05 一意専心
激しく背を打ち、息が止まる。
体が岩の上に投げ出されたと思いきや、そのまま岩の上を滑っていく。
俺は周囲の様子をうかがうため、滑りながらも少し頭をあげ、素早く周囲を観察する。
全神経を集中させる。
ろくに手入れのされていない、雑多な針葉樹が雑に生えている森の中。
下草も伸び放題。
ほとんど光が入ってこない。
それでも、薄明るい。
夜でないことは間違いないだろう。
直ぐ側には、洞窟から流れ出た水流が小さな小川になって流れている。
巨大イモリは追いかけてきてはいない。
さすがにあの小さな出口からは出てこられなかったようだ。
大きな大木の幹にぶつかり、ようやく体が止まる。
周囲の様子を把握し、危機が去ったことを確認した途端。
痛みの予感。
痛みが来るのを避けようと、遅らせようと、体をこわばらせ、無意味に息を止めたまま、その場で暴れまわる。
遅れて全身に激痛が走る。
声を上げずに、しばらく全身の痛みに悶えていた。
痛みがやや収まると、今度は激しい喉の乾き。
ふらふらと立ち上がり、小川の方へ。
頑固な低木が行く手を邪魔してくる。
どいてくれい。
川岸にしゃがみこみ、水をすくい一口。
体に染み渡る。
ふぅ……。
急にぶるっと震える。
かなり冷える。季節は晩秋。
どこか大きな故障はないか、恐る恐る、改めて全身を観察する。
あれほどの無茶をした、期待はしていない。
かさかさの皮膚。
まるで干物のような手足。それを覆うぼろぼろの衣服。
衣服の隙間から見える肋には、うっすらと肋骨の形が浮かび上がるほど。
裸足の足は真っ赤になっている。
途中からずっと裸足だったから、怪我をしていてもおかしくはない。
なるほど、どおりで衛士から白骨騎士と間違われるわけだ。
ハハハッ。
長いことパンくずと水だけの牢獄生活だったからな。
加えて、かつてないほどの環境ストレス。
日光も浴びられなかったし、そりゃあ皮膚も荒れるわ。
まるで他人事のように思える。感情は波立たない。怒りも悲しみも惨めな気分も起きない。
治ればいいのだ。治らなくても、命を拾っただけでも御の字というべきだろう。
ただ、よくもまぁ、こんな手足で走れたものだ。
火事場の馬鹿力というやつか。
各関節をゆっくりと動かしてみる。
ひじひざ首肩腰、指先まで。
各関節から若干の痛みは走るが、動かないことはない。
幸いなことに骨折はしていないようだ。
急にふわっと力が抜け、川辺の黄金色の草むらに横たわる。
これからどうしよう。
まずは現状整理だ。
あれからどれぐらいの月日が経ったのだろうか。
最後にファウストと話をしたのは、大戦から4日目。
牢獄に入ってから少なくとも体感で5日ぐらいは経っているものと思われる。
そうすると、大戦からだいたい10日ほど。
ここはどこだろうか。
大渓谷の北側に位置する荒野。
荒野の西側は大洋、東側は山脈がある。
山脈の入り口にひっそりと立つ城塞。
ファウストの話によれば、俺が収監されていたのはその城塞だ。
そこから抜け出してきた。
だとすると、これからアルデア王国に帰還するには、ひたすら南下することになる。
荒野は見通しが良すぎるため、すぐに敵兵から視認されてしまう。荒野を歩くのは危険だ。ならば山脈の麓、南北に広がる森林地帯に沿って南下する。
南下し続ければ、そのうち大渓谷にぶつかる。
大渓谷を通るには大橋梁を渡らざるを得ない。
さて、大橋梁をどうやって渡ろうか。
帝国の兵士が大橋梁を守備していて、怪しい者を厳しく取調べしている図が容易に頭に浮かぶ。
大橋梁を避けて、あえて大渓谷に降り立つか。
しかし、化け物の巣窟となっていると聞いた。
考えていても仕方ない。熟考のためにここにとどまり続けるのは危険だ。
すぐに南下する他道はない。
追っ手が現れるのも時間の問題だろうしな。
不思議なほどに飢餓感はない。
喉の乾きさえ癒えればしばらくは動ける。
しかし、体温は異常なほどに下がっている。
何か食べないとまともな動きはできない。
食料を見つけて、さらに周辺地形の把握をしなければならない。
幸い、俺は周囲の様子を察知する能力を持っている。
まずは見晴らしのいい、高いところに向かおう。
目を周囲にやり、周囲の縦横高さの座標を調べる。
心を落ち着かせると、ざっと広い範囲の座標が脳裏に浮かぶ。
浅瀬を渡り、森林内の緩やかな坂を登っていく。
異様に体温が上がり、息がすぐに乱れる。
それでも、黙々と歩き続ける。
だんだんと坂が急になり、尾根にたどり着く。少し開けた場所に出る。
曇っている。なので、時間帯はわからない。
木の枝に足をかけ、たどたどしい動きで木を登る。
周囲を確認する。
そう遠くないところに山間の小さな城塞が見える。
山と山の間にはめ込まれたような、上下に長い優美な作り。
俺が収監されていた城塞だ。
その地下からこの森林地帯まで、地下道が伸びていたということだ。
反対側を見ると、なだらかな下り。
森林が途切れたところから、見渡す限りの荒野が続く。
こちらが西だろう。
そして南側。
元大要塞の城壁が延々と東西に伸びているのが見える。
少し遠いな。
直線距離で30kmほどだろうか。
近くに目をやると。
少し尾根を下ったところに、木々の間から頭を出した、小さな木造の小屋が見える。
煙が立ち上っており、人の気配がする。
俺はすっと大樹に身を潜めながら、ゆっくりと樹の下へと降り立つ。
そのまま、木を背にして思案を始める。
食料と衣服を分けてもらえないだろうか。
しかし、このひどい姿だと間違いなく怪しまれてしまう。追い払われるかもしれない。
下手をすると強盗だと勘違いされて、城塞に連絡されてしまうかもしれない。
そしたら牢獄に逆戻り。
だったら、家人が留守の間、もしくは眠っている夜の間にこっそりと……。
いかんいかん、まるで犯罪者の思考ではないか。
俺は倫理観がきちんとした現代人だ。
中世のおぞましい世界観に染まってはいけない。
話せばわかる。
きっと。
しばらくして、うさぎが佇んでいる姿に気がつく。
距離にして10m程度。
しばらく見つめ合う。
よしっ。
物々交換だ。
うさぎを差し出す。この世界では、ウサギ肉はご馳走だったからな。
その代わりに食料と衣服を提供してもらう。
これでいこう。
悪いが俺が生き伸びるために犠牲になってもらうぞ、うさぎさんよぉ。
座ったままこっそりと右手で近くの石ころを握り、狙いをつけて。
すばやく腰から上をひねり、振りかぶって石ころをうさぎに向かって投げつける。
うさぎはさっと耳を動かし、すばやく跳躍。
ドサッ。
うさぎがいた場所に広がる、小さな岩肌に石ころがぶつかり、そのあと変に跳ねて隣のモミの木の幹にぶつかりそのまま地面に落下する。
そりゃあそうだよな、動く的に素人の投石が当たるわけないよな。
うさぎは軽やかに走り去っていく。
それでも取り残された妙な感覚。
腰のひねり、肩の移動、右手の通った軌跡。
全てが見えている。
第三者の目で見るように。
そして、そのイメージを覚えている。
うさぎは去った。
もはや、獲物を狩るという目的はない。
もう一度石ころを握る。
先程と同じ大きさ。同じ形状。
腰から上をひねり、振りかぶって投擲。
先程の岩肌の同じ箇所に石ころがぶつかり、跳ねてモミの木の幹の同じ箇所に石ころがぶつかる。
まるで映像を再生したかのように、寸分の狂いもない完全なる再現。
さらに石ころを握り。3投目。
投擲する時の、体の動かし方のイメージを頭に浮かべる。
イメージに合せて一分の狂いもなく体が動く。
投げる直前。石ころから離れる瞬間、指の動きのイメージをずらして石ころを放つ。
先程の岩肌の少し右側に石ころがぶつかり、今度は左に跳ねて転がっていく。
3投目のイメージに合わせてさらに4投目。
寸分たがわぬ体勢からの投擲。
寸分たがわぬ石ころの軌跡。
幾度も幾度も石ころを投擲する。
投擲方法を意識してわずかに変化させる。
勢いをつけて。
指を立てて。
立って。
場所を変えて。
石ころの形状、大きさを変えて。
それ以外の体勢は寸分違わせることなく。
同じイメージの投げ方をすると、石ころは完全に同じ軌跡をたどる。
微調整すると、石ころの軌跡に変化をつけることができる。
徐々に蓄積していく情報。
体の動かし方と、石ころの軌跡がひとつひとつ結びついていく。
蓄積された情報を基に、目標に合わせた体の動かし方をイメージする。
推測によりはじき出されたイメージに合わせて体を動かす。
イメージ通りに体が動く。
推測を繰り返せば、それだけで狙ったところに狙ったものが当たる。百発百中だ。
俺には、こんな才能があったのか。ついに開花してしまったな。
今ならば、大投手にでもなれそうだ、ハハハ。
投手は、コーチから体の動かし方について細かく指摘を受けながら、ベストなフォームを作るという。
そのベストなフォームを体に覚え込ませて、同一の動きをトレースできるようにする。
これによって、いつでも狙った場所に球を投げ込めるようになるのだ。
その苦労はとてつもないはず。
はずなのに。
この短期間でマスターしてしまった。
目の良さには自信がある。
なぜならば、俺には周囲の座標を、目視できないところまで確認できる指輪の能力を持っているからだ。人からアドバイスを受ける必要はないのだ。
だが、イメージした通りに体が動くというのは、反復練習をして初めて身につくもの。
にもかかわらず、短期間でできてしまった。
これは生まれ持っての才能などではない。
この黒い指輪の力なのか?
妙な感覚が続く。
疲れ果てるまで、俺は石ころを投げ続ける。
面白いように狙った場所に石ころは飛んでいく。
歩きながら投げても、微調整すれば問題ない。
なんなら、飛び跳ねながら、走りながらでも。
川に戻る。
川面を泳ぐ魚がいる。あのまだら模様はマスの仲間だろう。
マスめがけて石ころを投げる。
あえなく、水面に弾かれる。
しかし、諦めない。間髪入れずに両手でどんどん投げ続ける。
微調整を繰り返し、水面下にまで石ころが届くようになる。
水が冷たいせいか、マスの動きは鈍い。
集中砲火を受けて、マスは慌てて浅瀬に逃げていく。
「大漁、大漁!」
捕まえたマスは5匹。
マスを携え、小屋につく頃には、すっかり日が暮れていた。
小屋は高床式の形状になっており、はしごがかけられている。
俺は何の警戒もなく、友人宅に訪れるようにして、軽やかにはしごを登っていく。
「こんばんわッ!」
「?」
小屋の中には二人の男がいた。
さすがに、蛮人の格好をした俺に対して、警戒色が深い。
「突然すいません。私は山の奥に住んでいるしがないものなんですが、物々交換をしたくて、ちょっと寄らせてもらいました」
身だしなみは悪いかもしれないが、それでも努めて明るい声音で話しかける。
「物々交換だと? 怪しいなぁ」
「いいじゃないか! その新鮮なトラウト、美味そうだな。そいつを交換してくれるってことだよな?」
奥の男は乗り気のようだ。
「そうです。俺、山の中にずっと籠もっていて、衣服がなくなってしまったんで。簡単な衣服と靴、できれば食事をさせてもらえたら嬉しいのですが。こいつで足りなければ、お仕事の手伝い、しますけど?」
「いやあ、それぐらいならお安い御用だぜ。新鮮な魚はご馳走なんだ。うへへ。少し傷はあるがまぁいいだろう。きれいな服はないが、お古の服と靴ならすぐに用意できる。大麦の粥が残っているから、それも分けてあげよう、好きなだけ食べるがいい」
「ありがとうございます。いやあ、いい人に出会えてよかった」
「困っている時はお互い様さ。おぃ、確かタラの干物もあったろう、外に干してたっけな? ちょっと取りに行ってきてくれ」
「お、おぅ……」
警戒色が強い方がはしごを降りていく。
俺はトラウトを手渡し、粗末な服を受け取る。
「ほら、遠慮なく着替えてくれ、それから飯を食ってくれ、兄弟」
俺はお言葉に甘える。
さっと服に腕を通し、靴を履き、着座。
渡る世間に鬼はなし。案ずるより産むが易し。
ぼろぼろのテーブルの上に粥の入った皿が置かれる。
「ところで、こんな山小屋でどんな仕事をされているのです?」
「いえね、俺達はただの炭焼き兼狩人だよ。この森でとれるうさぎは市場で高値で売れるのでね、冬が来ると毎年この小屋で寝泊まりするんだわ。物騒なものが散らばっているが、狩りの時に使うものなんで、許してくれよ」
暖かい粥をすすりながら、改めて家の中を見渡す。
確かに。
飾られているのは剣や斧、弓。
まるで戦争でも始めるかのようだ。
「ほほう。ところでそのうさぎはどこで売却するのですか?」
「つい先日までは、大要塞に売りに行っていたんだが、最近大要塞の周辺が物騒なことになっているらしくてねぇ。今年は北の方まで売りに行くことになりそうだなぁ」
カーンカーンカーン!
急に近くから鳴り響く甲高い、木琴のような大きな音。
「おっ?」
「あぁ、あれは熊よけの音だね、気にしないでくれ」
この森には熊がいるのか。これは恐ろしい。
気をつけないとだな。
「それで、普段のお住いはどちらに?」
「極北にある寒村さ。老いた両親がいるもんでね。冬の間に稼いだ金で、両親を養っているのさ」
あけっぴろげに話してくれる。
「戦争が続くと、俺たちの稼業は干上がっちまう。早く平和な世界に戻って欲しいもんだよ」
身につまされる思いだ。
申し訳ない。
もう俺は戦争には関わらない。決して。
「体が温まってきた、ああ、この粥はうまいですね。塩以外に何か隠し味が?」
粗末な料理。それでも精一杯の歓待の気持ちが伝わる。
心がほっこりしていく。
ふと、体の端からピリピリとした感覚が広がっていく。
体がぐらっと揺れる。
「いえね、ちょっとばかりキツめの隠し味をね」
相手の男が立ち上がる。
「知ってるかな。カタリナの薬っていうトリカブトの根っこだよ。この辺りではよく取れる」
疲労が一気に押し寄せて来たのかな。
俺は体を支えきれず、椅子から転げ落ち、その場で横倒しになる。
遠くから声が聞こえる。
「麻痺毒ってやつだね。毒はうまいっていうからね。まさか隠し味は何かだなんて平和ボケしたことを言われるとは思いもしなかったよ。ヒヒヒ」




