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第85話 焦燥が見せる幻想

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「やあやあ、ひろくん~。何年ぶりかな? えへへ~」

 相生恵那は屈託のない笑顔で千尋に微笑みかける。少し紅い頬にあどけなさを感じる。大きな目は猫のように吊り上がり、いやらしくも愛嬌がある。千尋は、突然の来訪客に夢と現実の見極めがつかなくなり、困惑する。

「……現実?」

「そう! これは夢なんだ! この世界は悪夢! 恵那たちは神様に見捨てられた哀しい生き物なのです」

「……? 僕は……、ついにおかしくなった?」

「みんなおかしいんだよ! この世界そのものが恵那たちには合わないんだから」

「……これは夢?」

「ふひひ~っ……、ひろくんは相変わらずぼんやりしてるんだね~」

 薬の飲み過ぎで頭がおかしくなったのか、と千尋は自分が恐くなり、不安になる。統合失調症が見せる幻覚のことは琴音から聞いて知っている。患者にとっての現実は、周囲から見たら空想でしかないが、本人には紛れもない事実である。これは妄想? 千尋は恵那の存在を疑う。朝の光に照らされた焦燥が見せる幻想。


「夢だったら……、よかったんだけどね~。でも恵那は生きてるよ。ひろくんも」

「だったら恵那……叩いてよ。昔みたいに」

「やだよ! 恵那は叩きたいときに叩くんだもん。今はひろくんと昔話して懐かしい~! ってしたいの」

「僕は叩かれたい。痛みはきっと妄想から現実に引き戻してくれる」

「叩かれたいって……、ぷっはは~っ、ひろくんって変態だったの~!?」

「ある意味そうかも」

「ま……、性的快感って気持ちいい~もんね! 恵那もね! いっぱいえっちなことしたから知ってるよ! 恵那はね……、変態なの!」

「快楽殺人者?」

「違うよ! 恵那はね……、自由が好きなの! なんのルールもしがらみもない空間にね、恵那はとっても興奮するの! ルールを破るのも大好き! だって自由を感じるから」

「じゃあ、刺してよ。僕のこと。絆の会を崩壊させたみたいに」

「む~……、なんか恵那イライラしてきた」

 恵那は小さな口を尖らせて不満をあらわにする。紺色のブリーツスカートから覗く太ももは、ぎゅっと脂肪が詰まっている。肌つやは健康的で千尋には恵那の生活が垣間見えた。白いブラウスにリボンを結んだ姿は上品だが、今にもはじけ飛びそうな胸元の巨乳と同じように、恵那の欲求が溢れ出すのも時間の問題のように思える。

「じゃあ殴ってよ。昔みたいに」

「ひろくん! つまんない! 恵那の話全然きいてくれない!」

「じゃあ殺せばいい」


――パンパンッ――


「ひろくんはおかしい! 世間話もできないの? 常識ないの? 恵那は昔話したいのに! 懐かしい~! って感動の再会したかったのに~! ――バシバシッ」

「――ッ……、う……」

「ひひひ~っ、でもこの感覚懐かし~! ひろくんの顔って……、可愛くて殴りがいがあるんだよね~」

「――う……、うぅ……」

「なんかもっと叩きたくなってきた」


 恵那は勢いに任せて千尋の顔を叩いた。最初のうちは平手だったが、次第に興奮していく感情を恵那は抑えなかった。恵那は千尋の顔や体を握り拳で殴った。瞳孔が開き、口から涎を垂らす姿は狂気の沙汰だが、同時に恵那の顔に浮かぶのは無邪気な笑顔である。恍惚の表情は快楽でいっぱいという様相だが、痛めつけられる千尋は苦悶の顔。


「あれ? ひろくんってそんな顔もできたんだ? 痛い? 痛いの? 恵那に殴られると痛い?」

「……、あぁ、痛い」

「ふひひ~っ! うん! そうだよ! 痛いんだよ! だから殴り返せばいいの! 嫌なことがあったら、やりかえす! それって気持ちいもんね?」

「かもな」


 病院に入院していたころ、恵那は絆の会の思想にどっぷりと浸かっていた。我慢することができず、感情のままに行動する姿はまるで野生動物のようだった。一方の千尋はPTSDによる心神喪失状態が顕著に表れており、恵那に殴られてもなんの怒りも喜びも感じなかった。そこにあったのは、ただ、殴られている、という事実だけである。


――パシパシッ! バンバンッ――!


「――恵那……、痛いから殴らないで」

「やだ! にしし~恵那はね、なんかひろくん殴るの楽しくなったからやめないの!」

「だめだ。痛いからやめて欲しい」

「ひろくんってばおかしいこと言うね。さっきは殴って殺してって言ってたのに」

「これは……、現実だ。この痛みは……、夢じゃない。僕は、あのころとは違うんだ」


 千尋は後悔と希望に満ちた顔で恵那の手を握る。振りかざした暴力を止めるのは、千尋の小さな手のひら。あのころから自分より背が高かった恵那を、成長した今も変わらずに見上げる。一五五センチくらい? もう少し小さい? 千尋は恵那の身長を考察する。あおいちゃんよりは小さい気がするが、胸が大きいのでよくわからない。


「僕は……、きみに殴られると、あのころを思い出すよ。痛いとも、苦しいとも、思わなかった僕を」

「えへへ~、恵那もね思い出すの! ひろくんとあおい様と先生と暮らした生活!」

「恵那……、久しぶりだね。なんでここに居るの?」

「あはは……、ひろくんって……、やっぱりおかしいね。今さらそのセリフなの?」

「あぁ……、僕はおかしいんだ。でも……、生きてる。きみと同じように」


 殴られて始めて現実を感じた。夢の中で、ぼんやりと殴られる自分は、ここいない。痛みを感じる。やめて欲しいと思う。だからこれは、現実だ。千尋は理解する。そして恵那の姿をようやく認識する。

 あおいよりも少し小さい身長に、ミニスカートとブラウスを着用した恵那は、猫のような愛嬌のある瞳をしつつも、狂気を感じる笑顔には、大量殺人犯の面影が残っている。大きな身振り手振りと情緒豊かな顔や声色は恵那らしさを感じ、懐かしい気持ちになる。一方で、少女のまま、なにも変わっていないようにすら思い、成長した胸や美少女JKと呼べる瑞々しいルックスとの相違が、異常性を醸し出す。

 唯一無二の違和感。相生恵那の姿は、千尋に情愛と危険な香りを運んでくる。

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