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第84話 遠い一筋の光は月明かりか幻か

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 就前に安定剤のジェイゾロフトとアモバン錠を三錠飲んだ。

 二十二時。

 千尋はベッドで横になる。


 アモバン錠は脳のベンゾジアゼピン受容体を刺激し麻酔的な作用をする睡眠薬だ。非常に強い薬であり、デバスやマイスリー等の短気作用型睡眠導入剤で効果がない重度睡眠障害に処方される。ジェイゾロフトはセルトラリンという商品名でも知られ、脳内神経物質セロトニンの分泌や伝達をよくする薬である。不安障害やパニック障害などの患者に処方され精神の安定を促す内服薬。


 副作用としてめまいや動悸。口渇感やふらつき、稀に記憶障害や運動機能の障害が出るが、すぐに治る。


 千尋は薬がないと眠ることができない。瞳を閉じると聴覚や嗅覚が過敏になり、暗闇の気配に気を取られてしまう。人一倍、感受性が豊かな千尋を琴音は「繊細で純粋な可愛い男の子だ」と称するが、千尋はとてもそんな風には思えない。ただ、異常。おかしい人間だと思っている。それでも、自己否定を繰りかえしながらも、自分なりに生きていこうと葛藤している青春。

 

 二十二時三十分。千尋は深い眠りについた。一度眠れば、アモバン錠の影響で明け方まで目が覚めない。もし中途覚醒しても、脳神経に作用する薬が効いているために体が動かない。


 その日、千尋は蝶の夢を見る。ちいさなきいろい花を飛びたっていく白と青が美しい可憐な蝶だ。背中をおしているのは、若く明るい風。颯爽と吹いて蝶を空の向こうへ誘っている。

 その風の名前を千尋は知っていた。

「あたしは有理栖。きみを空に舞いあげる風さ」


 夢の中の千尋は蝶だ。有理栖は風になり、千尋と二人空へ飛んでいく。不可思議な体験だが夢の中では疑問に思うこともない。背から伸びた優雅な羽は、まるで手足のように自然に動かすことができる。

 入間川を渡り、河川敷で仲間たちに会う。色とりどりの羽を羽ばたかせる琴音や、めぐみ、奏、そしてあおい。


「さあ! 千尋くん、これから交尾の季節だね~、せんせーは楽しみ~!」

「え? 交尾……」

「そうよ。成虫になった蝶は子孫を残すために交尾をするのよ。きみはもう大人なんだからちゃんと仕事をしないといけないの」

「でも……僕はまだ……、そういうことできないです」

「できるはずよ! もうきみなら」

「僕は……」


――鼓動が早まるのを感じた。セカイがうるさい。耳が壊れそうな騒音で、千尋は夢から覚めた。

 目を開くと見慣れた天井。真っ白な壁には薄明かりが窓から射し込んでいる。未明の太陽はまだどこにも見えない。遠い一筋の光は月明かりか幻か。なにもない千尋の部屋は、星が隠れるには十分な広さだ。


「……、変な夢だった」


 時計を見ると午前五時三十分。二階の窓から外をみると、川のせせらぎが夜と戯れている。千尋は思う。まるで歌のように、音の粒それぞれに色の違いを感じる。絶対音感はないが、これが世界という生き物の真実だ、と千尋はなぜだか抽象的な答えを納得したような気持ちになる。

 朝のぼんやりとした脳がそうさせるのかもしれない。薬はまだ効いている。寝起きは調子が悪い。千尋は自覚していた。


「散歩でも、するか」


 寝起きのふらつきは少しある。壁伝いの伝い歩きで玄関へ行った。上下スウェットにサンダルを履いた千尋は、玄関から外に出た。

 冬を連れてくる風は、笑っているようには思えない。

「さっきまではきみと空を飛んでいたのに」と千尋が夢の内容を思い出すと、現実と空想の境界が曖昧になる。「統合失調症はきっとこういう感覚」と心に思いながら、数歩歩くと、そこは一面の草花が広がる入間川の河川敷。花の名前も、蝶の名前も、千尋はなにも知らない。だが、生きている。今日も、明日も、僕は息をして、この道を歩いていく。

 

「真理……だな」


 千尋は悟った気分で草花に囲まれる。まるで祝福されているような気持ちになり、頬をくすぐる風が可愛く感じた。未明の空から射す光は、ぼんやりと霞んでいる。それはまるで僕のようだと思いつつ、冷風に吹かれ空を眺めた。

 せせらぎの歌が耳を癒やす。こういう時に曲は思いつくのかもしれない。かっこいい歌詞も言葉も浮かばないが、心のままに歌えば今ならもしかしたら……。


 千尋の繊細な感受性が映し出す世界は、琴音にもめぐみにも、有理栖にだってわからない。

「だからそれを歌にするんだ! みんなに伝えるために」

 と有理栖は言う。その言葉の意味が少しわかる気がした。

――そんな時、



「こんな朝早くから偉いね。ひろくんは」


 豊かに色付いた世界を遮るような冷たい赤。昔懐かしいようで、どこか寂しい旨を抉る女性の声に千尋は振り返った。


「……ッ!」


 振り返ると未明の世界に残像が残る。微かに捉えた声の主は、千尋と歳も変わらないであろう若い女性。リボンで結ばれた髪がツインテールかポニーテールかはわからないが、素早い動きで視界から消えた彼女を幽霊のように思った。


「いつもこんな早いの? うぇ~、まだ寒いよ~! 恵那は我慢できないなぁ、こんな朝!」


 再度に振り返ると少女は大げさに身震いをする。セミロングの髪を左右両方で結んだツインテールを照らすのは、始めましての太陽。背後から光を受けた少女の笑顔は影になって、千尋には顔がよく見えなかった。


「え……、恵那?」

「えへへ~、ひろくん全然変わってないね~。びっくりだよ~、成長期なかったの?」


 相生恵那。

 絆の会を崩壊させた大量殺人犯にして、医療センターで家族ごっこをした入院仲間。

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