4-12
その日、千葉の空は重く垂れ込め、冷たい雨が降り続いていた。
冬の雨はシトシトと地面を濡らしていく。
喧騒は遠く、工場の敷地には雨音だけが響いていた。
翔太と涼子は、サキシマ重工での仕事を終え、千葉へと戻ってきたばかりだった。
トラックの荷台には、小惑星探査機に偽装した工作機を固定していた機材や工具が無造作に積み重ねられている。
涼子はハンドルを握り、慎重に南川除染技研の第二工場の敷地へと車を進めた。
雨に濡れて鈍く光るコンクリートの塊の工場建屋は無機質でどこか寂しげだった。
車が停まり、エンジンが切られる。
翔太は大きく息を吐いた。
「やっと帰ってきたな……」
彼の声には、疲労と安堵が混じっていた。
運転席の涼子が、くすっと笑みを浮かべた。
「翔太は座ってただけじゃない。私は運転で疲れた! 今日はもう、ゆっくり休む!」
彼女の声は明るいが、微かな疲れの影がちらついている。
「そうだな、ごめん。でも、まだ荷下ろししないと。」
短く答えた翔太は、シートベルトを外し、体をほぐすように肩を回した。
その瞬間、後部座席からひょいと身軽な影が飛び出した。
黒猫のアーベルだ。
しなやかな動きで翔太を飛び越え、地面に降り立つ。
彼女はくるりとしっぽを揺らした。
「私は少し作業があるので、先に工場へ行きますね。」
その声は落ち着いているが、どこか急ぐような響きがあった。
アーベルは雨の中、軽やかな足取りで建屋の影へと消えていった。
雨粒が彼女の黒い毛並みに弾け、まるで小さな星のようにきらめいた。
翔太と涼子はトラックの荷下ろしを始めた。
雨は容赦なく二人の作業着を濡らし、冷気が指先を痺れさせた。
工具がぶつかり合う金属音と雨の単調なリズムが交錯する中、突然、遠くからエンジンの低い唸りが聞こえてきた。
舗装された坂道を、黒塗りのバンがゆっくりと登ってくる。
ヘッドライトが雨のカーテンを切り裂き、不気味な光を投げかけていた。
「……誰だ?」
翔太は眉をひそめ、目を細めてバンを見つめた。
涼子も荷台から顔を上げた。
「今日、誰か来る予定なんてあったっけ?」
翔太が涼子に尋ねる。
「ううん、何も無いはずだけど……」
彼女の声には、微かな不安が滲む。
バンは工場の敷地に滑り込むように停まり、助手席のドアが静かに開いた。
そこから現れたのは、一人の男だった。
チャン・ユーハオ。
スーツは高級そうだが、どこか不自然に皺が寄り、目元の深い隈が彼の顔に不健康な影を落としている。
中華系の顔立ちに、薄い笑みを浮かべたその姿はまるで幽霊のように異様だった。
「やア、初めましテ。」
チャンは丁寧に会釈したが、その目は焦点が合わず、翔太と涼子をじろじろと品定めするように見回した。
雨が彼の髪を濡らし、 金縁眼鏡の表面に水滴が流れる。
「初めまして? どうされたんですか?」
翔太は警戒心を隠さず、一歩前に出た。
体は無意識に涼子を庇う位置を取っている。
チャンは口角を吊り上げ、歪んだ笑みを浮かべた。
「いエ、高橋さんに用がありましテ……」
その声は滑らかだが、どこか不自然な抑揚があった。
「私に?」
翔太の声に疑念が滲む。
「ええ、あなたにニ。それに都合がいイ……まさか南川さんも居るとワ。」
チャンの目は涼子に移り、ぎらりと光った。
翔太は一瞬、状況を測るようにチャンを睨んだ。
「涼子にも用があるんですか?」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間、チャンが翔太を突き飛ばし、涼子に素早く歩み寄った。
そして、ポケットから取り出した白いハンカチを、彼女の口元に押し当てる。
ハンカチからは、甘くむせるような化学薬品の匂いが漂った。
「っ!?」
涼子は驚き、反射的に腕を振り上げて抵抗したが、チャンの力は予想以上に強く、彼女の動きを封じた。
数秒と経たず、涼子の体から力が抜け、ぐったりと膝をついた。
彼女の瞳は虚ろに揺れ、意識が遠のいていく。
「涼子!」
翔太が叫び、立ち上がり駆け寄ろうとした瞬間、乾いた銃声が空気を裂いた。
ターンッ!
足元のアスファルトに小さな穴が開き、砕けた破片が飛び散る。
翔太は思わず身を引いた。
冷たい雨が、額を伝う汗と混ざり合う。
「動くナ。」
チャンは懐から取り出した無骨な拳銃を構え、翔太を睨み据えた。
銃口が雨に濡れて鈍く光る。
彼の目は血走り、正気を失った獣のようだった。
「彼女には人質になってもらウ……南川除染技研の所長の妹。この女には価値があるヨ。」
「なんの真似だよ、あんた! そんなことに意味があるとでも――」
翔太の声は怒りに震えていたが、チャンはそれを遮るように笑った。
神経質で、引きつった笑い声だ。
「意味なンてあってもなくてモ、関係ナイのサ。」
彼の手は震え、銃口が微かに揺れる。
チャンは懐から小さな錠剤がいくつも入った小瓶を取り出し、その中身を呷った。
ガリッという音が、雨音の中で不気味に響く。
「お前ガ、嵌めたんだロ……偽の設計データを近藤に渡しテ……」
「何!?」
翔太の脳裏に、過去の出来事が一瞬フラッシュバックする。
だが、状況を整理する暇はなかった。
チャンの目はさらにギラギラと光り、興奮が頂点に達している。
「南川除染技研かラ身代金の代わりに技術を貰ウ。それで俺は組織で返り咲ク…ふひひ!」
彼の笑いは狂気に満ち、雨に濡れた顔が歪む。
「現代社会でそんなこと出来るわけがないだろ! 冷静になれ!」
翔太は必死に叫んだ。
だが、チャンの目は虚ろで、まるで別の世界を見ているようだった。
「冷静? 冷静だとモ?」
チャンは一瞬、焦点を失った目で翔太を見たが、すぐに拳銃を突きつける。
「お前が! お前がはめたんだロ! 近藤にわざと偽装データを盗ませテ!」
同じことを繰り返す。
チャンの言葉は止まらない。
「まア、いい。最初は俺をはめたやつを殺そうと思ってたんダ。だが、調べると南川除染技研への人質になりそうな人物も居るじゃないカ……これは天命だヨ!」
チャンは狂ったように笑い、拳銃を振り上げた。
「おい! 近藤! この女を車に乗せロ!」
その名が出た瞬間、バンの運転席のドアが開いた。
そこから現れたのは、痛々しい姿の元上司、近藤だった。
顔には青黒い痣が浮かび、目は怯えと疲弊に濡れている。
彼はチャンの指示に従うように、よろよろと涼子の体を支えた。
「近藤……!」
翔太が叫ぶ。
近藤は視線を逸らし、地面を見つめたまま呟いた。
「すまねぇな……俺も命懸かってんだ。それに、嵌めたのはお前だろ。」
その声には、諦めと恨みの色が滲む。
近藤は涼子を後部座席に運び込み、ドアを閉めた。
バンのエンジンが再び唸りを上げる。
チャンは翔太を振り向き、冷たく言った。
「彼のいう通りサ、嵌めようとしたのワ、君だろウ?」
銃口を翔太に向けながらチャンは助手席側へ回り込む。
翔太は歯を食いしばり、拳を握り締めた。
雨が彼の髪を濡らし、頬を伝う。
しかし、彼は諦めていなかった。
チャンが助手席のドアを開けようとした瞬間に生まれたわずかな隙。
翔太は意を決し、全力で飛び出した。
雨に濡れた地面を蹴り、チャンに突進する。
その瞬間、再び銃声が響いた。
ターンッ!
鋭い痛みが腹部を貫き、翔太は前のめりに倒れ込んだ。
「っ……く……!」
彼は腹を押さえ、冷たいアスファルトに膝をつく。
血が指の間から溢れ、雨と混ざり合って地面に広がる。
「映画のようにはいかナイよ、高橋翔太くン。」
チャンはゆっくりと近づき、嘲るような笑みを浮かべた。
翔太が這うように立ち上がろうとすると、チャンの靴が腹に強烈な一撃を加えた。
鈍い衝撃が全身を駆け巡り、翔太は地面に転がされる。
「ひひひ、お前のせいダ……お前の!」
チャンの声は憎しみに満ち、銃口が再び翔太を捉える。
ターンッ! ターンッ! ターンッ!
連続する銃声。
三発の弾が翔太の身体を撃ち抜いた。
胸、肩、脇腹。
熱い痛みが広がり、意識が遠のいていく。
それでも翔太は歯を食いしばり、血に濡れた手で地面を掴んだ。
涼子の名を、呟こうとした。
「うっとおしいなア……」
チャンは苛立ったように呟き、さらに引き金を引いた。
ターンッ! ターンッ! ターンッ! ターンッ!
四発の弾が、翔太の動きを完全に止めた。
雨が彼の顔を叩き、開かれた瞳に滴が溜まる。
世界が静かになり、音が遠ざかっていく。
チャンの目から、ふと狂気が薄れた。
彼は一瞬、呆然と翔太を見下ろした後、吐き捨てるように言った。
「……行くゾ、近藤。」
助手席に乗り込み、バンのドアが閉まる。
エンジンが唸り、車はゆっくりと工場の敷地を離れていった。
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雨音だけが、虚しく響いていた。
雨がアスファルトを叩く音だけが執拗に響き、黒ずんだ地面に無数の波紋を描いている。
赤黒い染みがじわりじわりと広がっていた。
その時、建屋の影から小さな影が飛び出した。
黒い毛並みの猫。
アーベルだった。
「翔太さん……!」
彼女の声は震え、雨に掻き消されそうだった。
血の海の中で、翔太の目はわずかに開かれている。
だが、焦点は合わず、呼吸は浅く、途切れ途切れだ。
アーベルは小さな体をわなわなと震わせ、翔太の側へと駆け寄った。
彼女の黒い毛並みから滴る雨粒が、地面に薄く広がった翔太の血に混じる。
「お願いです……死なないで……!」
アーベルの瞳から、雨とは違う雫が溢れ落ちた。
次の瞬間、彼女の表情は悲嘆から、ある種の決意へと変わった。
小さな唇をきつく結び、彼女は両脚を翔太の上に重ねた。
アーベルの脚先から、銀色の霧が立ち昇るように、微細な粒子が流れ出す。
アーベルの体を構成するナノマシンだ。
それは液体金属のような鈍い光沢を放ち、雨粒を弾きながら翔太の体へと降り注ぐ。
粒子は意志を持っているかのように瞬く間に薄い膜となって翔太の体を覆い始めた。
「お願い……お願いです……!」
アーベルは、ナノマシンに命令を送り続ける。
それはまるで祈るようだった。
雨の中、彼女の叫びは悲痛に響いた。
しかし、その声もまた降り続く雨音と背後に聳える工場の建屋の静寂の中に、虚しく吸い込まれていく。
ナノマシンの淡い光だけが、この絶望的な光景の中で不可思議な輝きを放ち続けていた。
冷たい雨は、まだ止む気配を見せない。
まるで、この地に起きた悲劇も、そして今起きつつある奇跡も、全てを等しく洗い流そうとしているかのように。




