7-12
日村に促されるまま、近藤が足を踏み入れた「儀式」の部屋は、どこか既視感を覚える空間だった。
それはまるで、大きな病院の待合室を思わせた。
壁際に沿って、硬質プラスチック製の椅子が等間隔に並べられ、既に十数人の男女が無言で腰を下ろしている。
部屋の奥にはもう一つ扉があり、その前には体格の良い黒服の男たちが、まるで石像のように微動だにせず立ちはだかっていた。
彼らの鋭い視線が、時折、待合室の空気を切り裂くように走る。
近藤は、空いていた最後列の椅子にそっと腰を下ろした。
ぎしり、と安っぽい椅子が軋む音が、やけに大きく響いた気がした。
周囲の人々は、互いに言葉を交わそうとはせず、それぞれが異なる表情で一点を見つめている。
ある者は、潤んだ瞳にわずかな希望の光を宿らせ、何度も奥の扉に視線を送っている。
またある者は、顔面蒼白で唇を噛みしめ、明らかに不安と恐怖に苛まれているようだった。
学生風の若い男は、膝の上で固く握りしめた拳が小刻みに震えている。
近藤自身も、彼らと同じように、期待と不安が入り混じった奇妙な高揚感と、それとは裏腹の言いようのない不気味さを感じていた。
先ほどの講堂で見た、ヨハンナと名乗る女が披露したナイフの舞。
あれは間違いなく本物だった。
手品やイリュージョンの類ではない、人知を超えた何か。
もし、自分にもあのような力が眠っているとしたら……。
日村の言葉が脳裏に蘇る。
「あなた方にはまだ未開発の、いえ、意図的に隠されてきた偉大な力があるのです」
その言葉が、今の近藤にとっては抗いがたい魅力を持っていた。
失うものは何もない。
あるのは、この空腹と、社会の底辺を這いずり回る惨めな現実だけだ。
壁にかけられた古びた時計が、カチ、カチ、と無機質な音を刻んでいる。
その一秒一秒が、やけに長く感じられた。
甘いお香の匂いはもうほとんど感じられない。
代わりに、消毒液のような嗅ぎ慣れない薬品の匂いが微かに漂っているような気がした。
不意に、奥の扉が静かに開いた。
現れたのは、日村の組織の人間なのだろう、清潔だがどこか冷たい印象を与える白衣を着た初老の男だった。
彼は手にしたクリップボードに目を落とし、抑揚のない声で言った。
「前の方」
一番端に座っていた、痩せこけた中年の男が、びくりと肩を揺らして立ち上がった。
その顔には、期待よりも恐怖の色が濃く浮かんでいる。
男は、おぼつかない足取りで白衣の職員に促され、まるで屠殺場に引かれていく家畜のように、重々しく扉の向こうへと消えていった。
パタン、と扉が閉まる乾いた音が、待合室の沈黙を一層重くした。
それから、十分か、あるいは二十分おきだろうか。
白衣の職員は淡々と次の人間を呼び出し、一人、また一人と、奥の部屋へと姿を消していく。
誰も戻ってはこない。
その事実が、近藤の胸に鉛のような不安を少しずつ積もらせていった。
しかし、あのヨハンナの超能力が、そして日村の自信に満ちた言葉が、わずかな希望となって彼をこの場に繋ぎ止めていた。
何人かが呼ばれていった後、とうとう近藤の番が来た。
「次の方、どうぞ」
今度は女性の職員だった。
白衣を身にまとい、眼鏡の奥の瞳は感情を読み取らせない。
近藤は、ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと立ち上がった。
足が、まるで自分の意志とは無関係に動いているかのように重い。
女性職員に先導され、近藤は奥の扉をくぐった。
そこは短い廊下になっており、さらに数メートル進むと、もう一つの金属製の扉が現れた。
職員が慣れた手つきでカードキーをかざすと、重々しいロック解除の音と共に扉が開く。
案内されたのは、先ほどの待合室とは打って変わって、手術室か実験室を彷彿とさせる冷え冷えとした空間だった。
部屋の中央には、歯科医院にあるようなリクライニングチェアが鎮座しており、その周囲には心電図モニターや脳波計らしきもの、その他にも近藤には用途の分からない無数の計器類が、威圧的な存在感を放ちながら並べられている。
そして、その椅子を取り囲むように、屈強な体格の男たちが三人、腕を組んで壁際に立っていた。
彼らの視線は、近藤の姿を捉えると、まるで獲物を品定めするかのように鋭く、そして冷ややかに注がれた。
「こちらへどうぞ」
白衣の女性職員が、そのリクライニングチェアへと近藤を促した。
その口調は丁寧だったが、有無を言わせぬ圧力が込められている。
近藤は、言いようのない不安と恐怖に駆られながらも、磁石に引き寄せられる鉄のように、ゆっくりと椅子へと近づいた。
彼が椅子のすぐそばまで来た、その瞬間だった。
それまで壁際に立っていた男たちが、素早く、そして無駄のない動きで近藤を取り押さえた。
「なっ、何をする! 離せ!」
近藤は本能的な恐怖から反射的に叫び、身を捩って抵抗しようとした。
だが、専門的な訓練を受けたであろう男たちの力は圧倒的だった。
一瞬にして両腕を背後に捻り上げられ、強引にリクライニングチェアへと押し付けられる。
バチン、バチン、という無慈悲な金属音が連続して響き渡った。
分厚い革製のベルトが、まず手首に、次いで足首に、そして最後に額に、容赦なく巻き付けられ、固定されていく。
「やめろ! 話が違うじゃないか! これが『儀式』だというのか!? 日村は、力を与えてくれると言ったはずだ!」
近藤は必死に叫び、身をよじった。
しかし、ベルトはびくともしない。
全身が椅子に完全に拘束され、指一本動かすことすらままならなかった。
かつて部下を率いていた頃の自負も、路上で培ったささやかな知恵も、ここでは何の意味もなさなかった。
ただ、無力感と屈辱感だけが、じわじわと心を侵食していく。
すると、部屋の隅のデスクに座っていた、先ほどとは別の、やや年配の白衣の男が、ゆっくりと立ち上がり、近藤の前に進み出た。
その男の目は細く、爬虫類を思わせる冷たい光を宿していた。
「ご心配なく。これは『儀式』の重要なプロセスです。これから、あなたの体内にナノマシンを注入し、その適合試験を行います」
男は、まるで天気の話でもするかのように淡々とした口調で言った。
「なに、適合さえすれば、あなたは我々の『使徒』となり、先ほどご覧になったような、あるいはそれ以上の力を手に入れ、この腐敗した世界を変革する我々の偉大な事業に参加できるのです。名誉なことですよ」
「な……ナノマシン……?」
近藤は喘ぐように言った。
「適合……できなかったら……?」
男は、初めてわずかに口角を上げた。
しかし、それは微笑みというよりは、冷酷な嘲りに近かった。
「まあ、残念ながら、適合確率は限りなくゼロに近い。ほとんどの方は、拒絶反応で……そうですね、少々苦しまれるかもしれませんが、すぐに楽になりますよ」
その言葉が意味するものを理解した瞬間、近藤の全身から血の気が引いていくのを感じた。
背筋を、氷のような悪寒が駆け上った。
その時、ふと視界の左端に、何か異様なものが映った。
首をわずかに動かすと、そこには、自分と同じようにリクライニングチェアに拘束された、別の人間らしき影が見えた。
部屋の照明がそこだけ薄暗く、顔の表情までは判別できない。
しかし、だらりと垂れた首、力なく投げ出された手足、そして何よりも、その虚ろな瞳には、まるで魂が完全に抜け落ちてしまったかのように、何の光も宿っていなかった。
ピクリとも動かないその姿は、もはや生きている人間のそれではない。
既に、事切れているのだ。
適合できなかった者の、哀れな末路。
あれが、これから自分に訪れるかもしれない未来の姿なのだ。
「あ……ああ……うわあああああああっ!」
恐怖と絶望が、堰を切ったように近藤の心の奥底から噴き出した。
彼は最後の力を振り絞り、獣のような雄叫びを上げようとした。
だが、その声が完全に発せられる前に、素早く近づいてきた黒服の男性によって、口元に冷たい何か――布製の猿ぐつわ――が強引に押し当てられた。
抵抗する間もなく、それは口腔内へとねじ込まれ、言葉を発する自由も、助けを求める叫びも、完全に奪い去った。
「ンンーッ! ンーッ!」
声にならない呻きだけが、喉の奥から苦しげに漏れ出る。
手足は拘束され、声も奪われ、もはや、なすすべは何もなかった。
冷たい汗が額を伝い、顎から滴り落ちる。
意識が、急速に遠のいていくのを感じた。
それは、恐怖と絶望によるものなのか、それとも、先ほどから部屋に充満し始めていた、微かな薬品臭のせいなのか。
朦朧とする意識の中で、近藤は最後に見た。
無表情で自分を見下ろす白衣の集団。
その中の一人が、銀色に鈍く輝く注射器を手にしているのを。
注射針の先端が、冷たく、そして鋭く光っていた。
(騙された……最初から……)
後悔と怒りが、薄れゆく意識の底で渦を巻いた。
日村の穏やかな声、ヨハンナの神秘的な姿、講堂を包んだ奇妙な一体感、衣食住の提供という甘い誘惑。
それら全てが、この絶望的な結末へと続く巧妙に仕組まれた罠だったのだ。
横浜の倉庫街で見た、あの巨大な機械蜘蛛の姿が、一瞬、網膜を掠めた。
彼らが求める“奴ら”と戦うための力。
それは、このような非人道的な犠牲の上に成り立つというのか。
視界が、ゆっくりと暗転していく。
最後に耳にしたのは、金属トレーの上で注射器がカチャリと触れ合う、乾いた音だけだった。
そして、近藤の意識は、深い、底なしの闇へと沈んでいった。
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サラリーマン、龍と異世界メシ充してます ~食いしん坊な龍と行く、最強スローライフ~
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