寝惚け眼の水曜日
こくこくと。
面白い作品って結局のところ何なんだろうか?
この問いに答えるなら、面白い作品っていうのは結局のところ、心が面白いと感じた作品と言うほかない。
しかし、人の好みは千差万別、十人十色。誰かの好きは誰かの嫌いで、それはつまり僕が面白いと感じても、それが面白い作品とは言えないわけだ。特に創作をする人間にとってはそれは絶対の不文律。自分の好きな作品を書く。それは読者にすれば単なる我儘で、でもだからって自分がつまらない作品を書くわけにもいかない。
でも、僕には見える。色が。
それは絶対の不文律とは言えないけど、少なくとも自分が作品にどの程度の思い入れを持って書いているのかは知る事ができる。
初めて書いた作品は透き通るような青色だった。青は自信。次に書いた作品は空色に近い青色。少し揺らいだ自信。そこから書くたびに薄く、白く透明に。
僕は自信を持って書いている筈だ。でも、僕には見えなくなっていく。自分の色が。自分だけの色が見えない。それは、僕にとって本当に、本当に苦しい事だった。でも、その苦しさも僕の色にはならない。
それはつまり、苦しみすら僕にとっては嘘なんだ。
「坂口くん。坂口くん。起きて下さい」
ん? 朝か? いや、昼か?
寝ぼける頭をゆらゆら揺らされ、僕の意識は現実に引き戻される。
「お昼休みですよ。坂口くん」
寝ぼける僕から手を離し、攻めるような目でこちらを見るのは宮沢さん。我が校の生徒会長さんは、わざわざ僕を起こすために隣の教室から足を運んでくれたらしい。
「……ああ。そうみたいだね」
僕は欠伸をしながら返事をし、クラスを見渡す。クラスはガヤガヤと騒がしく、皆短い昼休みを満喫しようとわやわやと蠢いている。
「授業中の睡眠は感心できませんよ」
ジロリと不機嫌そうな目が僕を睨む。
「大丈夫。邯鄲の夢はみたから」
「夢で謙虚さを学んでも、現実に活かせないようでは意味がありませんよ」
さすが、宮沢さん。邯鄲の夢がどういう意味なのか理解した上での返しだ。邯鄲の夢。人の欲は儚く、それがどんな栄華を誇っても夢のように霧散すること。一言に纏めると、人の欲は脆い。それだけだ。それだけだの事なのに、変に捻っているから僕からしてみるとこの話は謙虚さというより、虚しさを感じる。虚しさというより、無意味さかも知れないが。どっちでも同じ事だ。
「まあ、それは後々の課題って事で。それで? 何のようが有って僕に会いに来たの?」
「用がないと会いに来てはいけませんか?」
「さあ。たぶんそれは僕の決める事じゃないと思うよ」
「…………ふぅ。そうですね。本当は少し話したいことが有って来ました。お昼ご一緒してもいいですか?」
宮沢さんは呆れ顔で、笑う。呆れながら、笑う。
「ああ。構わないよ」
と言う事で珍しく、何年振りかの誘いを受けて、僕は宮沢さんと一緒に学校で昼食を摂る事にした。いや、この前パスタを奢ってあげたし、イミカと一緒にドーナッツを食べたりしたんだが、宮沢さんから誘ってきたのはかなり久しぶりだ。
僕としては学食へ行っても良かったが、静かな所で食べたいと言う宮沢さんの意見を尊重して、購買で適当にパンを買って屋上で食べる事にした。
「……その、結局貴方が台本書く事になったんですね」
宮沢さんはメロンパンを食べながら、ふと思い出したかのようにそう尋ねてくる。
「まあね。イミカやその他の面々に流されて仕方なくって感じだけど」
僕は雄々しく焼きそばパンをかじりながら返事をする。
「そうですか。それで寝不足なんですね」
「うん、そのくせ進みはイマイチなんだけどね」
「それはまあ、頑張って下さい。……それで、どんな作品を書いているか聞いてもいいですか?」
どんな作品を書いているのか。この質問は意外と困る。そんなのは、書いてる途中も、書き終わった後でも分かりはしない。自分の作品がどういったものなのか。いや、他人の作品だって測るのは簡単な事じゃ無い。だから、誤魔化すような事を口にするしかない。
「感動と死別と友情とラブレターと殺害予告と約束をテーマにした作品に仕上がる予定だ」
「なんですそれ?」
「それはみてのお楽しみだ」
僕は不敵に笑う。
「……それじゃあ、楽しみにさせてもらいますよ」
宮沢さんは楽しげに、それでいて控えめに笑う。それからしばらく、とりとめのなく、たわいない日常会話に花を咲かせる。帰り道にちょっと遠回りをするような、意味も無く楽しげな会話を。そして、僕が焼きそばパンを食べ終わった頃に、ようやく本題に入るのか宮沢さんは大きく息を吐いて、言葉を変えて話し始める。
「……そう言えば、殺人予告。その件でちょっとお話ししたい事が有ったんです」
「なんだ、心配してくれてたのか? それはありがたいけど、僕は大丈夫だよ」
「いえ、そうではなく、犯人に心当たりが有りまして」
「え?」
宮沢さんの思わぬ言葉に焼きそばパンを口からこぼしそうになる。犯人に心当たりが有る。そう言う宮沢さんは嘘を言っているようにも、冗談を言ってるようにも見えない。淡々と何気なくいつもの調子で言葉を紡ぐ。
「えーと、もしかして調べてくれたりしたの?」
「いえ、私もそこまで暇では有りません」
まあ、宮沢さんにはあの殺人予告をいつどうやって渡されたかまでは言っていない。先週の金曜日に下駄箱に入ってた。これくらいの情報が有るなら、まあ、宮沢さんなら調べられない事も無いだろう。でも流石に宮沢さんでも、全くの真っ白から調べるには無理がある。つまり……
「僕を恨んでる人間に心当たりがあるって事?」
という事になる。
「そうです。と言うか坂口くん。貴方も本当は分かってるんじゃないですか?」
「いや…………」
そんな事を言われても、僕には本当に心当たりなど無い。僕を殺したい程恨んでる人間。いくら考えてもそんな人物は1人も思い浮かんでは来ない。所詮、恨みの程度など他人には測れない。恨みなんて行動にでも起こさなければ、誰にも伝わりなどしない。世界はそこまで優しくは無い。
「僕には本当に心当たりが無い」
「……はぁ。どうやら貴方は忘れているようですね」
宮沢さんは呆れるように、或いは軽蔑するように息を吐く。僕にはやっぱりそんな顔をされる覚えは無い。
「何を?」
だからそう訊くしかない。
「過去の事ですよ?」
「過去を忘れずに生きている人間なんていないだろ?」
「それでも、貴方は……いえ、貴方の場合忘れると言うより、過去に思い入れが無いだけかもしれませんね」
風が吹く。まだ暑い夏の風が頬を撫でる。
過去に思い入れが無い。たぶん、それは正しい。でも、それは正解じゃ無い。僕が思い入れが無いのは、過去じゃなくて過去を生きていた自分。何一つとして信じられなかった、ただ執着するしかなかった弱い自分だけだ。
「まあ、それは否定しないよ。それで? 結局誰かは教えてくれないの?」
その瞬間、風が止んだ。まるで、世界が僕にその言葉を聞き逃すのを許さないと叱責するように。世界がこの瞬間、口をつぐんだ。なぜだか、宮沢さんの口がやけにゆっくりと動いているように見える。そして、それが1人の少女の名前となって僕の耳に届く。
「三島 伊美華」
聴き逃したりしない。僕はそこまで、真っ直ぐじゃ無いから。
「…………イミカが僕を恨んでるって言うのか?」
有りえない。とは言わない。だって僕は誰も信じちゃいないから。でも、納得はできない。
「私も確証は有りませんよ。ただ……貴方はイミカさんを……その……振ったじゃないですか」
その言葉で嫌な思い出が脳裏をよぎる。
茜色に染まった、僕の愚かしさ。決して間違いではない僕の愚かしさ。ああ、確かに中学ニ年の時にイミカに告白された。ガキの頃から何度かそう言う悪ふざけは言い合って来たが、アレが本気なのは僕にも分かった。だから僕も本気で応えた。本気の想いで彼女を振った。僕には他に心を決めていると。
「…………もう、三年近くも昔に振った事をあいつは未だに恨んでるって言うのか?」
「違いますよ。貴方には分からないかも知れないですけど、イミカさんは今でも好きなんですよ」
「繋がらないな。愛憎は表裏一体って言いたいのか?」
それに僕にも分かる。僕は未だにそれだけは変わらず、ずっと好きなままだ。
「イミカさんはそんなに強いの人じゃ無いって言いたいんです」
「……強弱の問題じゃないだろ」
「貴方には分からないのかも知れませんね。いえ……そう言えば、貴方はイミカさんを振った時に好きな人が居るって言ったんでしたっけ?」
宮沢さんは少しうわずった声でそう聞いてくる。
「……たぶんそれは理解できないよ。それに人じゃない」
もっと言うなら、たぶん愛ですらない。僕は執着してるだけなんだ。その在り方に。
「意味が分かりません! ふざけてるんですか!」
「違う。ただ、僕は……」
僕は許せないだけなんだ。とは口にしなかった。気がついた。愛しているから許せない。それはつまり僕そのものじゃないか。
「もういいです! 坂口くん貴方は人の気持ちが分からないんです! 失望しました!」
そう吐き捨てて宮沢さんは残ったメロンパンを無理やり飲み込み、早足に去って行く。僕はそれを無言で見送る。かける言葉は無い。
僕には分からない。宮沢さんが何に失望したのか。僕がイミカの想いに気がついて今から走って告白するとでも思ったのか? 有りえない。
それとも僕が嘘を付いていると思ったのか? ……人じゃ無い。確かにこれは口が滑った。ああ、僕が大切な話の途中でくだらないはぐらかしをしたと思ったのか。確かに、それは最低だ。
でも、やっぱり僕には分からない。
人の気持ちが分からない? だったら、お前にだって分からない筈だ。僕が何を思っているのかなんて、僕にすら分からないだから。そのくせ、勝手に失望するのか。ずるい。でも僕だってずるい。だから、やっぱりかける言葉は無い。ああ、でも
「イミカの奴じゃ無いだろ。だってあいつの曲は未だに、完成してないんだから」
悲劇しか歌わない。そうか、そう言えばあいつが曲を作ると言い出したのも僕が振った後だったな。だから、悲劇はまだ無い。誰にも恋をしてないから。まだ……まだ、僕の事が……。いや、よそう。考えても仕方ない事だ。
空を見上げる。
まだまだ日は高い。今日はもう午後の授業はサボってしまおう。今は便利なものでスマホさえあれば執筆は可能だ。
「……何やってるんだろうな、僕は」
自分の思いに振り回されて、他人の思惑に振り回されて、それでもそうすると決めたのは自分で、だから逃げる訳にはいかない。
近くて遠い学校の喧騒が耳に響いて来る。
「……うるせぇな」
たいして大きくも無いその音をイヤホンで塞ぎ、動きたがらない指を無理やり動かして執筆に入る。……でも、やっぱり綴られる文字は真っ白なままだ。
雲行きがあやしい。