5-1
真綿のように濃い靄が翔太の意識を包んでいた。
ゆっくりと重いまぶたを押し上げる。
最初に映ったのは、薄暗がりに沈む天井だった。
視界はまだ霞んでいて、ピントが合わない。
まるで深い水の底から浮上するような、鈍い浮遊感が思考を鈍らせる。
どこだ、ここは……?
疑問が脳裏をかすめるが、答えは靄の向こうだ。
徐々に視界が鮮明になるにつれて、その天井がコンクリート製であることがわかった。
滑らかに研磨された表面は、照明を受けて鈍い光沢を放ち、まるで硬質な大理石のようだ。
人工的な冷たさ。
そこには、等間隔に配線ダクトが設置され、無数のケーブルが神経網のように壁を這い、天井を走っている。
整然として、しかし生命の温かみを感じさせない光景。
周囲は深い静寂に満ちていた。
機械の駆動音も、人の気配もない。
ただ、人工的な青白い光だけが、彼とその周りを冷ややかに照らし出している。
鼻腔をくすぐる、微かな匂いがあった。
金属が高熱で加工される際に漂うような、わずかに焦げたオゾンの香り。
それはどこか工業的な、それでいて奇妙に清潔な匂いだった。
この匂いには、覚えがある。
脳の片隅に引っかかっていた記憶の断片が、匂いと結びついて像を結び始めた。
翔太は、吸い寄せられるように天井を凝視した。
そうだ、この無骨なコンクリートの壁、この整然とした配線の処理、そしてこの独特の匂い。
間違いなく、アーベルが裏山の地下深くに築いた、秘密の施設のそれだ。
その中の一室に、自分はいる。
「……なんで、俺……ここに……?」
掠れた声が、乾ききった唇から漏れ出た。
まるで長い間使われていなかった楽器のように、声帯はうまく振動しない。
その呟きが引き金になったかのように、記憶の奔流が翔太の意識へと流れ込んできた。
涼子が、あの男たちに攫われた。
閃光と衝撃。腹部に走った、焼けるような激痛。
「っ!」
記憶の鮮明さに、思わず息を呑む。
はっとして、反射的に上体を起こした。
アドレナリンが全身を駆け巡る。
震える手で、自分の胸、腹を押さえる。
服の上から、さらにその下の肌へと、指先が探るように動く。
銃弾が貫いたはずの場所。
血が溢れるのを何とか止めようと抑えたあの場所。
だが、そこには何もない。
皮膚は滑らかで、傷跡一つ見当たらない。
銃創の痛みも、血のぬめりも、熱も、何もかもが嘘のように消え去っていた。
まるで、あの出来事自体が、悪夢の中の出来事だったかのように。
「……嘘、だろ……?」
混乱が脳を締め付け、思考が麻痺する。
心臓が早鐘を打ち、背筋に冷たい汗が流れる。
あの鋭い痛み、撃たれた瞬間の衝撃、倒れ込む寸前に感じた冷たいアスファルトの感触――あれは幻だったというのか? いや、幻にしてはあまりにも生々しすぎる。
その混乱のさなか、静かな声が部屋の空気を震わせた。
「無事に起きて良かったです。翔太さん、お加減はいかがですか?」
声のした方へ、弾かれたように顔を向ける。
そこにいたのは、見慣れた黒猫の姿――アーベルだった。
だが、彼女の様子は明らかにいつもと違っていた。
艶やかな黒毛に覆われた体は、心なしか一回り小さく、華奢に見える。
ピンと立っているはずの尖った耳はわずかに垂れ、長くしなやかなはずの尻尾は、まるで子猫のように短く、頼りなげに揺れている。
全体的に、どこか幼い印象を受ける。
まるで、普段のアーベルを子猫にしたような姿だ。
しかし、翔太はその異変に思いを巡らせる余裕すらなかった。
彼の頭の中は、ただ一つのことで占められていた。
「涼子を……助けに行かないと」
焦燥感に駆られ、彼はベッドから立ち上がり、足を踏み出そうとした。
だが。
ぐらり、と世界が大きく傾いた。
足元がおぼつかず、まるで船の上にいるかのように地面が揺らぐ感覚。
全身から急速に血の気が引いていくような、強烈な貧血に似た感覚が彼を襲う。
膝から力が抜け、立っていることすらできない。
「くっ……!」
咄嗟に腕を突き、床に崩れ落ちる寸前で何とか体を支える。
ひんやりとしたコンクリートの感触が掌に伝わるが、体は鉛のように重く、自分の意志とは無関係に震えていた。
呼吸は浅く速くなり、額には玉のような汗が滲み出す。
なんだ、この異常な脱力感は。
撃たれたはずの体は無傷なのに、まるで生命力を根こそぎ奪われたかのようだ。
その、苦痛に顔を歪めた瞬間だった。
『ダメです、翔太さん。今は安静にしないと』
声が、響いた。
それは、鼓膜を震わせて届いた音ではなかった。
頭の中に、直接。
思考に割り込むように、クリアに、それでいて柔らかく響く声。
驚愕に目を見開いてアーベルを見ると、彼女は小さな体でじっと翔太を見つめていた。
その大きなエメラルド色の瞳には、深い心配と、そして確かな優しさが宿っていた。
口は動いていない。
なのに、声ははっきりと聞こえた。
「い、今のは……なんだ? テレパシーか……? それに、お前……なんだか小さくなってないか?」
声が震え、言葉がうまく紡げない。
混乱がさらに深まっていく。
アーベルは、その問いには直接答えず、小さくかぶりを振ると、音もなくゆっくりと翔太に近づいてきた。
コンクリートの床の上を、まるで影が滑るように静かに移動する。
しかし、その小さな体躯とは裏腹に、彼女の存在感は揺るぎなかった。
「落ち着いてください、翔太さん。それも含めて、これからきちんとお話しします」
アーベルの声は静かだった。
だが、その響きの中には、複雑な感情が織り交ぜられているのを翔太は感じ取った。
深い悲しみ、翔太が無事だったことへの安堵、そしてーーほんのわずかだが、確かな怒りの色。
その感情の矛先がどこへ向いているのかは分からない。
だが、その声音に含まれた切実さに、翔太はなぜか胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
彼は、反論する言葉を飲み込んだ。
まだ体は思うように動かせない。
床についた掌に体重を預けたまま、彼は黙って頷いた。
今は、彼女の言葉を信じるしかない。
目の前にいる、いつもよりずっと小さく、どこか頼りなげに見えるアーベル。
だが、そのエメラルドの瞳の奥には、状況を乗り越えようとする揺るぎない意志の光が宿っていることを、翔太は本能的に理解していた。
何が起きたのか。
なぜ自分は無傷なのか。
なぜアーベルは姿を変えているのか。
そして何より、涼子は無事なのか?
疑問は尽きない。
だが、答えは彼女が持っている予感がした。
翔太は、床の冷たさを感じながら、静かにアーベルの次の言葉を待った。
部屋の静寂が、やけに重く感じられた。




