10 暴力的撹拌
ためらいがちに立ち上がる。
最後に北の方角を一睨みして、そして、声に出して自分に言い聞かせる。
「全部俺には関係のない話。何か自分にできることがあるのでは、というのがそもそも傲慢な発想。俺はまだ生きている。それだけで十分。振り出しに戻っただけ。それだけ」
邪念を振り払うように、首を振り、剣を素早く鞘に収める。
「先を急ごうか」
だんだんと立木の間隔がまばらになっていく。
地面まで、よく日が差し込んでいる。
雲間から差し込む奇妙な黄色い光が、やけに周囲を明るく照らし出す。
途中、小雨も降り始め、一体がひんやりとし始める。
濡れた枯れ草が一層のわびしさを感じさせる。
切り刻まれてすっかりぼろぼろになった外套を、体に無理やり巻きつけ直して、少しでも寒さをしのごうとする。
大渓谷はもうすぐそばだ。
元気を出して進もう。
ふと、近くから、生き物の気配がする。
四足の獣。
ゆっくりゆっくりと近づいてくる。
それはクマ。
森で会いたくない動物ナンバーワン。
よくもまぁ次から次へと危機が襲ってくるものだ。
しかし、それほど大きくはない。
食料に飢えている気配もない。
距離のあるうちに、追い払ってしまえば問題なかろう。
ゲーンゲーン!
俺は鞘を、抜き身の剣で叩き、大きな音をたてる。
さぁ、人間様が通るんだ! どいてくれたまえ!
しかし、一向に逃げはしない。
むしろ、こちらに興味を持ってしまったようで、リズミカルにこちらに向かってくる。
俺は走って逃げる。
クマは無邪気に追いかけてくる。
木に登ってやり過ごす? いやいや、クマは木に登ることができるという。
ならば、このまま走っていれば、無事逃げ延びられるのか? いやいや、クマの走る速度は、人間を遥かに超えるという。
しかも、死んだふりをしても何の意味もないという。
しかも、ベアナックルを食らうと人間は即死するという。
いったい何のジョークだ。
異世界に来て、クマに襲われておしまい。そんなのやめてくれ。
何の打開策も思い浮かばないまま、だんだんと、距離を詰められていく。
クマは、スキップしながら追いかけてくる。
遊んでいるのか! この野郎!
ついに、木の間から姿を現す。
今までとは一転、猛然とこちらに向かって走り寄ってくる。
心を落ち着け、クマと相対する。
近くの石ころを拾い、剣先をクマに向ける。
手にじっとり汗がにじむ。
相手は話の通じない敵。
これまでの敵とは違い、金も、地位も、名誉も奴を惹きつけることはできないのだ。
ただただ、本能に従い、俺の肉を貪ろうとしている。
捕食者と捕食される者。そんな原始的な関係。
死ねッ!
イメージ通りに石ころがクマめがけて射出され、その頭蓋にぶつかる。
コツン、と音がする。
蚊ほどにも気にしていない。
何のダメージも受けていない様子。
唐突に、勢いをつけて、クマは二本足で立ち上がる。
ハハッ。ゆうに2mは越えてる。ヒグマサイズか。
グァアアアア!!
凄まじい咆哮をあげる。
それまでは、無邪気な様子で楽しんでいたであろうヒグマさん。
突如、その様相は一変する。
口からはだらだらとよだれをたらし、目は血走っている。大きな口を開け、両手を大きく振り上げ。
バッドエンド――――
ゆっくりゆっくりと、繰り出されるヒグマの左手の一撃。
その動きを、まるでストロボ写真の画像のように、全てくっきりと捉えている。
それでも、避けられない。避ける意思を失ってしまったのだろうか。
何の前触れもなく、突如、前方に何かが降ってくる。
白い人。
地面を通して、大きな振動が伝わる。
着地点の地面が大きく裂けて、周囲が盛り上がる。
全身白のマントとフードで覆われた者。
地面に降り立つと同時に腰をかがめ、バネのように跳ね返って、鋭く上体を伸ばして。
勢いそのまま。
ベアナックルの一撃にカウンターをあわせて。
白マントの右ストレートが炸裂!
まともに顔面にストレートを貰ってしまったヒグマ。
顔面がブレたと思いきや、そのまま大きくのけぞる。
脳しんとうをおこしたのか、その場でぽかんと固まっている。
歯の隙間から、赤いよだれが派手に地に降り注ぐ。
ヒグマの固着した動き。
それはまるで隙きだらけの一瞬間。
おそらく、白マントはその間に何度も何度も追撃を食らわせることができたことだろう。
白マントは傲然と胸を張り、腕を組んで、ヒグマと対峙したまま。
相手の様子を観察している。
何なら、いつでもかかってこいと言わんばかりだ。
ヒグマはわけがわからない様子だった。
が、しばらくすると、四足に戻り、ゆっくりすごすごと森の奥へ去っていった。
「危ないところを助けて下すって、ありがとうございます」
白マントは、いささかの油断もなく、こちらを振り向く。
フードの下から覗く、銀色の口ひげ。鋭い眼光。
ふっと、白マントの両拳が左右に開く。
決して、油断したわけではない。目を離した覚えもない。
目にも留まらぬ素早い拳が俺を襲う。
突然、凄まじい痛みが肩口に。
息が止まる。
殴られた!?
そう思う暇もなく。
肋から。太ももから。首筋から。みぞおちから。
次々に砕かれていく全身。
遅れてやってくる激痛。
まるで拳の雨嵐。
もはや、俺の目をもってしても、その動きが捉えられない。
当然、体も反応できない。
鋭い眼光は俺の動きをとっくりと冷静に観察し、確実に息の根を止めにかかってくる。
ただただ虐殺される音が鳴り続く。
左手に収まっている石ころ。
全力で握りつぶす。
握り潰して細かくなったイシツブテを、師匠の目に投げつける。
しかし、軽く、左手で払われる。
その瞬間、フードが取り払われ、その顔が顕になる。
「師匠ォォ!?」
間違いなく、あの顔つきは、師匠。ジガに違いない。
メルクリオとの決闘に備えて、王都で俺に稽古をつけてくれた師匠に違いないのだ。
なのに、この理不尽な仕打ち。
俺のことを覚えていないのか?
敵だと認識されているのか?
このままだと、死んでしまう。
俺は急いで、後方へ飛び跳ね、師匠から距離をとろうとする。
まるで意に介することもなく、寸分違わぬ距離で俺についてくる師匠。
俺は立ち止まる。
そうすると、俺を仕留める最期の一撃が、顔面の直ぐ側に迫り来る。
それでも、目を離さない。
一撃。
その一撃を、我が全力で受けてみせようではないか。
せめて、その片腕だけは自由を奪ってやる。
相手が多少なりでも怯んでくれれば、隙きは生まれるはずッ。
相手の拳の動きに、全神経を集中させる。
把握するべきは、0コンマ001秒ごとのその軌道。
そして、そこから算出されるその予想進路。
右拳がピタッと俺の眼前で止まる。
俺の両手のひらが、師匠の手首を捕まえたのだ。
「お前はメルクリオか?」
「ったく。早く、気付いてくださいよ、死ぬところだったじゃないですか」
既に俺の全身はずたぼろだ。
「アウグスタかお前なのか。わからなかったものでな」
「俺は男ですよ」
「そういうことを言うておるのではない。まさか、こういうことになっておるとは思わなんだ。そのなんだ、アウグスタの指輪のせいだと思うてくれ。すまなかったな」
この黒い指輪のことだろう。
「仮に俺がアウグスタだったら殺すつもりだったんですか?」
「いや……。試したのだ。窮地に陥れば、本性が現れると思うてな。だがお前はお前だった。何の変哲もないお前だった」
確かに、師匠が本気であれば、俺は爆散していただろう。
手加減はされていたのだ。
「師匠との再会がこんな酷い対面になるだなんて。ゲホッ」
「許せッ」
俺は、身が持たず、地面に腰掛ける。
師匠も、あわせてその場に腰を据える。
「ところで、師匠は空から降ってきたように見えたのですが、何をしに来たんですか?」
「なに。ただのピクニックじゃぞ」
「ははぁ。え? ピクニックって? そんなに楽しそうな様子には見えませんが」
「現に楽しんでおる。お前の顔を見られただけでもその甲斐はあったというもの」
「俺のほうはあれから、本当にいろいろあってですねぇ」
「察しはつく。イェルドから一人逃げのびておるところであろう」
「イェルド、だったかな。ええ、激怒皇帝イェルドから。厳密に言うと、さっきまでは二人だったのですが」
「何やら迷うておるな?」
「……」
「旅の連れが捕縛されてしまって。救い出すべきか迷ったんです。でも、俺は特に必要とはされていなかったんだ」
「今ならまだ、助けられるかもしれない、間に合うかもしれないと悩みあぐねておるわけだな」
「必要とされていないにもかかわらず、必要だろうと言って俺がしゃしゃり出ていくことに何の意味があるのかなって」
「そんなことは知らんッ! 自分で考えろッ」
ハハハ、相変わらず理不尽だな。
「ワシの用は終わりだ。だが、お前に少し教えてやらねばならんことがあってな」
鋭い目つきで俺の黒い指輪と銀の指輪を睨みつけ、すぐに目を離す。
「今なら、多少はものになるであろう。いや、ここでものにせねば、この先、すぐ近い将来において間違いなく壁にぶつかることになる。さぁ、我が奥義。ここでものにしてみせよ」
さっと立ち上がる師匠。
いつぞやのように、見慣れた体勢で拳を構える。
俺もしぶしぶ立ち上がる。
そして、剣を構える。
死の組み手の始まりだ。
再び拳の雨嵐が襲いかかる。
「多少は目が良くなったようだが、一つの拳に注意を凝らすと、他のものに目がいかなくなるのは悪い癖だ」
そのとおりだ。
この銀の指輪。万能ではない。
いくら周辺空間の、あらゆる物体の座標がわかると言っても、注意を向けていないものには及ばない。勝手に情報が頭脳に流れ込んでくるわけではないのだ。
ひとつのことに集中していたために、空間把握を怠ってしまったことが実際に何度もあった。
常に、全体に注意を向けなければならない。
そのためには、気を落ち着かせて。平常心。いかなる時にも平常心。
師匠の拳の動きがはっきりと見える。
そして、それに合わせて体が動き、拳をいなす。
「ほう、我が拳を避けるのではなく、いなすかッ!」
どんどんと拳の速度が早くなっていく。
いなす。いなす。
と、途端に腹に激痛を感じ、その場で崩れる。
師匠の足蹴りが炸裂したのだ。
「言うたであろう、拳のみに注意を集中させるなとッ」
師匠の動き全体に注意を凝らす。
服の上から観察する筋肉の動き。放たれる拳の動き。その動きを四方から座標で捉えて。
ひとつひとつの動きと、経験から得られる結果、その予測を結びつける。
そこに俺の想像上の動きを組み合わせる。
幾通りかを試みに組み合わせて、もっとも効果的な動きを選びぬき。
刻々と変化する相手の動きに合わせて、自在に体の動きを変化させ。
それは師匠の動きのトレースでもある。
腕の振り、足の運び、体重移動、腰の回転、タイミングのとり方……。
どんどんと師匠の動きは洗練化、複雑化していく。
それでも、落ち着いた心と目はその動きを寸分誤りなく理解し、推測し。
「ハッ!」
切り返すのは流れるような一太刀。
喰らいやがれッ!
白マントの端をざっくりと切り刻む。
惜しいッ!
絶好の機会は静かに去っていく。
周囲はしんとする。
師匠はマントの端を大げさに持ち上げ、腕を組み、言い放つ。
「心を平常に保つ。この一点において不安は残る。が、よかろう。我が最初の奥義『流転』。いまこそ皆伝とみなすッ!」
きたぁぁ、「流転」を会得したッ!
ところで、「流転」ってなんなんだろう……?
すごい勢いで伝授されたから、すごい勢いで喜んでみせたが、冷静に考えると、謎だ。
しかも、いまいち強くなった実感、殻が剥けた実感がない。
「また、会うこともあるだろう。もっとも、ワシと会うということは、この先もお前には過酷な運命が待っておるということになるのだが」
「必ずや、師匠を越える人物になって、再会しとうございますッ」
適当に熱血さを演出する。
「ハッハッハ! 期待しておる」
師匠はさっと踵を返し、山脈に向かって歩いていく。
王国に戻るまでご一緒しませんか、という言葉を飲み込む。
どうせ、理不尽に怒られるだけだからだ。
「そうよ。伝え忘れておった。北西の荒野に兵士の駐屯する村がある。もし、連れ合いとの別れに未だ後悔があるなら、覚悟を決めた上で行ってみるがよい」




