09 嘘だ! 嘘だ! 全て嘘だ!
ふと、目が覚める。
天井の高い建物の中。仄暗い。
冬であるにもかかわらず、空気が妙に蒸している。
建物の外からは、激しい雨音が鳴り止まない。
俺はというと、ひな壇の手前の長椅子にうつ伏せに寝かされており、シーツを掛けられている。
体を動かすことなく、目をつむったまま、指輪の力で素早く周囲を観察する。
すぐ近くに誰かがいる。
俺の傍で、祈りを捧げているようだ。
「天にまします我らの神よ、私の命を代償に捧げます。ですからどうか! 彼の命を! 救ってくださいませ!」
特有の厳粛な空気が漂っている。
ここは教会だと推察される。
敬虔な信者もいたものだ……。
突如、凄まじい痛みが全身を襲う。
憲兵共に徹底的に殴られたせいだ。
ここまでやるかよ、普通。
それにしても、何がどうなって俺は教会に運び込まれることになったんだろうか。
殺されていないことが不思議でならない。
危険は過ぎ去ったのだろうか。血の婦人はどこへ行ったのだろうか。
考えても何もわからない。
すぐに思考放棄に走る。
気になって、傍で祈りを捧げている人間の観察を始める。
それは見知った顔だった。
それはシスター・ヘルミネ。
どうやら、俺はまた彼女に救われたようだ。
よく見ると、彼女は頬を濡らしている。
泣いていたようだ。
温かい心が溢れてくる。しかし、どうやって声を掛けたらいいのか全くわからない。
ここまで心配をかけてしまった俺の不甲斐なさ、格好悪さに、赤面せざるを得ない。
もう、彼女の前では格好をつけられないよ……。
ひたすら気絶しているふりを続ける。
ヘルミネは俺の手をとり、自身の手のひらを重ねてくる。
そのままうつむき、じっとしている。
手のひらから血が逆流するような感覚。
まるで体中が燃え上がるような感覚。
美しい手のひら、美しい手首、美しい前腕。そして手首……アザが見える。
一瞬だけ。どこか遠くから歌声のようなものが聞こえてくる。
激しさを含んだ、しかし、ごくごく小さな声。
だからこそ気になってしまう。
声の主を探して、俺の意識は地下へと向かう。
不意に気付きを得て、背筋が凍る。
思わず、鼻をすする。
「あら!?」
シスター・ヘルミネは慌てて俺から手を離し、自身の膝に手を置き、おずおずと俺の顔を覗き込む。
「おや? ここは教会ですか? それにシスター・ヘルミネが傍に? 何が何やらさっぱりわからない。そうか! 俺は気を失ってしまったんだった。またまた、あなたに厄介になってしまったようですね」
「ああ……。 ああッ! ついに! ついに、神様はわたくしの願いを叶えてくださった。あなたを地上に残してくださったのですわ! なんと偉大なる慈悲ですこと! こんなに素晴らしいことはありませんわ!」
ヘルミネは感極まって叫んでいる。
俺は、ゆっくりと体を起こす。
と同時に、全身に激痛が走る。
それでも我慢して、背中を丸めて長椅子に座り込む。
「ハハハ。大げさですよ。そういえば、私は憲兵に逮捕されたはずなのですが、いったいどうなっているんでしょう」
「本当に無茶をなさいますのね。黒羊亭でお会いした後、わたくし、教会の聖堂騎士に頼みまして、あなたを追いかけましたの。もう少し遅ければ恐ろしい結末を迎えるところでしたのよ」
「私を助けてくださったのですか? いつもながら感謝に堪えません」
「もう、実力行使するしかありませんでしたの。憲兵を追い払うまでは良かったのですが、ですが、あの黒い館の女主人は、憲兵を盾にして逃げてしまいましたの」
「館の女主人ねぇ……」
俺はぼんやりと呟く。
ヘルミネは俺の様子に危機感を覚えたようで、堰を切ったように話しかけてくる。
「いけませんわ。あの者はなおもこの街に潜んで、悪事を働く絶好の機会を狙っています。今もどこからか、あなたを監視しているかも知れませんわ。人のために動いてしまう、そんなあなたの素敵なところはよく存じておりますの。でも、もっと自分を大切にしてくださいまし! もっと警戒をしてくださいまし! あなたにもしものことがあったら、わたくし、もうどうしたらいいのか……」
「ありがとう。あなたにここまでさせてしまったことを深く後悔しています」
「いいのです、いいのですよ。わたくしは! もっと甘えて下さい。わたくしはあなたが羽休めするための憩いの場でありたいのです」
俺はヘルミネの顔を盗み見ながら、呟く。
「既に2回も命を救っていただいた。私も何か、あなたに恩返しがしたいと思っています。あなたのためになるような事ができればいいのだが」
突然、ヘルミネは俺のおでこに自身のおでこをあて、目をつむる。
いきなりぶつかってきたもんだから、目から火花が散る。
さらに俺の手を握りしめてくる。
どこまでも優しく。
俺に寄り添うようにして。
再び接触面から体中に熱が放射していく。
次第次第に、夢見心地になっていく。
お互いに認め認められる立場にあるという多幸感。
異世界で初めて得られた深い交わり。
「わたくしはあなたに全てを捧げます」
「……」
「あなたは、わたくしに全てを委ねてくださいますか?」
「その前にひとつ教えて欲しい」
「はい」
ヘルミネは驚いたように目を見開く。
俺は、そんなへルミネの顔をうっとりと眺めながら続ける。
「何故、私なのです?」
ヘルミネは奥ゆかしさをあえて捨て去り、覚悟を決めたように毅然として言い放つ。
「あなたが好きです」
再びヘルミネは目をつむる。
顔が近い。気恥ずかしい。
「言わせてしまった自分が恥ずかしい」
気合を込めて息を吸い込み、小さく呟く。
「私もあなたに全てを委ねましょう」
言った瞬間。
とめどなく体中から水分が蒸発していく。
慌てて、手を喉に当てる。
喉に当てた、その手。その手の皮膚が見る見る間に青白くなっていく。
それはまるで何者かに熱を奪われたかのよう。
手だけではない。
全身。
あまねく皮膚がだらしなくしぼみ、垂れ下がり、くたびれて、体の随所において骨の形が皮膚の上からもあらわになっていく。
「ああああ」
発した声は、先程聞こえたあの声、地下から聞こえてくる多色の声と瓜二つ。
残念ながら、先程地下に意識を向けたときに確認できたのは、木偶人間共のうごめく姿。
どういうことだろうか、まさか木偶人間と同じ声を発することになるとは。
ヘルミネはさっと離れる。
驚かせてしまったかな?
いやだ、そんな目で見ないでくれ。
化け物なんかじゃない。
なんでこんな姿になってしまったんだ?
離れないでくれ。君に害をなすつもりなんてない。
心の中は君が愛してくれたそのまま、全く変わっていないのだから。
これはきっと血の婦人の罠に違いない。
ゾンビ化の魔法をかけられていたとした思えない。
幸せの絶頂で俺をおとしめる。それが奴の狙いなのか?
お願いだから、俺を見捨てないでくれ。
「お名前は伺っていませんでしたわね。まぁ、それも今となってはどうでもいいこと。あなたはもうわたくしの言いなりですの。さぁ、あなたの、その支配の指輪を、わたくしに献上なさい」
厳かに言い放つヘルミネ。
その声は冷厳そのもの。さきほどまでの優しい面持ちはもはや欠片も見えない。
あまりの扱いの落差に、身を強張らせる。
しかし、抵抗することはできず、震えながらもやせ細った指から黒の指輪を引き抜き、ヘルミネに捧げる。
これは何かの間違いだ。
ヘルミネはきっと何か誤解しているんだな。
うっかりさんめ。
大丈夫。すぐに誤解は解ける。
なんたって彼女は天使のように優しい子だからな。
ヘルミネは遠慮なく、黒の指輪をひったくる。
「これこそアウグスタの指輪! 指輪の呪いを無効化するためには前主からの意思で譲り受ける必要があるの。そのためにわたくしはこれほどまでに意に沿わぬ振る舞いをさせられてきたのよ。でも、それももう終わったこと! ついに手に入りました! これでレギナもわたくしが真の裁定者であると認めざるを得ませんわ」
これはなんなんだ? ああ、そうだ。耳と目が腐敗しているせいだ。
だからこそ、世界の全てが汚く見える。世界で最も美しいはずのヘルミネさえ。
こんな愚かな思考しかできない俺を許してくれ。
俺はその場に崩れ落ちることも許されず、ただただ愚かに女主人の命令を待ち続ける。
そう、いいなりの木偶人間。
こんな悲しい結末、誰が望んだだろうか。
きっちり75秒。
止めていた息を吸うと、手元の赤の指輪が光を失う。
「まだ質問は続きますよ。2つ目の質問」
「え?」
木偶人間化した俺の姿は一瞬で消失し、教会は元の静けさを取り戻す。
ヘルミネは間抜けな顔で周囲を見渡す。
黒い指輪は相変わらず俺の指にはまっている。
俺は、全ての感情を殺して、淡々と言い放つ。
「あなたの手首。その小さな青あざは一体いつ刻まれたものなんですか? 血の婦人も手首に青あざを持っていましたが偶然の一致でしょうか? 全く同じ場所に同じ形で刻まれているようなのですが? どういうことなんでしょう? あと、何やら不穏な声が地下から聞こえました。聖堂騎士の声でしょうか? 地下にいるのは聖堂騎士でしょうか? それともあなたの力で木偶人間に変えられてしまった元聖堂騎士でしょうか? 答えてくれないか?」
「え?」
赤の指輪で現実に潜り込ませた幻想。
もう一人の俺の姿。
見事にヘルミネの能力をシミュレートしてくれた。
しかも、ヘルミネの真の姿までさらしあげてくれた。
思わぬ収穫だ。
「どうして? どうしてそんな酷いことを仰るの? あなたから疑われるなんてわたくし、もう無理! 心が張り裂けそうですわ!」
こいつの指輪の能力は、人の心を奪い、木偶人間化させる能力。
恐ろしい能力だ。
「俺も悲しい。いつまでも騙されていたかった」
ヘルミネの頬を涙が伝う。
耳を手で塞いでいる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい!」
「胡散臭いんだよ。見た目はいくらでも美しく整えられる。まるで別人のように化けることだって難しくはない。だが、中身はそうはいかない。歪んだ心は、隠せない! 目一杯美しさを取り繕ってもどこかにいびつさが現れる!」
「わたくしをそこまで嫌うのでしたら、わたくしを好きなようにしてください。あなたに全てを捧げましたの。全てはあなたの愛を得るために!」
酷い奴だ。
そんなことはわかっている。
それでも、憐憫を禁じえない。感情を切り離すことなんてできない。
彼女には暗黒卿という黒幕がいる。
命令されて仕方なく、こんなことをしたのだろう。
そうであったならば、どれだけよかっただろうか。
でも、明らかにそうではない。
話からして、彼女自身が主導者であったのは間違いない。
俺に執着していた理由はよくわかった。
俺に愛を抱いていたなど真っ赤な嘘。
要は俺の黒い指輪が欲しかったんだ。それも俺の意思で譲り受けることを狙っていた。
俺はぼろぼろの体を動かして、教会のひな壇に登り、ゆっくりと燭台を握る。
ヘルミネに燭台の先、尖った先端を向ける。
「できるの? できるのかしら? ホホホホホホ!」
ヘルミネは豹変したように笑い始める。
まるで俺を子供扱いするような物言いだ。
背中をそらして、ゆっくりと俺の方に向かってくる。
そして、俺の持つ燭台を掴み、その先端を自身の胸に向ける。
「あなたはわたくしを絶対に殺せないわ。何故ならわたくしを愛してしまったから。あなたは愛という愚かな感情から逃れられないの」
ぶすりとやっちまえッ!
「ねぇ、一緒に落ちていきましょう?」
俺は有利に立ったはずなのに、いつの間にか相手のペースに持ち込まれていることに気が付き、大きく深呼吸する。
「どうして途中から行動が雑になったんだ? 悪党としての減点は免れ得ないぞ。黒の指輪が欲しいとしても、急ぐ必要はなかったと思うのだが?」
「わたくしは悪党ではないの。でも急いだというのは、邪魔者の存在が大きいわね。あなたはわたくしに夢中のままでいられたなら幸せだったわ。でも、目障りな砂利姫が現れたせいであなたはわたくしに夢中になれなかった」
確かに、救いのない貧しい世界に放り込まれれば、誰だって救いに縋りつくことだろう。
自分の存在が特別であることを夢想しては、自らの心の飢えを鎮め、しかし、理想とのギャップに思い至ってはさらに心が色を失っていく。だからこそ、救いを切望し続ける。
彼女は、血の婦人として俺の前に現れ、さらに俺の心を圧迫し、一方でヘルミネとして現れて彼女に縋り付くように仕向けた。俺の心を利用したというわけだ。その手腕は、一流の詐欺師と言ってもいい。
砂利姫は、意図せずしてそんな俺を現実に呼び覚ましてくれたということか。
なるほど、なるほど。
しかし、自身の心情を解剖してみせたはずなのに、違和感を拭えない。
まるで、他人の家の間取りを見せられているような感覚。
そこには見知らぬ心象風景が広がっている。
「愚かに騙されていくあなたを見るのは、本当に楽しかったわ!」
やはり心底狂っている。
よくも俺の心をもてあそんでくれたな! 許せんッ! 絶対に許せんぞッ!
……。
許せない?
いや、別にそんなこともない。
ようやく気がつく。
そもそも俺は最初から何の怒りも感じていなかった。
つまり、あえて怒っているふりをしていたということだ。
何故、血の婦人の悪事に義憤を感じたふりをしたのだろうか。
何故、ヘルミネの優しい態度に心を奪われたふりをしたのだろうか。
何故、こうして裏切られたことに対して怒っているふりをしているのだろうか。
何故、ヘルミネを害せないふりをしているのだろうか。
そもそも、何故怒りを覚えていないのだろうか。最初から裏切られることがわかっていたわけでもないのに。
何故絶望しないのだろうか。救いを求めていて、今一歩のところで、目の前でそれが失われたというのに。
わけがわからない。
考えても、自身の心情の正体を解明することは叶わない。
それでも、ぼんやりとした嫌な絵面が脳裏をかすめる。
それは、人間の心を持つことはできない運命にありながらも、さも持っているかのような外面を作り、人間の社会に溶け込もうとする不格好なアンドロイドの姿。
「お話はこれまでにしましょうね。あなたはわたくしのことが好きだからわたくしを殺せない。でも、わたくしはあなたを殺すことに何の躊躇もいたしませんの。面白いでしょう?」
ヘルミネは素早い動きで、俺から距離を取る。
白い神官服を脱ぎ捨てると、その下には、漆黒のドレス。
それは間違いなく悪の化身。血の婦人、ヘルミネ。
彼女は、軽く指をならす。
と同時に、教会の奥の扉が開かれる。
「ネズミ一匹にここまで手こずるとは。貴様らしくもないな」
現れたのは暗黒卿。
ヘルミネは軽やかにステップを踏んでその傍に駆け寄る。
その腕をとり、暗黒卿にしなだれかかるようにして体を預ける。
暗黒卿の背後から、黒いマントを羽織る衛士が3人現れる。
「指輪を献上できず、面目ありませんわ。ですが、最後の詰め、最も美味しい部位はレオナルディ様に直接召し上がったいただこうと思っておりましたの」
「言うではないか」
暗黒卿はキラリとサーベルを引き抜く。
3人の配下も一斉にサーベルを引き抜く。
ヘルミネを後ろに下がらせ、配下とともに、俺に向かって近づいてくる。
「貴様の顔には覚えがある。目障りな奴め! しかし、貴様が砂利姫と親しい仲であるとは知らなかったぞ」
「お久しぶりです、暗黒卿閣下!」
「減らず口がすぎる、クズめが! 恋慕を抱いた相手が、別の女の人形に成り果てる。その姿を、砂利姫に見せつけてやり、奴の心を完膚なきまでにへし折ってやるのも一興ではあるが。だが、よかろう。今回は、私が手ずから貴様を葬り、奴にその死骸を見せてくれようではないか。そして、貴様を殺してからその支配の指輪を奪い、我が覇道の礎にしてくれん!」




