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HTV-Y改の完璧な分離と軌道投入成功がもたらした安堵感は、しかし、長くは続かなかった。
それはまるで、嵐の前の海が凪ぐ、束の間の静寂に過ぎなかった。
管制室のクルーたちがようやく一息つき、コーヒーを手に次のシフトへの引き継ぎを考え始めた、まさにその時だった。
「フライトディレクター! 宇宙天気の速報が来ました!」
室内の隅にある宇宙天気情報セクションから、切迫した声が響いた。
フライトディレクターの鋭い視線がそちらへ向かう。
先ほどまでの穏やかな表情は消え、再び指揮官の顔に戻っていた。
「サブスクリーンに」
短い指示が飛ぶ。
メインスクリーンの隣にあるサブスクリーンが切り替わり、太陽コロナの観測画像と、複雑な予測モデルを示すグラフが表示された。
そのグラフの一角が、警告を示す赤色で激しく点滅している。
宇宙天気担当のオペレーターが、ヘッドセットを押さえながら早口で報告を続ける。
その声には、先ほどの軌道投入成功の安堵とは全く異質の、純粋な焦りが滲んでいた。
「数時間前に太陽面で発生したコロナ質量放出(CME)、その本体は地球の磁気圏を逸れ、直撃は回避される見込みです! しかし……!」
一度言葉を切った彼の表情が、スクリーンに映るデータを見てさらに険しくなる。
管制室の誰もが、その「しかし」という言葉の先に、不吉な何かを予感していた。
「それに伴う高エネルギープロトン現象の第一波が、現在HTV-Y改のいる宙域に到達します! 太陽フレアの規模から予測された密度を、大幅に上回っています! これは……これは想定外のレベルです!」
その報告は、冷たい鉄槌となって管制室の空気を打ち砕いた。
プロトン。
宇宙を飛び交う、目に見えない陽子の弾丸。
通常であれば、宇宙船のシールドで十分防げるはずのものだ。
だが、「予測を上回る密度」という言葉が、その常識を根底から覆す。
高密度で降り注ぐ陽子の嵐は、人間の身体はもちろん、HTV-Y改の頭脳である精密な電子機器にとって、死の宣告に等しい。
回路のショート、データの破損、最悪の場合は完全な機能停止。
先ほどまで、互いの労をねぎらい、固い握手を交わしていたオペレーターたちの顔から血の気が引いていく。
再び、息も詰まるほどの緊張が、今度は絶望という名の重りを伴って、室内を支配した。
「防護シールドは!?」
管制官が叫ぶ。
「船体の放射線対策でどこまで耐えられる!?」
「現在の予測線量では、主要電子機器の防護限界を超えます! 特に、メインコンピュータや航法誘導装置へのダメージは避けられません!」
「回避行動は!?」
「無理です! プロトンの到達まで、もう時間がありません!」
悲鳴のような報告が飛び交う。
打つ手がない。
人類の叡智の結晶であるはずの宇宙船が、太陽の気まぐれなくしゃみ一つで、なすすべもなく沈黙しようとしている。
メインスクリーンに映る黄金色の船体は、何も知らず、ただ静かに月への航海を続けていた。
その孤独な姿が、今はあまりにも儚く、脆く見えた。
誰もが絶望に唇を噛んだ、その時だった。
「……なんだ、あれは……?」
最初に気づいたのは、HTV-Y改のオンボードカメラの映像を監視していた若い技術者だった。
彼の掠れた声に、数名の視線がメインスクリーンへと引き寄せられる。
「どうした?」
「機体表面から……何かが……陽炎のようなものが……」
彼の言葉に、管制室の全員が息を呑んでスクリーンに集中した。
確かに、変化が起きていた。
滑らかであるはずのHTV-Y改の黄金色の多層断熱材(MLI)の表面が、まるで夏の日のアスファルトのように、微かに揺らめいて見えた。
それは、光学系の異常か、あるいは通信ノイズかと見紛うほど、ごく僅かな変化だった。
だが、その陽炎は次の瞬間、明確な形を伴って宇宙空間へと広がり始めた。
黄金の船体表面から、まるで霧が噴き出すように、無数の微細な粒子が放出される。
それはミッションプランのどこにも記されていない、全く未知の現象だった。
「これは一体……!?」
「報告にない事象だ! 何が起きている!?」
混乱が広がる中、翔太と涼子は互いの顔を見合わせた。
彼らの脳裏に、一つの存在が浮かび上がる。
――アーベル。
あの船にただ一人搭乗している、銀河文明の宇宙船のコア。
彼女が何かを……?
その予測を肯定するかのように、スクリーンの中の光景は、さらに信じがたいものへと変貌を遂げた。
放出されたナノマシンの霧は、機体後方の空間で、まるで知性を持っているかのように集結し、組織化されていく。
粒子と粒子が繋がり、面を形成し、あっという間に巨大な一枚の膜へと姿を変えた。
それは、HTV-Y改の船体そのものよりも遥かに巨大な、半透明の帆だった。
降り注ぐ太陽光を浴びて、まるで巨大なシャボン玉か、あるいはトンボの翅のように、虹色の光沢を放っている。
宇宙空間に、突如として巨大なオーロラの帆が広がったかのような、幻想的な光景だった。
管制室は、水を打ったように静まり返っていた。
目の前で起きていることが理解できず、誰もが言葉を失っていた。
それは、サキシマ重工の、いや、人類の既知の技術体系のいずれにも属さない、オーバーテクノロジーそのものだった。
その神秘的な静寂を切り裂いたのは、プロトンの嵐だった。
目には見えない高エネルギーの粒子が、HTV-Y改へと殺到する。
誰もが船体からのエラー信号を覚悟した。
だが、プロトンの嵐が機体に到達する寸前、その巨大な半透明の帆が、盾となって立ちはだかった。




