第91話 でも……、生きてる
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太陽の燈が朝を告げている。今日は空一面に見果てぬ世界が広がっている。どこへでも行けそうな気がするのに、歩めばとても生きづらい世の中は、神様がそう決めたのだろうか。千尋は空を見上げ、哲学に馳せる。
「わぁ~、明るくなってきたね~っ。これじゃえっちしてたらすぐバレちゃうね~」
色付いた世界を見ながら、恵那はおどけたように言う。明るい太陽の下で千尋は恵那を再確認する。黒髪セミロングのツインテールはシルクのように滑らかで、ブラウスと紺のミニスカートは制服のようだが、違うようにも感じる。猫目の瞳は愛嬌と色気を内包していて、まるで芸能人のようにかわいい。少し紅い頬。はち切れそうな巨乳は肉厚で豊かな母性に満ち溢れている。千尋は恵那の美貌を確認し、落ちつきがなくなる。
「あ……、う、うん……、しないから。そんなこと」
「……? ひろくんなんだか震えてるけど……、どうしたの?」
「え……、あ、いや……、これはあの……、PTSDが……」
「PTSD?」
「う、うん……、僕、明るいところだと人に見つかる気がして……、だめなんだ。暗いところの方が落ち着くんだ。逃げられる気がするから」
「ふぇ~? へんなの。逃げる必要なんかないのに。嫌な人に会ったら戦えばいいし、好きな人に会ったら抱きしめたらいいのに」
「そういうわけには……、いかないんだ。僕はまだ……、なにも治ってない。恵那とは違うんだ」
「ふひひ~、じゃあ恵那の国に来たらいい。王国では、ひろくんはなにも悩む必要がないよ。好きなことヤってればだけだよ」
「好きなことやる?」
「好きな子とヤる」
「だから僕はまだ……」
明るい世界は苦手だ。人間は全員が敵。千尋には居場所がない。過覚醒は至る所で発動する。あおいやめぐみ、琴音たちがいないと長時間の外出も、知らない場所へ行くことも難しい。安定剤で心を落ち着かせていても、発作は時々起こる。パニック障害。フラッシュバック。奏が誘拐された時、共感覚を発動したきっかけもまた、フラッシュバックによるトランス状態が原因だった。発作が起きると現実なのか夢なのか千尋はわからなくなる。あの日のこともあまりよく覚えていない。現実感がないのだ。昨日見た夢のように、宙に浮いている感覚。空を飛ぶには最高の一日なのに、見あげた空に千尋が羽を羽ばたかせることはできない。
「まぁいーや。恵那は帰るね。今日はね、支援してくれるお兄さんと会う約束があるの! 恵那は女王様だから、ちゃんと行かないと怒られちゃうもん」
「え、恵那――」
「にしし~、大丈夫だよ。またすぐ会えるもん。だって恵那はひろくんたちのことね、ずっと見てたから。なんでも知ってるんだよ」
「ま、待って――」
「ふひひ~、詳しく知りたかったらぁ……、恵那を襲えばいいだけだよ? ほら、どうぞ~」
「……う、うぅ……
無防備に目を瞑る恵那に千尋は手をかけることができない。なぜ自分のことをこんなにも知っているのか恵那を問い詰めたい。突然に会いに来た理由も、王国の詳細も、知りたい。聞きたい。だが、恵那を犯すこともできない。千尋は立ち止まる。
「ひろくんは全然だめだね。そんなんじゃ可哀想な子供のまま、苦しんで生きていくだけだよ」
「わ、わかってるけど……、でも」
「次会うときは、もっと自由になれたらいいね。期待してる! ひろくんはね、恵那くんの大切な仲間だから」
「え、恵那――」
「ばいばい」
一段と明るい陽射しが恵那を照らした。眩しさに千尋が手をかざすと、指の隙間で少女が輝いていた。まるで恵那の体から光が溢れるように、あるいは世界が祝福するように、神々しかった。
「恵那……」
くらんだ視界が戻ると恵那はもうそこには居なかった。
見渡すと河川敷の草木が凜と立っている。川のせせらぎは、昨日の雨に少しざわついている。鳥のさえずりは学校のチャイムのようにいつも変わらない。そうだ。今日もなにも変わらない一日の始まりだ。
千尋は思う。恵那は現実か。幻か。まるで夢をみていたよう。PTSDのフラッシュバックは、現実なのか夢なのかわからない。心がおかしくなって統合失調になり、幻覚を見ていたのかもしれない。自分を疑う。信じられるものは千尋の中にはなにもない。記憶障害。作られた人生。改変された毎日。
「あぁ……、でも……、生きてる」
千尋は諦めたような顔で光に手をかざした。なにも変わらない朝。太陽の隣にあるのは、目の覚めるようなあおい空。千尋の中にはなにもない。だけど、太陽の輝きに反射する婚約リングは、千尋に唯一無二をくれる。
「今日も……、青空」
あおい空は、そこにある。