第35話 一人で行けるの?
35
「あ、あの……、えっと」
「なに千尋? 今いいところなのに」
「いや……、あの僕、ちょっと行って来てもいいですか」
「……? どこに」
「ト……、トイレに」
あおいが過去を語ろうと一息を吐いた瞬間だった。
千尋はモジモジとしている。呼吸は落ち着いた。震えも止まっている。未来とは面識がある。聖愛学園や部室は初めての場所だが、この空間に居るのは知りあいだけだ。
あおいと付き合い始めたころは、倒れてばかりいた。デート中に倒れたことは何度もある。しかし、今は違う。一年以上が経ち、知らない場所でも、ある程度、耐えられるようになった。
「トイレ?」
「う……、うん。ちょっと行って来てもいい? かな」
「トイレでなにするの? 逝ってくるって……」
「そっちの逝って来るじゃない!」
「どっち?」
「そっちだよ!」
「……? what?」
「英語使うな!」
「なんで?」
「僕が意味分からないからだよ!」
「ふふふ……」
千尋は英語が苦手。義務教育から離脱していた時期が長い。小学校のころは、まともに通ったのは一年生だけだった。二年生のころからは虐待の影響で不登校気味になった。三年生で親が逮捕。その後、二年間は入院していた。
社会復帰後、中学二年生で再び不登校になった。以降、中学校には通っていない。
千尋は、勉強が苦手だった。英語は高校に入り、アルファベットから学び直した。
漢字も苦手である。難しい単語は読めない。自分の事件が書かれた「東村山市児童虐待監禁事件」のルポ本には振り仮名が振っておらず、辞書を引きながら読んだ程だった。
「一人で行けるの? 着いて行きましょうか?」
「行けるよ! 幼稚園児か! 僕は!」
「下手したらそれ以下ね」
「おい!」
「でも、途中で倒れたりしたら本当に不味いし……」
「大丈夫だよ! トイレなんてすぐ隣だろ!」
「千尋さん、イライラしてるんですか?」
「してないよ!」
「千尋は過覚醒だから……、すぐイライラしちゃうのよ。それで声が大きくなったり、興奮したりするの。声はかわいいけど」
「過覚醒って、例のPTSDの……?」
「そう。脳がずっと緊張状態で、臨戦態勢っていう感じかしら。だからちょっとしたことで、すぐ怒るの。ほんと困りものよね」
「怒ってない!」
「DV彼氏か……、結婚したら私苦労しそう」
「ドメスティック・バイオレンスじゃない!」
「いいえ。手を出さなくても、言葉も暴力になるのよ」
「そうさせてるのはあおいちゃんだろ!」
「あはは、仲がいいんですね~。お二人は」
「どこがだ!」
「あはは、漫才みたいです!」
「漫才じゃない! 僕はもうトイレに行く!」
千尋は立ちあがってトイレへ向かう。あおいが、「おーい。ほんとうに大丈夫~」と無機質な声で言うが、千尋は無視する。千尋は子供扱いされるのが嫌。見た目は幼い。一四五㎝。三十七キロ。童顔。が、守られてばかりの自分を変えたい。過去と向き合い、乗りこえて、強くなりたいのだ。
――バタンッ。
「あーあー、千尋。粋がっちゃって、もう」
「千尋さんって、見た目もそうですけど、性格も……、子供っぽいですよね」
「でしょ。千尋はね、自分を見失ったり、記憶を失ったり……、色々あったから、実際、精神年齢も子供なのよ。見た目通り」
「まぁ、面白いからいいですけど!」
「そうね。誘拐でもされなきゃいいけど」




