第99話 しゅき
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十一月十三日。
土曜日。
目映い空は秋晴れというにはもう遅いか。しかし季節の変わり目は情緒豊かに咲いている。
午後三時。
千尋は広瀬橋を渡り感傷にふける。家から歩いて十分程度。向かう場所は王川小学校。
――第五十四回、王川小学校音楽祭。
隣にはめぐみと琴音。あおいは現地で集合することになっている。各学年、各クラスの演奏発表会が行われる。以前は平日に行われていたが、働く親が増えた社会に配慮され、昨年から土曜日開催に変更されている。十二時からスタートし、順に一年生から十分程度の演奏発表をする。トリを六年生が飾るころには太陽が西に傾き始める。
奏の六年二組は午後三時三十分から。一生懸命に練習をしていたリコーダーの演奏を聴くのが待ち遠しい。千尋は期待に胸が膨らむ。
だが同時に、不安に恐れを抱く。
自宅では不遜で無邪気なお姫様のような奏も、一度外に出たら内気になり、社交的に振る舞うことができない。
――PTSD。
千尋が抱えるトラウマと同じように、奏の障害もまた特大の鎖になって胸を締めつける。声が出せないのは、自分への戒め。家族が殺されて、自分だけが生き残ってしまった後悔と、絶望。琴音が語る奏の病状が、千尋にはよくわかる。
他人を恐れる奏のことを応援したい。だが、こんなにも大勢の前で無事に演奏ができるのだろうか、と親心が駆り立てられる。
頑張って欲しい。
千尋は奏のことがまるで自分のことのように思える。自分にはできなかった楽しい学生時代を精一杯に送って欲しい。
僕たち、家族の前で。
「千尋っ。遅い」
「え? いや……」
「もう三時よ。待ち合わせは二時だったでしょ。なにしてたの?」
「え……、あぁ……、いや」
「千尋だけは早めに来てって言ったのに……」
「千尋くんそんな約束してたの? なんでまた早めになんて」
「千尋と小学校デートするためです。先生」
「どんなデートよっ」
「千尋にランドセルを背負わせて小学生男児のコスプレをさせて、イチャイチャするデートです」
「僕はそんなことするつもりない!」
「でも私がしたいから千尋はするの」
「横暴な……」
「千尋はあおい教の信者なんだからちゃんと言うとおりにしなさい」
「入信したつもりはないんだけど……」
「なくても入ったの。もう決まってるの」
「相変わらずめちゃくちゃ……」
「私に逆らった罰としてランドセルコスプレね。はい、これ」
入間川のほとりに建つ王川小学校。なんの変哲もない公立小学校だが豊かな自然に囲まれる景観のよさは特筆に値する。一歩外に出れば涼しげな風が頬を攫い、鳥のさえずりがチャイムの代わりになる。
校門をひとくぐりすると、背後から凛と声が咲いた。青鮮やかなその色は、他に感じることがない彼女だけの美しさ。千尋が振り返ると無愛想だが相変わらずの美人で、懐かしさと切なさを内包する彼女がそこにいた。
「え……、いや、無理だから! 無理!」
「えー、無理じゃない、千尋ならきっと似合う」
冗談のような内容だが、それが嘘ではないと千尋にはわかる。あおいはいつも本気なのだ。おどける時も全力。千尋を揶揄う時も血が通っているし、棒読みの声に反して、心は抑揚がたっぷり。子供じみた趣味や感性があるのは、小学校や中学校のころにまともな青春を送れなかったからか。千尋は思う。僕にコスプレさせて小学生のフリをしてデートをするというのは、彼女もまた変身をするということではないか、と。
「あ、あおいちゃんも……、するの?」
「……? なにを?」
「なにって……、いや、だから……、それを」
「……? それとは?」
「それって言ったら……、そ、それでしょ!」
「……? 千尋意味分かんない。頭おかしくなったの?」
「……、う、うるさいなぁ。わかるでしょ、もう」
「わかんない。ちゃんと言ってくれなきゃ想いは伝わらないよ」
「う……、ぐ……、だから……、その、こ、コスプレだよ」
「……? なにの?」
「しょ、小学生の!」
千尋は顔を真っ赤にして視線をそらす。真っ直ぐにあおいに想いを告げるのは、不器用な千尋にはまだ難しい。あおいはそんな恋人を揶揄うように、微笑む。作り物のような綺麗すぎる笑顔に無邪気さはないが、心はいつも少女のまま。わくわくドキドキ。楽しいのだ。
「千尋はして欲しい?」
「え……、いや……、あの」
「嫌? なの?」
「ち、違う……、その……、僕は、……、どっちでも……」
「ひどーい。大切な恋人で婚約者で嫁で神様の私のこと、どうでもいいんだ」
「代名詞多すぎ!」
「あら、そんな難しい言葉を知ってるの? 千尋が? 小学校中退なのに」
「さ、最近知ったんだよ……、僕だって勉強はちゃんとしてるんだから」
「へぇ~、じゃあもう……、私のことなんてどうでもいいのね」
「え……、あ、いや……」
「私より勉強がいいと。女の子より勉強だと。そもそも千尋性欲ないし」
「いや……、そういうあれじゃなくて……」
「私は哀しい」
「ご、ごめん……、あの、そうじゃないんだけど」
「じゃあなんなの? 本心ををちゃんと言ってくれなきゃわかんない」
「う……、あの……、僕は……、えっと」
「うんうん。僕は?」
「あおいちゃん……、には……、幸せになって欲しい」
「ふふふ、そう?」
「う……ん、僕の世界は……、あおいちゃんが居てくれて始めて……、変わったから」
「ふーん、じゃあ千尋が私のコスプレがみたいって言ったらぁ、してあげる」
「え! な、なにそれ……」
「千尋がね、どーしてもみたいっていうならぁ、仕方ないから小学生のコスプレしてあげる」
「ど、どういうこと」
「エッチでかわいい小学生コスプレの私をみてぇ、興奮したい、っていうならぁ、してあげる。ミニスカートにランドセルに黄色い帽子。そういうのが好きだから、かわいい女子高生彼女にコスプレして欲しいって頼むならぁ、してあげる」
「なッ……、そ、そんな……僕は」
「ほら、早く言って。言わなかったらぁ、しないよ」
「え……、いや、え……、あう……、うぅ……」
「ほら、ちゃんと想いを伝えるの。大好きな私に、伝えなきゃ伝わらないよ。千尋の想い、ちゃんと受け止めてあげるから、言おう。大丈夫。恐くないよ。言うだけ」
「うぅ……、言うだけ……」
「うんうん。わからなかったら、私が教えてあげる。ほら、こう言えばいいの。僕はあおいちゃんが大好きだから、あおいちゃんがえっちな小学生のコスプレをしているところがみたいです。してください。お願いします」
「ぼ、僕は……」
「あおいちゃんが」
「あおいちゃんが……」
「大好き」
「だ……、だぁ……」
「だいだいだいだーすき」
「だいだい……、だぁい……」
「しゅき」
「し……、う……、ううぅぅ…………き」
千尋の声は段々と小さくなり、萎んでしまう。あおいは目をぱちくりさせる。大きな瞳は人形のように綺麗で今にも吸い込まれそうだが、視線を合わせられない千尋にその美しさは眼下の現実ではない。緊張のあまり声が出なくなり、口が開かない。それはPTSDの呪いではなく思春期の一心不乱なもがきだ、と側で見ている琴音は母性をくすぐられるが、助け船は出さず静観する。
「しゅき」
「……うぅ、い、言ったよ! もう!」
「聞こえなかった。だからもういっかい」
「もう言えない! 僕は言ったもん!」
「でも聞こえなかったらだめ。もういっかい」
「む、無理……」
「無理じゃない。千尋ならできる。頑張れ」
「うぅぅぅ……」
千尋は限界を超えたのか隣の琴音に視線を送る。琴音はにんまりと笑いながらウインクをする。その意味が千尋はわからず余計に困惑するが、混乱して慌てふためく千尋はかわいかった。琴音の狙いはそんな千尋をみることであった。
「ほら、しゅき」
「もう言わない! 言ったもん」
「だめ。千尋は私の言うとおりにするの。決まってるの。そういう運命なの。千尋は」
「予言ですか、あおい様の」
「そうよ。私はあおい教の預言者なの。神様から言葉を預かる聖女なの。だから千尋は私の言葉を大切に受けとめなきゃいけないの」
「大切に……、受けとめてるよ」
「そうなの?」
「う……ん、いつも大切だよ。あおいちゃんも……、みんなも、奏も」
僕の小さな心には勿体ないくらいに、大切なものがいっぱい詰まっている。
受けとめきれなくて、溢れだしてしまうのが悲しい。貰ったものを何倍にもして返したいのに、震えてしまう小さな僕が情けないと思う。
みんなのことが大好きだ。
と千尋は思うが言葉にはできない。
「そうね……、千尋の気持ちは、伝わってる」
「え……」
「千尋はちゃんとした文章にするのはできなくても、表情とかうめき声で感情を伝えるのが上手だから」
「そんなこと……、ないよ。いつもあぅあぅ言ってるだけだし……、恥ずかしい」
「でもちゃんと伝わるよ。少なくとも私には」
「そう……、なのかな」
「うん。だって千尋さっきも言ってた。心がね、言ってた。私すっごい嬉しかったよ」
「う、うん……、そう? だったら……よかったけど……」
「うん、ちゃんと言ってた。僕は、巨乳小学生が大好きだからあおいちゃんにコスプレさせてデートするのが楽しみで仕方ないですって、ランドセルと相反するあおいちゃんの巨乳や、ミニスカートから見える小学生と見間違うほどのあどけない肌つやとムチムチの太ももがみたいって、千尋の気持ちはちゃんと伝わった」
「……!?」
「千尋はエッチだなぁ。相変わらず」
「……ぼ、僕はそんなこと思ってない!」
「と否定してしまうが、心ではドキドキわくわくするあおいちゃんだいしゅきな千尋なのであった」
「いや、誰だよ!」