8-13
衝突。
しかし、予想された故障は起きなかった。
帆は、高エネルギー粒子の奔流を受け止めても、微動だにしない。
それどころか、衝突したプロトンの運動エネルギーを吸収し、その帆全体が、不気味なほど美しく、淡い赤色の光を放ち始めたのだ。
半透明だった帆は、まるで薄紅色のビロードのように、宇宙の闇の中で妖しく輝いている。
「な……」
ナビゲーション担当のオペレーターが、自分のコンソールとメインスクリーンを交互に見比べ、驚愕に目を見開いた。
「どうした! 報告しろ!」
フライトディレクターが怒鳴る。
「……加速……しています」
ナビゲーション担当は、信じられないという口調で呟いた。
「HTV-Y改が、微弱ながら加速しています! 予定外の速度変化を検知! まるで……まるで、プロトンの嵐を推進力に変えているみたいだ……!」
その言葉は、管制室に新たな衝撃をもたらした。
防御しているだけではない。
襲い来る脅威そのものを、自らの力に変えているというのか。
目の前で輝く「紅の帆」は、ただの盾ではなかった。
それは、太陽風を受けて進む宇宙ヨットのように、プロトンの嵐という宇宙の荒波を捉え、前へ進むための、未知の推進機関だったのだ。
誰もが、そのあまりに常識を超えた光景に、恐怖とも畏怖ともつかない感情で釘付けになっていた。
紅の帆が放つ妖しい光が最高潮に達した、その時だった。
線量が予測のピークに達し、ついにHTV-Y改を取り巻く環境が、通信を維持できる限界を超えた。
ザッ、という耳障りなノイズと共に、メインスクリーンに映し出されていたHTV-Y改の映像が、一瞬にして砂嵐に変わる。
そして、無慈悲に、全ての表示が消えた。
[ LOSS OF SIGNAL ]
黒い画面の中央に、無機質な白い文字だけが冷たく表示される。
テレメトリデータを示すグラフも、機体の状態を示すパラメータも、全てが意味のない文字列に置き換わり、更新を停止した。
つい先ほどまで、微かな加速を示していた速度計の数字も、凍り付いたように動かない。
希望の光点が、完全に消えた。
管制室は、完全な沈黙に支配された。
空調の低い唸りだけが、まるで巨大な墓標の中にいるかのように響いている。
紅の帆がもたらした驚愕と、わずかな希望は、この通信途絶という現実によって、深い闇の底へと突き落とされた。
「……通信、完全にロスト」
「テレメトリ、全チャンネル沈黙」
「音声、映像、全て駄目です……」
力なく、絶望的な報告が、ぽつり、ぽつりと漏れる。
あの紅の帆は、本当に船を守り切れたのか。
それとも、最後の抵抗もむなしく、電子機器は焼き切れてしまったのか。
加速は続いていたのか、それとも制御を失って回転しているのか。
何もわからない。
知る術が、完全に断たれてしまったのだ。
「通信が回復するまで、我々にはもう、何もできない……」
誰かが、そう呟いた。
その言葉が、管制室にいる全員の心を代弁していた。
彼らは、地球という岸辺から、たった一人で荒波に漕ぎ出していった船を見失ってしまったのだ。
あとはただ、祈ることしかできない。
深い不安と無力感が、鉛のように重くのしかかる。
動揺がさざ波のように広がっていく。
その重苦しい空気を切り裂いたのは、これまで腕を組み、静かに戦況を見つめていた崎島社長の声だった。
「大丈夫だ」
静かだが、鋼のような芯の通った声だった。
クルー全員の視線が、彼へと集まる。
「諸君、落ち着いて自分の持ち場を守ってくれ。シミュレーションを続け、通信が回復した瞬間にあらゆる事態へ対応できるよう、準備を怠るな。我々の希望は、この程度の嵐で消えたりはしない」
その言葉には、不思議な力があった。
何の根拠もない精神論のはずだ。
しかし、彼の揺るぎない態度と、クルーへの絶対的な信頼を示す眼差しが、パニックに陥りかけていた人々の心を、わずかに引き戻した。
オペレーターたちは、弾かれたようにお互いの顔を見合わせ、そして、ゆっくりと自分のコンソールへと向き直る。
絶望的な状況は変わらない。
だが、崎島社長の言葉が、彼らが今やるべきことを示してくれた。
再びキーボードを叩く音や、マウスを操作する音が響き始める。
それは、希望を取り戻した音というよりは、プロフェッショナルとしての意地と責任感が奏でる、静かな抵抗の音だった。
だが、その時。
翔太、涼子、そして崎島社長の三人が装着する、軽量なARグラスの視界の隅にだけ、他の誰にも見えない、半透明のウィンドウが静かに開いていた。
それは、通常の通信網とは全く異なる、量子暗号化された極めて低帯域のデータストリーム。
アーベルから直接送信された、彼ら三人だけが知る秘密の通信だった。
鼓動が速くなるのを、翔太は自覚した。
震える視線をその小さなウィンドウに集中させる。そこに表示されたのは、簡潔極まりない、しかし何よりも雄弁なテキストデータだった。
STATUS:
NOMINAL (正常)
SYSTEM:
NANO-SAIL DEFENSE SYSTEM - ACTIVE (ナノセイル防護システム作動中)
PROPULSION:
103% EFFICIENCY (推進効率103%)
ETA GATEWAY:
T- 7H 55M (ゲートウェイ到着予定時刻まで7時間55分)
翔太は、思わず安堵の息を吐きそうになり、慌ててそれを飲み込んだ。
正常。
システムは作動中。
そして、推進効率103%という、信じがたい数字。
プロトンの嵐は、HTV-Y改の航行を妨げるどころか、わずかに加速させ、ゲートウェイへの到着予定時刻を5分も早めていた。
あの紅の帆は、アーベルが自らの判断で展開した、ナノマシンによる防護兼推進システムだったのだ。
隣に立つ涼子も、驚きと安堵が入り混じった表情で、ARグラス越しの視線を崎島に向けていた。
崎島は、動揺するクルーたちに気づかれぬよう、ただ静かに、ごくわずかに頷きを返すだけだった。
彼ら三人だけが、真実を知った。
HTV-Y改が無事であること。
そして、人類の未知なる技術が、今この瞬間も、絶望的な宇宙の荒波を乗りこなし、希望の船を前へと推し進めていること。
ゲートウェイへの到着は、約8時間後。
その長く、そして完全な沈黙に支配された8時間を、彼らは耐え抜かなければならない。
クルーたちの不安と、世界の期待をその背に負いながら、決して口にすることのできない希望の秘密を胸に深くしまい込む。
翔太は、再び「LOSS OF SIGNAL」の文字が映るメインスクリーンへと視線を戻した。
その無機質な文字の向こう側に、プロトンの嵐の中を突き進む、紅の帆をまとった黄金の船の幻影が見えるような気がした。
沈黙の8時間が、始まった。




