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倉庫街の一角、古びた煉瓦造りの三階建てビル。
その最上階の一室。
むき出しの配管が壁を走り、床には埃が積もり、カビと潮風の匂いが混じり合った空気が淀んでいる。
中央には、パイプ椅子が置かれ、そこに手足を縛られた涼子の姿があった。
「近藤! さっさと飯を買ってこイ!」
中華風の男――チャン・ユーハオが、苛立たしげに吐き捨てた。
その声に、入り口近くに立っていた中年の男、近藤がびくりと肩を震わせた。
彼はチャンに闇バイトとして使い捨てにされる人材と同じ様に扱われていた。
「本当にこれでキャッシュカードとマイナンバーカード、そしてパスポートは返して貰えるんですか……あと、私の顔写真や個人情報も公開しないで消してくれるんですよね?」
その顔には新たな青痣がついていた。
パイプ椅子に涼子を縛り付ける途中、意識を取り戻した彼女に殴られた痕だ。
「それハ、お前の働き次第だナ。さっさと行ケ」
近藤は頬をさすりながら、部屋から出て行った。
おそらく、近くのコンビニへでも向かったのだろう。
これで、この部屋にいるのはチャンと涼子の二人だけになった。
チャンの爬虫類のような冷たい目が涼子へ向けられる。
涼子は反発するように恐怖と怒りに震えながらも必死に彼を睨みつけた。
「こんなことして、どうなるか分かってるの!? 私を誘拐したって、兄貴の研究成果なんて手に入らないわ! 私は本当に、何も知らないのよ!」
涼子の声は震えていたが、その瞳にはまだ抵抗の光が宿っていた。
「あア、知ってるヨ。お前が何も知らなイことは、最初から分かってル」
チャンは、顔の筋肉を奇妙に歪ませ、どこか人間味の欠けた不気味な笑顔で答える。
その目は全く笑っていない。
「だったら、なぜ……!」
「お前は、大事な『餌』だからナ。お前の兄貴――あの南川除染技研の天才科学者を操るためのナ」
「……っ!」
涼子は息を呑んだ。
兄を操るための人質。
それが自分の役割だと突きつけられ、言葉を失う。
そんな絶望の中、ふと脳裏に一人の男性の顔が過ぎった。
何故だろう、それだけで心の底から力が湧いてきた。
涼子は強くチャンを睨みつけた。
「翔太さんが……翔太さんが、絶対に助けに来てくれる! あなた達みたいな卑怯者、やっつけてくれるわ!」
その言葉を聞いたチャンは、一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それから腹の底から込み上げるように嘲笑った。
ひひひ、と甲高い、不快な笑い声を立てながら、不思議そうに首を傾げてみせる。
「ン? ショータ? あア、あの不快な虫けらのことカ。……残念だっタな、お嬢ちゃん。死体は、助けに来ないヨ」
「……死体……?」
涼子の思考が、一瞬停止した。
その言葉の意味を、脳が理解することを拒絶した。
チャンは得意げに胸元のホルスターから、黒光りする自動拳銃を取り出し、まるで玩具のように涼子の目の前でヒラヒラと見せびらかす。
それから、近くにあった古いスチール製の机の引き出しを乱暴に開け、そこから箱に入った予備の弾薬を取り出すと、手際よく、しかしこれ見よがしに弾倉へと一発ずつ弾を装填し始めた。
「俺に逆らうヤツ、俺をコケにするヤツは、こうなる運命なんダ。俺を嵌めたあの生意気な男も、調子に乗って俺に楯突いたから、ちゃんとお仕置きしてやっタ。ひひ、ひひひ……」
かちり、かちり、と、金属製の弾丸が弾倉のスプリングに押し込まれていく、冷たく乾いた機械的な音が、静かな室内に不気味に響き渡る。
一発、また一発と込められるごとに、涼子の心臓は氷の塊で打たれたように冷えていく。
「撃ったってこと?殺し……た……? 翔太、さんを……? あなたが……?」
涼子はその言葉の持つ、絶望的な重さを受け止めきれなかった。
全身の血の気が引き、世界が音と色を失っていくような感覚。
目の前が真っ白になり、ただ呆然と、弾を込めるチャンの手元を見つめることしかできない。
いつも、どんな時も頼りになった先輩。
誰にも言えなかった、幼少期から抱えていた複雑な悩みや葛藤を、優しく真剣に聞いてくれた、たった一人の理解者。
そしてトラブルから始まった少しぎこちない、けれど温かい共同生活。
不器用だけど、いつも一生懸命で、真っ直ぐで……少しずつ、確実に縮まっていった、お互いの距離。
気づけば、彼の存在が自分の中で、かけがえのない、大きなものになっていたのに……。
様々な思い出が、走馬灯のように浮かんでは、チャンの冷酷な言葉によって打ち消され、泡のように消えていく。
後悔と、絶望と、そして激しい怒りが綯い交ぜになって胸を締め付ける。
やがて、耐えきれなくなった感情が、熱い涙となって涼子の瞳からとめどなく溢れ出した。
嗚咽を漏らさないように、唇を強く噛みしめる。
だが、その抵抗も虚しく、静かな部屋に、絶望に打ちひしがれたか細いすすり泣きだけが響いた。
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(同時刻、倉庫ビル屋上)
不思議な感覚だった。
トランスポート・ユニットと神経接続した翔太の意識は、物理的な限界を超越し、まるでレントゲン写真か、あるいは高精度のサーモグラフィーのように、眼下の建物の分厚いコンクリート構造を透かし見ていた。
壁の向こう側。
三階の一室にいる人物たちの姿。
その位置関係、部屋に置かれた家具の配置。
パイプ椅子に縛られ、涙を流している涼子の姿。
そしてその傍らで拳銃に弾を込め、歪んだ笑みを浮かべているチャンの姿までもが、驚くほどはっきり彼の知覚に映し出されていた。
そして、チャンの口から発せられた「死体は助けに来ない」という言葉と、涼子の絶望的な嗚咽が、特殊な集音センサーを通じて、まるで耳元で囁かれたかのようにクリアに彼の意識へと届いた瞬間――。
沸々とマグマのような灼熱の怒りが翔太の心の奥底から湧き上がってきた。
許せない。
この男だけは、絶対に。
涼子を傷つけ、恐怖を与え、そして自分を殺そうとした。
この外道を、この手で――!
『ダメです、翔太さん! 冷静になってください! 感情に飲まれてはいけません!』
その怒りの衝動が臨界点に達しようとしたまさにその瞬間。
アーベルの冷静で、しかし強い意志のこもった声が、思考の奔流に割り込んできた。
それはまるで、燃え盛る炎に絶対零度の冷却水を浴びせるかのように、心の奥底から湧き出しかけていた制御不能な怒りという名の熱を強制的に冷ましていく。
そうだ、冷静にならなければ。
目的は、チャンの殺害ではない。
涼子の安全な救出だ。
輸送ドローンから静かに切り離され、トランスポート・ユニットはほとんど音を立てずに目標の倉庫ビルの屋上に着地した。
何百㎏もの重量があるはずなのに、まるで猫が柔らかい絨毯に降り立つかのようで衝撃は皆無に近かった。
着地と同時に八本の多関節脚が、内部機構の微かな音を立てながら、まるで巨大な蜘蛛が獲物に忍び寄るかのように、静かにしかし素早く屋上の古びたコンクリートの上を這い始めた。
その動きは、滑らかかつ効率的で重さを全く感じさせない。
翔太は、機体と一体化した意識の中で、深く、ゆっくりと呼吸を整える。
怒りはまだ胸の奥で燻っている。
だが、今はそれを制御下に置かなければならない。
視界の隅には、涼子のバイタルサイン――心拍数と呼吸数が、平常時よりも明らかに高く、不規則に表示されている。
彼女が極度の恐怖とストレスに晒されている証拠だ。
「アーベル、最適な突入ルートを指示してくれ」
『了解。当該建造物の上部構造、及び屋根材の材質・強度をスキャンしました。最も脆弱で、かつ目標地点への最短経路となる箇所を特定。そのポイントを物理的に破壊し、内部へ直接エントリーします』
翔太のAR視界に、屋根の一部が半透明の赤いマーカーでハイライト表示される。
そこが、アーベルの計算によって導き出された、最適な突入口だ。
『目標室内の状況を再確認。目標であるチャンは、依然として武器を所持。現在、椅子に縛られた涼子さんに接近し、銃口を向けながら何事か話しかけています。極めて危険な状況です』
その報告を聞き、抑え込んでいたはずの怒りが、再び翔太の中で激しく膨れ上がった。
「待ってろ、涼子……! 今、すぐ行く!」
機体は、指示されたポイントへ向けて、冷たく湿った屋根の上を金属とコンクリート同士が擦れる微かな音を立てながら滑るように進んだ。




