも穏やかで心地いい空間が眼前に広がっている。
「ねえ、本当に一緒にいてもよかったの? 私は別の日でもいいんだよ」
「構わないだろ。むしろ多い方が楽しいってもんだ」
「……ありがとう」
真奈美は少し照れた笑顔を見せた。別に真奈美は悪くなく、悪いのは大河だけだ。それを認識している大河は、申し訳なさそうな顔で言った。
「てか、俺が謝らんとな……ごめん」
「ううん、いいよ別に。それよりも――霧島くん、買い物?」
「そうなんだ。何か欲しいのがあって、それで一緒に買いに行こうって話になったんだ」
「ふぅん」
二人はイツキはまだ来ていないのか周辺を見渡したものの、まだ来ているようになかったので、座って待つことにした。
が、そうした途端に大河の視線にイツキの姿が見えた。
「大河くん、待った?」
イツキが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「待ったも何も、今到着したばっかだよ。イツキの方こそ、狙ったようなタイミングで出てきたな」
「そんなぁ、僕が影でコソコソ監視でもしてるかのような言い方、酷いよ……って、あれ? 高村さんも一緒に来たの?」
真奈美を見つけたイツキは、さらに表情が明るくなった。
「うん……お邪魔だった?」
「ううん、そんなことないよ。まさか高村さんがいると思わなかったから――」
イツキはニヤニヤと嬉しそうに話している。女の子と休みの日に会えるのが嬉しかったのかもしれない。
「なあ、それで何を買うんだ?」
「ああ、そうなんだ。実はね、部室で使ってるクラムを買い換えようと思って」
『クラム』――ABSの主に行動をコントロールする機器だ。
台座のついたマウスのような形状で、その操作部が二枚貝に似ていることから、クラムと呼ばれるようになった。
他にも三次元マウスだとか操縦桿だとも言われることもある。正式には「マルチコントロールデバイス」というのが機器自体の名称だ。
「なんだ、壊れたのか?」
「そうじゃないよ。部室で僕が使っているクラムは部の備品なんだ。小遣いも溜まったし、部室のも気に入ったものを使おうと思って」
経験の浅い大河にとって、クラムの使い心地などまだわかりはしない。そもそも大河は一種類しか使ったことがないから、比べようがない。
「あんなもん、気に入るとかあるのかよ?」
「あるよ。スポーツだって、道具の使い心地だとかで好みがあるじゃないか」
なるほど、そりゃそうだな、と大河は思った。
「当然だよ。特に部の備品なんて、個人の好みに合わせたものじゃないからね。でも、細かい動作が必要なABSには、自分にあったものを使うのが当然だよ。大河くんも今は部のを使ってるけど、後々には気に入ったものに変えたほうがいいと思うよ」
「ふぅん、そうか……でも、クラムっていくらするんだよ」
「ピンキリだけど、こういうのは値段より使い心地とか気にする方がいいからね。やっぱり一万円くらいからかなあ」
「一万円? 高いな! クラムってそんなにするのか?」
大河は驚いた。高くても二、三千円かそこらかと思っていたからだ。
「うん、そのくらいからじゃないと、いいのはないよ」
イツキは得意な顔で、嬉々として話している。しかし、それを側で聞いていた真奈美は、五千円前後くらいからでも十分過ぎるものがいくらでもあるのに……と思っていた。
真奈美はABSのオペレーターではないが、父親がABS関連の開発者なこともあって、小さい頃からクラムには馴染みが深い。どのくらいのクラムがどのくらい使えるかは、イツキよりもよく知っていた。
イツキは「高いものイコール高性能」という、メディアの宣伝にのせられている感があった。あるあるネタで、初心者から脱すると陥りやすい考えだ。
ちなみに、高校生オペレーターとして高い評価を得ている部長のミユキが普段使っているのは、四千二百円というイツキのいうものの半分以下のものだった。大して高価なものではない。
「ねえ、高村さんはどんなクラムを使ってるの? 一万円くらいするやつかなあ。やっぱりそうだよね」
こう言うときのイツキはとても饒舌だ。楽しそうである。
「ええ……まあ、そんな高いものでもないけど……」と言いつつ、実は三千円をきる値段の安物だった。真奈美にはそれで十分だった。
「だよねっ! へへっ、大河くん。僕、欲しいクラムはもう決めてるんだ。さあ、行こう!」
イツキはスキップするかのような軽快な足取りでみなみストリート方面に歩いて行く。
「まったく、あいつはABSのことになったら、本当にこだわるなあ。何がいいんだか、さっぱりわかんねえ」
「そうね、それだけ好きなんだと思うわ」
イツキの楽しそうな背中を見ながら言った。




