もう、何も要りません。8
第八話
翌日は、ひどい二日酔い。
ベッドから起き上がれない。気持ち悪い…。吐きたい…。
ヘパリーゼ飲みたい。ソルマックでもいい。おえ。
それでもなんとかリビングに這い出すと、シャワーの音が聞こえた。ユウは私より早く起きたらしい。
シャワー浴びる元気があるなんてすごいな。
あ、でも彼は昨日お風呂入ってないから気持ち悪いか。
慣れないキッチンで、ハーブティを入れる。たまには私がしなくちゃ。
ちょうどいい感じにお茶が入ったところにユウが濡れ髪に寝間着で出て来た。
ゲイだ、って分かっていてもちょっとドキッとする。
「おはよー。私超二日酔いだよー。死ぬ。ユウは元気だねえ」
「いや、僕も朝気持ち悪くて吐いたよ。あ、いい匂い」
「落ち着くかなーと思ってさ」
「ありがとう」
二人でレモンジンジャーのお茶を飲む。美味しい。
ちょっとだけ、胃が落ち着いたような気がする。生姜が体を温めてくれて。
「昨日はすごい楽しかったねえ」
ユウが改めて言う。
「ほんと、初心者とは思えないはじけっぷりだったよ。また行きたいね」
「うん、また行こう。後さ、家って完全防音なんだ。だから家で音楽ガンガンかけて二人で楽しむのもいいね」
「あ、それいいね。お酒安くすむし」
お茶のおかげでだいぶ胃が落ち着いた。
ユウが冷蔵庫からヨーグルトを出して来てくれた。
「あんまり食欲ないでしょ?」
「うん、ありがと」
ヨーグルトを食べながら思う。
今日は何をしようかな。
最後の日まで、後4週間と4日。
たくさんたくさん、楽しまなきゃ。
最後の1ヶ月、猛スピードで駆け抜けるように生き急ぐ。
そして最後は、緩やかに穏やかに死ぬ。
とりあえず、今日は何をしよう?
いくら使ってもいいし、何をしてもいい。
いざそうなると、なかなか思いつかない。
今日はとりあえず二日酔いだし、無理は出来ないな。
ヨーグルトを食べ終わったら、ユウが薬を出して、それを飲んだ。
「それ、何のお薬?」
「精神科の薬。…事件以来PTSDとかいうやつになって。なんか、トラウマになるような体験をした人がなる病気らしいんだ。いろいろな薬飲んでて薬漬けみたいな状態だけど…薬飲んでないと、まともに生活が出来ないから」
そうか。前に精神科を紹介されたって言ってた。
彼の手のひらには、7錠もの錠剤。
私達は似た者同士だけど、彼の辛さは私のとは比べ物にならないだろう。
私はアル中のママが怖くて、ママに嫌われて罵られて、存在意義を否定されて、いらない子供で、毎日泣いて、憂鬱で憂鬱で、時間が過ぎるのをただ待つだけの絶望の日々で。
でも彼はたった一人の生き残りで、目の前で死体を見て、それは愛する家族で、突然存在を否定されて。それまでは普通だったのに。
母に罵られる度に、私は誰かに話を聞いてもらいたいと願った。
誰か、私の話を理解してくれる人にただ聞いてもらいたいと願い続けた。
彼が同じかは分からないけど。
「ねえ、ユウ」
「ん?」
「事件の事、話してもらえる?良かったら、だけど」
「いいよ」
ユウは普通に答えた。
彼は無表情で、そこからは感情を読み取れなかった。
「…あの朝、起きて、普通にドアを開けたんだ。あくびなんかしてたかもしれない。まず目に飛び込んだのは、血塗れのリビング。何が起こったのか分からなかった。このソファに優子が横たわってた。目は見開いたまま。僕はますます何が起こったのか分からなかった。とりあえず、優子に呼びかけたんだ。『優子?』って。無論、返事なんかない。でも呼び続けた。『優子?優子!?』って。完璧に死んでる、って理解するまで、呆然と立ち尽くしてた。優子の目が悲しそうに見えた。でも僕は悲しい、とか感じる事も出来なくて、ただ呆然としてた。ただただ、ずっとずっと、立ったままで。何時間、何分、そうしてたか分からない。
とりあえず、お父さんを呼ばなきゃ、そう思ってお父さんの部屋に行ったんだ。空っぽだった。お父さんはどこに行ったのか?分からない。強盗でも入って誘拐された?でもそれなら女の優子を拉致するはず。何が何だか分からなかった。とにかく僕は混乱しきって
いた。それから、僕はいつもの癖で洗面所に行って、洗顔をしようとした。混乱しすぎて訳が分からなくなってたのかもしれない。そしたら、お風呂のドアに影が見えたんだ。開けてみたら…入り口のノブに縄を括りつけて、座るようにして首を吊ったお父さんがいた。目が飛び出して、舌が飛び出して…僕は叫んだ。『ギャアアアアアアアアアア!』って。だってそれはお父さんじゃないみたいな、死体そのものだったから。僕は何度も何度も、叫んだ。叫び尽くして、喉が痛む頃、やっと少し冷静になれた。
僕はリビングに戻って、優子に会いに行った。今となっては分かる。優子は、お父さんに殺された。お父さん、昨日は笑ってたのに。優子、痛かっただろうね。僕に助けを求めただろう。僕は何で目を覚まさなかったんだろう。自分が憎かった。睡眠薬の事を思いたったのはしばらくたってから。しばらくの間は、自分の情けなさにどうしようもなく腹が立って腹が立って。優子。助けてあげられなかった。お父さん。僕をいらないと判断した。僕は…何の為の存在?今、何で生きてる?そんな事ばかりグルグル頭を巡って…。
警察に連絡しなきゃ、と思ったのはもう日が落ちてた頃だった。
警察に電話した時の僕の台詞はすごい間抜けだったと思う。『あの、死んでるんです。お
父さんと妹』
警察はすぐに来てくれた。いろいろ現場検証とかして、僕にも色々聞いて来たけど、僕はぼんやりしてほとんど役立たずだった。供述調書、ってやつも取ったけど…何を喋ったか、それも覚えてない。後はずっと床に座り込んで、ただ警察の人のする事を見てた。
『心中ですね』『ああ、そうだな』そんな言葉が聞こえた。心中。僕は、連れて行ってもらえなかった。僕は、必要じゃなかった。
警察の中で、一番偉い人らしき人が、僕に『汚いとこだけど、今夜一晩私の家に泊まりなさい』って言ってくれた。僕はただ頷いた。意思も何もなかった。何も考えられなかった。偉い人の家でも、僕はただ座って動かなかった。何も食べなかった。何も飲まなかった。時々トイレに行くくらいだった。何も聞こえなかった。何も言わなかった。
2日後、司法解剖が終わり、正式に『親子心中、父親は縊死、娘は腹部から背中にかけての刺し傷が致命傷』と結果が出た。
警察の人が親戚や学校に連絡してくれたみたいで、親戚の人達がてきぱきとお葬式の準
備をしてくれた。僕はまだぼんやりしていた。お経が酷く遠くに聞こえた。
全てが、現実じゃないみたいで。
全部が夢なんじゃないか、って思ってた。
でも、火葬場でぼんやりしてる僕と親戚が待機してる部屋に、係の人が『集骨のお時間です』って言いに来た。集骨!その時、両足が震え出して椅子から立ち上がれなくなった僕を、叔母さんが支えてくれて、あの部屋、お父さんと優子がいる部屋に入ったんだ。
「嘘だ」
骨だけになった優子を見て、僕は小さく呟いた。
「嘘だ」
何度も呟いた。
「嘘だ」「嘘だ」「嘘だ」
叔母さんが泣きながら、「嘘じゃないの、悠君、嘘じゃないのよ」と言った。
「嘘だああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
僕は叫んで、叫んで、叫んで、初めて泣いた。泣いた。泣いた。狂う程泣いた。このまま狂いたいと思った。でも狂えなかった。
後はよく覚えてない。
もともと親戚付き合いは余りなかったから、お葬式後の会食の時、伯父さんが渋々、といった感じで僕を引き取ろう、と言ってくれたけど、断った。お互い、気まずい思いをするだろうし。
僕はお骨を引き取って、誰もいない家に帰った。
警察の人が掃除してくれたらしくて、部屋は綺麗だった。
優子が横たわってたソファで、僕はまた泣いた。泣いた。全ての水分がなくなるまで泣いて、死んでしまいたかった。でも、死ねなかった。自然に僕は水分を必要として、死にたいのに生きようとする体が憎かった。
お葬式が終わってしばらくたって、あの警察の偉い人が来てくれた。それで精神科受診を勧められたんだ。僕は今、余りにも凄惨な状況に出会ったせいで、少し混乱してるからって。精神科でも、僕はまだぼんやりしてて、ほとんどうまく喋れなかった。けど、PTSDって診断されて、薬を貰った。薬を飲んだら、だいぶ落ち着いたのを覚えてる。医学ってすごいね。でも、僕の心は相変わらず空っぽだった。それでも優子の後を追う勇気はまだなくて。
だから、僕はアタマをオカシクしようと思ったんだ。死ぬ為に。自殺する為に」
ユウは静かに話を終えた。
沈黙が流れる。
彼の苦しみの象徴のような、重い重い沈黙。
改めて聞いてみると、私の絶望などちっぽけに感じる程、彼の絶望は大きい。
余りにも、大きすぎる。
彼に、私は、何も出来ないのだろうか。
私なら。
私なら、何をされたら嬉しいだろう。
ママ。
ずっとずっと、私はママに抱き締めてもらいたかった。『いいこいいこ』と撫でて欲しかった。
そして、『大好きだよ』って言って欲しかった。
抱き締めて、私を大好きだって言って。お願い。
私は、ユウを抱き締めた。
胸に顔を埋めるような体勢で、母親が子供を抱くように。
「よく頑張ったね、偉かったね。もう、何も頑張る事はないんだよ。もう、何も頑張らなくていいんだよ。ユウ、大好きだよ。大好き。本当に、大好きだよ」
そう言いながら、彼の頭や背中を撫で続けた。前に、彼が私にしてくれたように。
「もう、何も心配ないからね。もう何も、ユウを傷つけるものはないからね。私がユウを守るからね。私の命をかけてでも守るから。だから大丈夫。大丈夫だよ。世界で一番、ユウが好き。大好き」
自分が言って欲しかった事。
渇望していた言葉。
抱擁。
これで、ユウが少しでも楽になるかどうかは分からないけど。
私には、こうするしか思いつかなかった。
だから、ただひたすら、彼を抱き締め続けた。
彼は少しでも安らいでくれるだろうか。
どうかどうか、彼の苦痛が少しでも楽になるように。
そう祈り続けて。
温かく、卵を抱く親鳥のように、彼を抱き締めた。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか自分でも分からなかったけど、私は大丈夫と繰り返し、彼の頭や背中を撫で続けた。
しばらくそうした後、ユウは自然と私から離れて、言った。
「ありがとう」
「ずっと、誰かに聞いてもらいたかったんだ」
少しだけ赤い目をしながら。
「僕はずっとずっと、誰かに全部聞いてもらいたかった。でも重すぎて。余りに重すぎて、誰にも言えなかった。それに、聞いてくれるなら誰でもいい訳じゃないし。僕を分かってくれる人に、聞いて欲しかったんだ。ハナに出会えて、本当に良かった。ハナに出会えた事、それは神様がくれた僕の最後の幸せかもしれない。ハナのおかげで、僕は、人はどん
なに苦しくても、どんなに辛くても、どうしようもない事があるんだって、理解する事が出来た。ありがとう。僕もハナが好きだよ。世界で一番、誰よりも好きだよ」
私なんか。私なんか何の役にも立ってないよ。ユウ。
でも、嬉しかった。
少しでも、彼を癒せた事に。
そして二人顔を見合わせて、少しだけ笑い合った。
照れくさかったのかもしれない。
その日は、二日酔いもあって、家でのんびり、本を読んだりして過ごした。
穏やかな1日。
晩ご飯は、私の作ったシチュー。ユウは美味しいと言ってくれた。
第九話に続く。




