第38話 かわいいから。ゆるしたげる
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狭山市駅東口から電車に乗り、本川越で降りた。駅前は混雑している。駅舎を出て、クレアモール商店街を横切る。深紅はニコニコとしている。空は少し薄暗い。千尋は不安を感じる。あおいたちが心配している。連絡をしなければ、と思うが、スマホは奪われたままである。
ぎゅ、っと深紅が握る手が温かい。大きな胸。触り心地がよかった。
知らない人だが、どことなく安心を覚えるのは、繋がっているから? と、千尋は思う。あおいが言うように、身体的な接触は、心を落ち着かせる効果があるのかもしれない。
キス。をしたら、深紅とも普通に話せるようになるのだろうか。だが、愛がなければ、意味もないのだろうか。
思考するが、相変わらず、口には出ない。言葉数は少ない。
少し歩いた。五分。駅前の大きな高層マンション。そびえ立つビルは、雲の向こうまで届くように見える。背の小さい千尋には、余計に。
「さ、着いたよ」
「……ここは?」
「あたしの家! だーりんとの初夜を迎える愛の巣」
「……は、はぁ?」
「行こ行こ~、ほらほら~、――ぐいぐいっ」
「あ……、あぁ……」
深紅は手をとってオートロックのエントランスをくぐった。
エレベータに乗り、二〇階で降りる。深紅は密着したまま、離れない。ひと肌の温もり。ずっと握ってきた手は、汗びっしょり。自分の汗か、深紅の汗か。どちらにせよ、濡れている。
深紅の匂い。干したばかりの洗濯物のような、爽やかな匂い。柔軟剤はなにを使っているのだろう。疑問に思うが、訊けない。
少し歩く。ドアの前。深紅は立ち止まる。振り返れば、川越の街が一望できる。強風。飛ばされる気がして、千尋は、つい深紅に抱きついてしまう。
深紅は一瞬、驚いたような顔をする。が、すぐににんまりと笑う。
「うふふ、なに? だーりん。恐くなっちゃったの?」
「あ……、うぅ、いや、これは……」
「よしよし。うんうん。いいこいいこ。恐くないよ。大丈夫だよ――なでなで」
「いや……、あ」
「すぐおうちはいるからね。待ってね。鍵開けるから」
母性溢れる笑顔。深紅は千尋の頭を撫でる。細身なのに抱きつくと柔らかい体。千尋は母を思い出す。小さいころ、父のDVによりロボットだった母。
父が逮捕された後、記憶を失った千尋。特例処置で、千尋と同居を許された母。
どちらも同じ人物。けれど、まるで違った。どちらが本当の母なのか、千尋にはもう分からない。
深紅に感じる母性は、どちらとも違う。初めて感じる甘さだった。
「あ……、う、うん」
「あ~、うんって言った~。初めてだよ! ずっと、はい、だったのに~」
「あ、いや、あぁ」
「うんうん。やっぱり、男の子はおっぱいを揉むと心を許してくれるんだね。うんうん」
「……あ、……もみもみ」
千尋は衝動的に深紅の胸を揉んでいた。無意識だった。抱きついた流れ。体が小さい自分。体重も軽い。地上二〇階の強風。飛ばされるかもしれない、という恐怖を感じるのは自然だ。
深紅の体に、安らぎを覚えたのも事実。未知の母性に、心が揺らいだ。知らぬ間に、胸を揉んでいた。母性の象徴。とても大きな胸。こんなことは初めてだった。琴音や、めぐみに襲われても、拒絶してきた。触りたい、と思うことはある。だけど、恥ずかしい。
でも、今回は無意識だ。いつ揉んだのか、覚えていない。分からない。知らない人に誘拐されて、パニックになっているからだ、と千尋は胸を揉んでしまったことに理由をつける。
「うふふ。手もちっちゃくてかわいいね。だーりんの手じゃ、揉みきれないね」
「あ……、いや、違う、これは……もみもみ」
「うふふ! 恥ずかしがっちゃって。でも、手は素直だね」
「え? あれ……、あれ」
思考と行動が、一致しない。記憶が錯綜したり、倒れることはよくある。PTSDに対処するため、千尋の脳はチグハグだ。エラーと修復を繰りかえし、歪な構造になっている。
大勢の人の前に行くと、発作が起きる。それは、自分では制御できない。
知らない人に誘拐されそうになっても、声を出せない。これも自分では治せない。
記憶が飛び飛びになったり、突然に、フラッシュバックが起きることもある。思い出した記憶が、事実と違うこともある。
知らない記憶を整理するため、無意識に理由をつける。物語を作る。
なにが真実か。不透明なことがある。
だが、こんな不一致は初めてだった。
胸を揉んでしまう。
止めようとしても、止まらない。
「いいよ。千尋くん。かわいいから。ゆるしたげる。いっぱい揉んでね」
「え、違う……、あの、えっと……もみもみ」
「あはは~。違くないじゃ~ん。ふふふ」
「あ……、あうぅ……」
「おうち入ろ」
ガチャ――。
深紅はドアを開ける。千尋と共に室内に入った。




