第86話 無邪気の楽園
86
未明の光が急速に世界を輝かせる。瞬く間に色付いた視界には、赤も黄色も鮮やかに染まっている。
せせらぎの音はすぐ側にある。自然の豊かさが、千尋の感性を刺激する。昔懐かしい恵那の匂いは、朱色の光を千尋に見せる。共感覚が発動した千尋は宙に浮くような感覚に囚われ、目が回る。焦点がおかしくなった千尋のつぶらな瞳を見ながら、恵那はケラケラと笑いながら言う。
「ひろくんに会いたくて、恵那はね、会いに来たの!」
「……会いに来たって……、どうやって? 誰に居場所を聞いた?」
「それはぁ……、後で言う! それよりひろくん相変わらずちっちゃいねっ、ふひひ~」
「うるさいな。いいだろ、別に」
「おろ? 恵那に口答えするなんて……、ひろくん少しは教典を学んだのかな? にしし……」
「心理学を学んだ。後社会経験をたくさんしたよ」
「えへへ……、恵那もね~、いっぱい色んなことしたんだ~っ。でね? 恵那はわかっちゃったの」
「……? なにを?」
「世界はね~、埃まみれで窒息しそうなの」
人相学では瞳の形で性格を判断する。目尻の高低は、社交性を表しており、恵那のような吊り上がった瞳は、自己アピール力の強い人間であることが多い。千尋は昔読んだ本を思い出す。人心掌握やコミュニケーションスキルを磨くためには、理論的な裏付けがあって困ることはない。コミュ障なりに千尋は努力していたが、そんなこと恵那が知るよしもない。恵那は言う。
「ひろくんだって、そうでしょ? 病院を出た後、うまくいった?」
「いや……、いかなかった」
「でしょ? 恵那たちみたいな子はね、こんな汚い世界じゃ生きていけないの」
「だけど僕らは生きてる」
「む~! イライラする言い方! ひろくんは恵那の言うことを聞いていればいいの! 今はそういうタイミングなの!」
「恵那は相変わらず……、自分中心だな」
「知ってる? 発達障害とか精神障害になる子供ってね……、共通点があるんだよ」
「なんだよ、いきなり」
「み~んな、家族に愛されなかった子」
機能不全家族という言葉がある。千尋は知っていた。父性と母性が共存し子供を育てる「家族」という構造は、人間が社会動物として成長していくために有用なシステムである、例えば母親に愛されれば、子供は無条件の愛情を感じ、自己肯定を高めることができる。報酬という対価のない、無償の愛。「生きていてもいい」という思いに繋がる、児童心理学の基礎である。千尋は言う。
「機能不全家族は確かに非行やひきこもりの原因の一つだけど……、みんなじゃない。精神障害も発達障害も、気質的なものだってある」
「まあね。でも……、じゃあひろくんはどうなの?」
「……? 僕?」
「そうだよ! ひろくんは、虐待の被害者でしょ! お父さんとお母さんに殺されそうになったんだよ! 存在を肯定してくれるはずの肉親に、全否定されたんだよ!」
「東村山市児童虐待監禁……、か」
「恵那ね、調べたんだよ。退院してから、ひろくんのことも、あおい様のことも、絆の会のことも……、み~んな詳しく知ったの」
「へぇ、恵那って意外と真面目なんだな」
「恵那はね、したいことをするの。えへへ……、ひろくんって、……可哀想な子だよね?」
「……久しぶりに言われたな、その言葉は」
「でも、可哀想な子だよね? 親に殺されそうになって、心を病んで病院に入院して……、その記憶も忘れて全く別の妄想の人生を信じ込んだ」
「でも、もう思い出したよ。なにもかも」
「知ってるよ? ひろくんは、琴音先生の家で生活して、あおい様とデートして、元気になったんだよね?」
「なんで……、そんなことまで知ってる?」
「えへへ~、今は恵那が話す番! ひろくんは喋ったらだめなの!」
相生恵那は事情を断片的に知っていることは、気にならない。病院にいたころ、昔のことを少しだけ恵那には話したし、退院するころには記憶がおかしくなり、二人より先に病院を出た。経緯を琴音が説明した内容によっては齟齬があるかもしれないが、他人ではないのだから、詳しく解説したのかもしれない。
だが、その後、琴音の家に住み、あおいと付き合っていることは、恵那が知るはずがない。千尋は不安を感じながらも、恵那に吸い寄せられていく。
「恵那もね……、可哀想な子。カルト宗教団体で洗脳教育されて、倫理観が壊れちゃった大量殺人犯。ぐへへ~、恵那って不幸な子~」
狂気の上から笑顔を重ねたように楽しそうな恵那は、まるで情緒をコントロールする器官が壊れてしまったように感じる。千尋は思う。あおいとは正反対。どこまでも感情があふれ出している。
「可哀想な子はね……、社会でこう言われるんだ……」
――可哀想かわいそうカワイソウ花歪躁鬱可哀想かわいそうカワイソウ花歪躁鬱可哀想かわいそうカワイソウ花歪躁鬱
早口でまくし立てる恵那は笑っている。早口言葉を楽しむ子供のように、言葉がワルツを踊るように弾む。千尋は恵那の言動に異常さを感じつつ、そこにどこか安堵し、共感する。
「そうでしょ? ひろくん」
「……、でも仕方ないよ。実際、可哀想なんだから。同情して貰ってるんだから、別に悪いことじゃない」
「でも嫌だよ! 恵那はね……、可哀想じゃないもん。だって恵那はね、神様とひとつになって幸せを感じるんだもん。そんなこと言われたくないの」
「まだ教典を信じてるの?」
「信じるもなにも……、神様はちゃんと存在するもん。だって、したいことをしたら、嬉しくなって気持ちよくなるもん。ひろくんだってそうじゃないの? あおい様とえっちなことをしたら、気持ちいいんじゃないの? それって神様とひとつになっているってことだよ」
中学生の少女のように、若く艶のある恵那の声は早口になっても聞き取りやすいが、千尋は心を攫われていくような感覚がする。なにか新しい論理に書き換えられてしまうような、禍々しいオーラ。千尋は思う。それはあおいや琴音にも似たカリスマ性だと。
「恵那は……、僕たちのこと調べたの? それで会いに来た? 理由は? なぜ?」
「えへへ……じゅる……、ひろくんに会いたくて」
「僕も恵那に会いたかった。探してたんだ、最近」
「えへへ~、うんうん! 恵那も会いたかった~! ――ぎゅ~」
恵那は最愛の人を抱きしめるように千尋を大きな胸に引き寄せる。その笑顔は恋人に向けるようでもあり、父や姉弟、あるいは赤の他人に見せる芝居のようにも感じ、千尋は困惑する。恵那の考えていること、行動の根幹が、千尋にはまるでわからない。だが、恵那に独特の魔力を感じる。一度踏み入れたら逃げられないような、無邪気の楽園。恵那はその魔王だ。千尋は懐かしい少女にお伽噺の夢をみる。




