8-17
ゲートウェイにHTV-Y改がドッキングする二時間前。
サキシマ重工本社、統合管制室に隣接する小会議室には翔太達が集まっていた。
重厚な防音壁に守られたこの空間だけが、嵐の中の船室のように、外界の喧騒から切り離されていた。
だが、ガラス一枚を隔てた向こう側には、静寂という名の地獄が広がっている。
メインスクリーンに灯る「LOSS OF SIGNAL」の無慈悲な文字。
その青白い光に照らされたオペレーターたちの横顔は、極度の疲労と緊張によってまるで彫像のように硬直し、その瞳には諦観の影が色濃く浮かんでいた。
しかし、この会議室の中を支配している空気は、管制室のそれとは全く異質だった。
諦めや絶望ではない。
これから起こるであろう、より大きな混沌の海を、いかにして乗りこなすか。
張り詰めた思惑が、音もなく駆け巡っていた。
テーブルの上には、手付かずのコーヒーが三つ、とうに湯気を失い、冷たく黒い液体を湛えている。
その一人、崎島健吾は、まるで自室のソファで寛ぐかのようにゆったりとソファに腰掛け、腕を組んでいた。
管制室に漂う絶望など意にも介さぬその表情には、むしろこの未曾有の混沌を楽しんでいるかのような、不敵な光が宿っている。
対面に座る高橋翔太は、内心の動揺を隠すようにスマートフォンの画面を無心に操作していた。
アーベルからの量子通信で、HTV-Y改が無事であることは知っている。
だが、その安堵とは裏腹に、自分が今置かれている状況の異常さに、改めて身が引き締まる思いをしていた。
銀河文明の存在、そのコンタクトパーソンという、あまりにも巨大すぎる現実。
それは、数時間前までの日常とは地続きでありながら、全く異なる次元の話だった。
翔太の隣では、南川涼子が静かにタブレットを操作している。
彼女もまたアーベルの無事を知る一人だが、その情報を一切表情に出すことなく、プロフェッショナルとして冷静に状況を分析しようと努めていた。
ただ、時折、その視線が心配そうに翔太の横顔を窺うのが、彼女の内に秘めた感情を物語っていた。
そして、テーブルの中央に置かれたスピーカーデバイス。
そこから、この密議の主催者の声だけが響く。
会議室の大型ディスプレイには、彼女を象徴する、デフォルメされたシンプルな黒猫のアイコンが、静かに表示されていた。
その静寂を破ったのは、やはりアーベルだった。
「この密議の招集に応じ、感謝します。本題に入りましょう」
冷静で、抑揚のない合成音声。
しかし、その一言一句には、揺るぎない事実の重みがあった。
「今回の作戦により、我々の存在、正確には私の文明の存在を、地球人類に対し完全に秘匿し続けることは、極めて困難になったと判断します」
彼女は淡々と、しかし核心を突く事実を述べる。
「HTV-Y改が太陽フレアを推進力に変えた事象、そしてこれからの作戦行動。これらの映像やテレメトリは、サキシマ重工に協力している各国の機関、ひいてはその背後にある政府機関にも共有されています。彼らが、サキシマ重工が地球外の超絶技術を入手した、という結論に至るのは時間の問題です」
アーベルの言葉に、崎島社長は楽しそうに頷いた。その瞳は、まるで面白い芝居でも観ているかのように輝いている。
「さっきもウチの秘書が、幽霊でも見たような青い顔をしてこの部屋に飛び込んできておったわ。『日本政府、JAXA、NASA、アメリカ政府……考えうる世界中のあらゆる機関から、説明を求める問い合わせが殺到しております!』とな」
彼は、心の底から面白くてたまらないといった様子で、朗らかに笑い声を上げた。
「『作戦中のため、全て後回しにしろ。責任は俺が取る』とだけ伝えて、あとは彼女に一任したがな。まあ、彼女にとっては、胃がいくつあっても足りんだろうが、一生に一度の得難い経験になるだろうて」
そのあまりに豪胆な様子に、翔太と涼子は思わず顔を見合わせ、苦笑を浮かべるしかなかった。
今頃、管制室の喧騒と、世界中からの電話対応との間で右往左往しているであろう有能な秘書の姿を思い浮かべ、心の中でそっと哀悼の意を送る。
「話を戻しましょう」
アーベルの声が、脱線しかけた空気を本筋へと引き戻した。
「今後の混乱を最小限に抑えるため、我々がどこまで情報を開示し、どうコントロールするべきか。その方針を、今ここで決定する必要があります」
「どこまで明かすか」
翔太は、その言葉の重みに、背筋が冷たくなるのを感じた。
脳裏に、あの日の悪夢が鮮明に蘇る。
アーベルがもたらした放射線除去技術。
銀河文明の叡智から見れば、それは道端の小石にも満たない、ほんの断片だったはずだ。
だが、その断片一つを巡って、命を狙われ、日常を破壊されかけた。
(銀河を統べるほどの超文明の存在、そして俺たちがその直接のコンタクト相手だと知れたら……? 今度は、一つの組織や国じゃない。世界中が、俺たちを、アーベルを狙ってくる。その欲望の渦に、俺たちは耐えられるのか……?)
今まで、目の前の危機に対処することで精一杯で、その先の未来を深く考える余裕はなかった。
だが、アーベルの言葉は、否応なくその巨大すぎる問題と向き合わせる。
一介の民間人である自分が、地球と銀河の未来を左右するかもしれない局面に立たされている。
その途方もない責任感が、恐怖という名の冷たい手となって、心の奥底から這い上がってくるようだった。
押しつぶされそうになり、何かを言わなければと、ほとんど反射的に口を開きかけた。
その翔太の微かな躊躇を、まるで全て見通しているかのように、崎島社長が重々しく、しかし力強く口を開いた。
「公にするしか無かろう。中途半端に隠せば、憶測と疑念を呼び、かえって危険だ。ならば、こちらからカードを切るべきだ」
彼はソファに深く預けていた背中を起こし、身を乗り出した。
その瞳には、商売人とも経営者とも違う、歴史の転換点に立つ者の、熱を帯びた光が宿っていた。
「『我々は、超高度地球外文明“銀河連盟”との唯一の公式な交渉窓口である』と、全世界に向けて発表する。そして、『我々に何かあれば、その交渉の道は永遠に閉ざされる。地球は、銀河連盟に対し敵対的であると見なされるだろう』と、大々的に公表する。――というのは、どうかね?」
会議室に、一瞬の沈黙が落ちた。
それは、あまりにも大胆不敵で、あまりにもハッタリの効いた提案だった。
だが、その提案には、奇妙な説得力があった。
ディスプレイの黒猫のアイコンが、微かに点滅する。
「……なるほど」
アーベルが応じた。
「こちらの実態を意図的に秘匿し、相手の想像力そのものを抑止力として利用する。こちらの規模を誤認させることで発生する抑止力を最大の防御壁とする戦略。それは、一つの有効な解ですね」
涼子も、冷静に頷きながら補足する。
「確かに……。私達がどんな組織で、どんな力を持っているか、誰も知らない。想像でしか規模を測れない、正体不明の相手に手を出すのは、どんな大国にとってもリスクが高すぎるわ。一種の相互確証破壊に近い考え方ね。相手に『触らぬ神に祟りなし』と思わせるのが、最も効果的かもしれない」
崎島は満足げに頷くと、さらに言葉を続けた。
「だが、君らが直接矢面に立てば、とんでもない量の問い合わせや、良からぬ干渉を受けることになるだろう。そこでだ。その公式な窓口を、表向きは我々サキシマ重工が担う。君たちは、いわば『大使』だ。我々がフィルターとなり、煩わしい利権やら政治的な交渉やらを弾き飛ばす。その辺りの泥臭い駆け引きなら、長年やってきたことだ。多少の自信はある」
その申し出に、今度は翔太が懸念の声を上げた。
「いいのですか、社長? サキシマ重工にとって、あまりメリットがないのでは……。リスクばかりで……」
「何を言う、高橋君!」
その言葉に、崎島は声を上げて笑った。
「メリットしかないぞ! アーベル君や、その背後にいるとやらいう壮大な“銀河連盟”と、対等な立場で交渉できる地球側の『唯一の公式窓口』だぞ? これは、どんな金銭や技術にも代え難い、計り知れない戦略的アドバンテージになる。喉から手が出るほど欲しがる連中が、世界中にごまんといるだろうさ」
彼の目は、子供のようにキラキラと輝いていた。
それは、宇宙開発に生涯を捧げてきた男の夢と、百戦錬磨の経営者としての野心が、完璧に融合した光だった。
「崎島社長、その申し出に感謝いたします」
アーベルが静かに言った。
「お礼と言っては何ですが、貴社に対し、更なる技術提供も行いましょう」
「そりゃ願ってもない話だ!」
崎島は満面の笑みを浮かべた。
「だが、アーベル君。その技術提供も、是非、今後の正式な交渉の場で、『銀河連盟からの取引』という形で行わせて頂きたい。友人としての好意ではなく、対等なパートナーのビジネスとして、な」
アーベルのアイコンが、再び微かに点滅した。
「了解しました。理に適った提案です。では、私が地球に帰還したのち、改めてそのテーブルに着きましょう」
その返答に、崎島の顔に商売人らしい抜け目のない光が宿る。
「今回のこのプロジェクトで、会社の金庫はすっからかんだからな。これぐらいの役得はさせてもらうさ。だから君たちも、あまり一人で気負わずに、このワシとサキシマ重工を存分に頼ってくれたまえ」
その言葉は、翔太の心の奥底に巣食っていた恐怖と重圧を、ふわりと軽くしてくれた。
そうだ、一人じゃない。
この豪胆で、頼りがいのある人物が、そしてサキシマ重工という巨大な組織が、自分たちを守る盾となってくれるのだ。
「感謝致します」
アーベルの静かな声が、この密議の成立を告げた。
「それでは、公開発表する情報の内容について、具体的に詰めましょう。まずは、“銀河連盟”の呼称と、その理念から……」
その後も、公開する情報のレベル、発表のタイミング、各方面への根回しなど、具体的な話し合いは、昼過ぎまで続いた。
ガラスの向こう側、管制室の絶望的な沈黙の裏で、地球の未来を左右するかもしれない、極めて重要な密議が、着々と進められていたのだった。
それは、やがて来るであろう激動の時代に向けた、確かな布石だった。




