第二十一話 世に犯罪の種は尽きまじ
「はあ~。」
神坂はテーブルに突っ伏して盛大にため息をつく。向かいで美知留がそんな神坂を見て笑っている。もちろん付き合いの長い美知留のことだ、神坂が結構大きな悩みを抱えていることは感じ取っている。具体的な内容はもちろん話さないのでわからないが、話せないことがますます悩みを深くしているだろうこともわかっている。でも、こんな時は一緒に暗くなったり落ち込んだりするよりも、いっそ明るく笑い飛ばしてしまった方が気が楽になるものだ。
「香苗、そんな顔ばっかりしてると、眉間の皺が取れなくなっちゃうわよ。」
そう言ってまた笑う。
「こっちは深刻なのに……。」
ぷっと膨れてみせる神坂だが、そんな美知留のおかげで心の澱がいくらかでも拭われるような気がする。やはり持つべきものは気の置けない友人だ。
そんなことで気持ちは幾分和らいだが、根本的な問題の解決にはならない。だからと言って、業務上の秘密による制限がきついので、何に悩んでいるかを話すわけにもいかない。それでも、そこを察して美知留が持ちかける。
「いろいろ秘密で言えないことがあるのは仕方ないけど、断片的でも言えることだけでもしゃべったら、少しは発散になるかもしれないわよ。」
「ううん、そうだねぇ。まあしゃべれることなんてたいしてないんだけれど……。」
そう言いながらも美知留の気遣いが嬉しい。そういえば、まだ新人なのに、職場の上司や先輩は誰もそういった気遣いを見せてくれることはなかった。
「ええとね、うちの部署は基本的には調査課の調査結果に基づいて動くんだけれど、具体的な指示、命令は出ても背景情報の提供はないんだよね。だから指示内容に疑問があっても、情報がないから指示内容、つまり自分たちに与えられた仕事内容が適切なのかどうかの判断がつかないんだよ。」
「え? そうなの? 何の情報も来ないの?」
「そうなんだよ。職務を遂行する上で必要な最低限の情報は提供されるから、職務遂行上の不都合はあんまりないんだけれど、間違った指示が出てないかとか、もっと良いやり方があるんじゃないかとか思ったとしても、それ以上の情報が提供されることはないから、結局もやもやしたまま抱え込むことになるんだ。そんなことの積み重ねで、ちょっとあっぷあっぷしてるって感じかな。」
「え? 問い合わせても答えてくれないの?」
「うん、事情があって、問い合わせないことになってるんだ。」
「それじゃあ部署間の連携が取れないわよね。」
この程度のやや漠然とした説明でも、美知留には抱え込んでいる不満が伝わったようだ。
少しの間、美知留は黙って天を仰いでいたが、何か考え付いたように視線を神坂に戻す。
「そういうルールなら駄目かもしれないけど、上の人にだめもとで聞いてみるといいんじゃないかな。」
「うん、でも課長に聞いても具体的な情報はないみたいなんだよね。」
「だから、もっと上。」
「え? 局長の所へ聞きに行くの? 新人がそんなこと言ったって、会ってもくれないんじゃない?」
「ううん、局長じゃなくてね。前に話したわよね、わたしのおじさんが人権保護局担当の大臣官房審議官だって。局のナンバーツーだから何でも知ってるだろうし、職制上で聞きに行くんじゃなくて、わたしの友人として会いに行くってことにすれば会ってくれるんじゃないかしら。」
「ああ、なるほどね。さすが美知留だね。」
「うん、じゃあ今度おじさんに話しておくわ。」
そう言って美知留はにっこり笑う。美知留にはいろいろとかなわないなと思う。まあ、幹部に親戚がいたのは偶然だけど、それを利用することを思いつくのはさすがだ。自分ではせいぜい職制をたどって問い合わせるくらいしか思いつかないし、私的な関係で聞きに行けば、案外職制上では話せないことでも聞ける可能性があるかもしれない。
そうは言っても、大臣官房審議官も暇じゃないから、そう簡単に新人に会って話をしてくれたりはしないだろうと思っていると、程なく佐久間課長から本省に行って柳大臣官房審議官に面会するように指示が出た。本当に話が聞けることになったのにも驚いたが、ラインを通じて業務上の指示として連絡が来たのにも驚いた。審議官が新人を呼び出すなど異例のことだから佐久間課長が不思議そうな顔をしていたし、若干公私混同の気味がないでもないとも思うが、せっかくの機会なので指示に従って本省に赴く。
「失礼します。執行課の神坂です。」
柳審議官の部屋を訪ねて挨拶をすれば、思いの外フレンドリーな対応だ。
「やあ、君が神坂君か。美知留から話は聞いているよ。まあ掛けなさい。」
神坂を応接セットのソファーに掛けさせると、柳審議官も向かいに腰を下ろす。
「いつも美知留が良くしてもらっているそうだね。私の方からも礼を言わせてもらうよ。」
美知留が柳審議官に普段どんな話をしているのかわからないが、普段仲良くしてはいるものの、神坂としてはわざわざお礼を言われるほどのことをしている自覚はない。
「い、いえ、お礼を言って頂く程のことなんて別にしていませんし、むしろ私の方こそ美知留には……、いえ美知留さんには色々助けてもらったり教えてもらったりしていて、感謝しています。」
「いや、別に謙遜しなくても構わないよ。私は親ではないがね、美知留のことは小さい頃から可愛がってきたからね、よくわかっているんだよ。あの子はおっとりしているところがあるからね、社会に出て、周りのペースについて行けるか心配でね。」
「いえ、いえ、そんなことはありません。小さい頃に比べるとずいぶん積極的になりましたし、あれで結構しっかりしていますから。変な競争心がない分周囲との軋轢は少なそうですし、職場ではうまくやっているみたいですよ。」
「そうかね。友人の君からそう言ってもらえると安心するよ。」
柳審議官は美知留とはずいぶん近しい関係のようで、まるで親が子のことを心配しているようで、ちょっと微笑ましく感じる。
神坂は美知留のことを答えながら、自分は無駄に我が強い所があって、必要のない軋轢を生んでいるんじゃあないかと、少し反省する。今日ここに来たのだって、もしかすると周囲から変に思われているかもしれないし、そうまでして聞き出さなければならないことかという面もある。職務は職務として、粛々と遂行する以外の選択肢はないのだから。それに、友人として美知留の近況などを話している分には問題ないが、ここでいきなり職務上の話を始めるのもどうかと思う。そもそも、執行官には執行対象者に関する情報は最小限しか伝えないことになっているのだから、上層部の人だからといって、話せないことは話せないのではないか。そう思うとちょっと切り出しにくい。
「ところで美知留から聞いたんだが、神坂君は職務上必要な情報が十分に入らなくて困っているそうだね。」
「あ、はい。必要最低限の情報はもらえているんですけれど、もう少し情報がもらえると良いと思うことがあります。」
美知留はちゃんと困っていることについて話してくれたんだ。おかげでどう切り出すか悩まずに済んで、感謝しかない。しかも、柳審議官の方から持ち出してくれたということは、ある程度疑問に答えてくれそうだ。
「で、どんなことで困っているんだね?」
「はい、ええと……。」
それでも神坂は、職務上の事は他言禁止と言われていることを考えて口ごもる。
「執行課の職務については他言禁止と言われているので、どこまでお話していいのか……。」
「ああ、それなら気にしなくていいよ。私は全部知っているから。」
「はい、それではお尋ねしますが、先日強制処分執行の際に、執行対象者から殺されかけたことがあって、後で調べたらその執行対象者は、以前対立する反社会的組織の人間を殺したことがある、言ってみればプロの殺し屋のような人だったということだったんです。結果的に殺されなかったから良かったんですけれど、もし事前に執行対象者についてもっと詳しい情報をもらえていたら、そんな危険を冒さずに済んだんじゃないかと思うんです。だからそういう危険性の高い対象者の場合は、そういう情報をあらかじめいただけるようにしてもらえないかと思います。」
柳審議官は大きくうなずいて答える。
「うん、その話は聞いているよ。その次の仲村君が殉職した時の話もね。確かにそういった危険をどうやって排除するかは重要な課題だね。なかなか適任者を得にくい執行官を失うのは大きな損失だからね。」
そして少し考える風を見せた後、はっきりと答える。
「これについては何ができるか、どうすれば良いか、検討してみよう。」
いきなり前向きの答えが返ってきて、神坂は感激だ。
「ありがとうございます。」
神坂はテーブルにぶつけかねない勢いで頭を下げる。もちろん検討するからといって、必ず前向きの結論が出るわけではない。しかし、ちょっと話をしただけで検討対象に取り上げられるというのは凄いと思う。役所というのは変化を嫌う面が強いと思っていただけに、感動せずにはいられない。
「正直なところ、前向きに検討していただけるとは、あまり期待していませんでした。」
歯に衣着せぬというか、恐れを知らないというか、そんな神坂の発言にも、柳審議官は笑って答える。
「いや、さすがに職員の命に係わることだから見過ごすわけにはいかないよね。それに……。」
「それに?」
柳審議官はちょっとためた後でにやりと笑う。
「聞いているよ、そんな状況でも切り抜けられるように、毎日特訓してるそうじゃないか。そこまでやっている人間の提言となれば、無下にはできないよね。」
「あっ、そんなこともご存じなんですか?」
神坂は秘密を知られたような気がして、思わず顔を赤らめる。
「そりゃあそうだよ。私は執行課については実質最高責任者だからね。全て報告してもらっているよ。」
すると、以前仲村とやり合っていたことや、課長に文句を言いに行ったことなども聞いているのか。そう思うとますます恥ずかしい。
「他には何かあるかね。」
柳審議官はさらに促してくる。どうせ普段の言動も知られているのだから、こうなったら多少不興を買う恐れがあっても、言いたいことは言ってみようという気になる。
「では先日の伊勢原の案件なんですが、執行する時に見た対象者が、どう見ても重病で、凶悪犯罪を実行することなど思いもよらないような状況に見えたんです。むしろ黙って待っていれば自然死するようにも思えました。それなのに、本当に執行する必要があったんでしょうか。」
「うん、でもたまたま病状が重いタイミングにぶつかっただけで、放っておいたら回復して凶行に走ってしまうんじゃないのかな?」
「それは佐久間課長からもお聞きしましたが、あくまで一般論ですよね。」
「それはそうだが、仮にも調査課が強制処分の必要ありと判断して、裁判所もそれを認めたわけだよね。であれば疑う余地はないと思わないかね。」
「はい、それは承知しています。でも何を根拠に強制処分に決定したかは教えていただけないので、わたしとしては納得できません。こんな、無抵抗の人を虐殺するように感じられるようなことをするのは嫌なんです。善良な市民を凶行から守るためには、こうするしか方法がないんだと思うからこそ、自分の命も賭けられるし、強制処分も執行できるんです。」
取りようによっては体制批判とも取れる内容で、直接話せば不興を買ってもおかしくない内容だ。感情論と一蹴されかねない面もある。どういう反応があるか、神坂はどきどきしながら柳審議官の反応を待つ。
「はっはっは。」
柳執行官が高らかに笑う。神坂は言い過ぎて不興を買ったかとびくっとするが、そういうわけでもないようだ。
「うん、こんなことをいつも言われているんじゃあ、佐久間君が愚痴るわけだな。しかし、固い信念と強い意志を持って執行するのは大事なことだ。われわれはただの殺し屋じゃないからね。」
「はい。」
「もちろん調査課では色々な調査を行った上で強制処分を決定しているんだけれどね、決定的に重要な要素が一つある。」
「はい。」
「それは金だよ。」
「はい? お金……、ですか?」
「そう、金なんだよ。つまり、損害賠償金の弁済をしない人間が強制処分の対象になるんだよ。未払いの損害賠償金を国民の血税で補填するわけにはいかないだろう。強制処分を執行すれば保険金で補填できるからね。」
「それって、保険契約上まずいんじゃあ……。」
「いや、それも込みの契約にしているから大丈夫。」
「……。」
「でも、契約上は良くっても、お金のために人を殺してるっていうんですか? お金のために人を殺すんだったら、ただの殺し屋じゃないですか。わたしはそんなことをするためにこの仕事についたわけじゃありません。そんな仕事だったらわたしはやりたくありません。」
余りのことに、神坂は血相を変えて食って掛かる。もう相手が組織の幹部であることなど関係ない。そもそも、やりたくないからとこの仕事を辞めるのだったら、上司の不興を買ったって関係ない。そんな神坂を見て、柳審議官はにこやかだった表情を引き締めて居住まいを正す。
「ああ、ちょっと言い方が悪かったかな。冗談交じりに言うようなことではなかったね。」
「じゃあ、お金が重要な要素だって言うのは冗談だったんですか。」
少し落ち着きを取り戻しつつも、まだ憤懣やるかたないといった風の神坂だが、柳審議官は眼光を強めて続ける。
「いや、未払いの損害賠償金を回収するためというのは冗談だが、お金が重要な要素だというのは事実だ。神坂君は、犯罪者は刑期を終えたら責任を取ったことになると思うかね? 刑期を終えたら十分改心して真人間になったと思うかね?」
「いえ、思いません。そうだったら再犯率がそんなに高くなるはずはありません。」
「そうだね、刑事責任は果たしても、損害賠償金を払い終えていなければ、民事責任は果たしていないからね。つまり損害賠償金を払わないで、なおかつうちが提供している仕事をやろうともしない人間は、損害賠償金を払う意思がない、自分が犯した罪を償う意思がないということだ。」
「はい。」
一時の興奮が醒めてきて、少し冷静になった神坂は神妙に聞いている。
「罪を償う意思がないということは、反省も改心もしていないということだ。つまりそういう人間は再び犯罪に走る危険性が極めて高い。だから損害賠償金の弁済をしていないということは、強制処分の対象者を見付ける上で重要な指標になる。」
なるほどそういう意味だったのかと、神坂も一応納得する。しかし、そう単純なものでもないだろうとも思う。
「お話は分かりますが、弁済していない人が全員再犯に走るとは限らないんじゃないんですか? 仕事が見つからなくて払えないだけかもしれないし、体を壊して働けないということもあるんじゃないんですか。」
「そう、だから重要な要素と言っている。その上で払わない背景を調査して、仕事が見つからない者には仕事を提供している。その結果として、働けない事情があるわけでもないのに働かず、提供した仕事も拒否する人間は、再犯のリスクが高い人間だということになる。」
「でも、でも、それだとリスクが高いだけで、犯罪を実行すると決まったわけじゃあないですよね?」
「そのために調査課がある。そうやって絞り込んだ人間を対象にして詳しく調査を行って、犯罪の兆候を見付けるんだ。兆候が見つかれば令状を請求して、君たちに仕事が回ることになる。」
そうやって順を追って説明してもらえれば、神坂も納得できる。柳審議官も意地悪だ。いきなり金が執行の基準だと言われれば、誰だって驚きもするし、怒りもするだろう。ひょっとしてわざとそう仕向けるような言い方をして、反応を見て楽しんでいるのだろうか。いや、楽しんでいるのではなくて、この先も執行官としてやっていくのにふさわしい人間なのか、将来幹部とするに値する人間なのか、神坂の人間性が試されているのかもしれない。
であるなら、ここまで自分の考えを強く主張してきたのだから、主張すべきことは最後まで主張しなければならない。中途半端が最も良くない。
「ご説明はわかりましたが、調査課の調査や裁判所の判断はどこまで信頼できるんですか? 実際、わたしが見た伊勢原の執行対象者は、単に病気で寝込んでいるというレベルではなく、死相が表れているように感じました。もちろんわたしは医師ではないし、診察したわけでもありませんから印象に過ぎないのは確かですが、少なくとも間近に見た限りでは、調査課の調査をうのみにできないと感じました。」
さあ、柳審議官はどう来るだろう。規則上調査課の調査内容を執行官に伝えることはできないのだから、調査課の調査結果の正しさを具体的に示すことはできないだろう。だが、人の命を奪う以上、一般論、抽象論では納得しないことは伝わっているはずだ。
そんな気迫を持って迫る神坂に、柳審議官は立場の違いを越えて真摯に答えてくれる。
「そうだね、人間のやることである以上、調査課の調査や裁判所の判断にも100%の正確性を保証することはできないね。」
あっと驚く答えだ。基本的に役所というものは誤謬を認めないものだが、この場限りとはいえ誤謬の可能性を認めるとは、柳審議官はそういった官僚の常識にとらわれない、言ってみればかなりの大物なのではないか。その柳審議官は、立ち上がって執務机の所まで行くと、引出しをあけて何かのファイルを取り出してぱらぱらとめくっている。表題のないそのファイルは、どうやらこれまでの執行案件に関する資料のファイルのようだ。そして開いたページを暫し見つめた後、顔を上げて言う。
「そうだね、さすがにこの資料を直接見せてあげることはできないけれど、伊勢原の案件は、調査時点から執行時点までの間に大幅に体調が悪化した可能性も考えられて、若干微妙なものを感じるね。ただ……。」
柳審議官は神坂をひたと見つめながら、一歩前へ出る。
「この制度を運用し始めてから、凶悪犯罪は間違いなく減少している。特に、再犯事案は顕著に減少している。善良な市民を凶悪犯罪から守るという目的に照らして、現在の制度、運用は間違いなく顕著な効果を上げており、正しい。」
確信を持ってそう宣言する柳審議官からは威圧感すら感じる。
しかし、神坂も確信を持って引き金を引くためには、一歩も引くわけにはいかない。
「市民を犯罪被害から守るという目的に適っていることはわかります。でもだからといって、実際には凶悪犯罪を実行しようとしていない人まで強制処分を執行してしまうのは間違っていると思います。幾ら調査で疑わしい事実が出たとしても、決定的な証拠をつかむまでは執行すべきではないと思います。刑事裁判でも疑わしきは被告人の利益に、って言います。」
もちろん柳審議官も簡単には同意してはくれない。
「言わんとすることはわかるし、同意できる部分もあるがね、忘れてはならないのは、我々が執行を躊躇うと善良な市民が取り返しのつかない被害を受けることになるということだ。凶悪犯の命を守って善良な市民の命が奪われる事態は何としても避けなければならない。善良な市民の命と、凶悪犯の命とを天秤に掛けたら、善良な市民の命の方が重いんだよ。」
「おっしゃることはわかります。でも、執行対象者は刑期を終えて出所してきて、まだ何の犯罪も起こしていない状態なんですよ。それを凶悪犯と呼ぶのは違うんじゃないんでしょうか。」
「いや、損害賠償を果たしていない以上、実質まだ刑期を終えていない服役囚と一緒だよ。まだ罪の償いが終わっていないのだから、まだ凶悪犯だ。」
「じゃあ、もし凶悪犯扱いだとしても、凶悪犯にだって人権はあります。死刑の判決が出たわけでもないのに命を奪うことはできないはずです。」
「だから善良な市民を守るための緊急避難的措置なんだよ。善良な市民を守るためになら鬼にも蛇にもなる、それが私たちの仕事だ。」
善良な市民の安全は守られなければならないという基本理念では完全に一致しているのだから、神坂もそろそろ反論の余地が尽きてきた。最早、多少の疑いが残る場合でも目をつぶって強制処分の執行を受け入れるしかないのではないか。でも疑いが残る状態では確信を持って引き金を引けない。あともう少し何かが欲しい。
神坂が考え込むのを見て、柳審議官は少し表情を緩めると、話の方向を少し変える。
「まあそうは言っても、私も現在の制度や運用が最良とは限らないとは思っているんだよ。」
柳審議官の言葉に、神坂は思わず目を見開く。てっきり柳審議官は、自分が中心になって作り上げた現在の制度を断固として守りたいと考えているのだと思っていた。
「それはどういうことですか?」
「いいかい。良いと思って作った制度でも、実際に運用してみたら想定していなかった問題が見つかることもある。それにどんな制度でも、時間の経過とともに現実と合わなくなってくるものだ。だから今の制度も一定の期間が経過したら見直しをかける必要がある。そういうことだよ。」
「じゃあ今の制度に問題があるということではないんですね。」
「いや、神坂君が言うように、凶悪犯だって無暗に殺していいわけじゃない。でも強制処分を執行している中に、本当は放っておいても凶悪犯罪に走らなかった人が絶対に混じっていないとは言いきれない。もちろんもっと慎重に進めている刑事裁判の結果にだって冤罪は混じっているのだから、ゼロにするのは難しいんだけれどね。」
「それはそうですね。」
「それでもそういったものを極力減らすための工夫はできるならした方が良いね。」
「はい。」
さすがに上の人はちゃんとそういったことまで考えているのだと、神坂はある意味安心する。もう少し待っていれば、きっと何らかの改善策を出してくれるのだろう。
「それから仲村君のような殉職者を出さないための工夫はぜひとも必要だね。」
「はい、ぜひお願いします。」
「それに、実際に現場で執行する人たちの精神的負担は重いものがあるだろうと思う。執行官の精神面での健康に対策して、長く続けられるようにする必要もあるし、あるいは、精神の健康を害することを防ぎきれないのなら、一定期間が経過したら担当を外す必要もあるかもしれない。」
「はい。」
「しかし現場のことも、現場で働いている執行官のことも、正直実際に経験していない幹部にはわからない部分が多い。だからいくら机上で検討しても、適切な対策や、効果的な制度変更を起案することは難しい面がある。」
「はい。」
「だから神坂君には実際の現場で見たこと、感じたこと、それに周囲の執行官たちのこと、そういった現場に居なければ得られない知識や経験などを積み重ねて欲しい。そして、本当に現場のためになる、現場に根差した制度や運用の改善策を考えてもらいたい。そのために、将来政策立案を担う立場の神坂君を執行課に配属したんだ。」
これが前に佐久間課長が言っていた、考えながら執行して欲しいということだったのかと、神坂は合点した。つまり、自分が求めていた確信を持って執行するための何かは、自分自身で導き出すことを求められていて、自分自身で作り出すしかないのだ。もっともだと思う面はあるものの、新人の自分にはちょっと重荷だ。
「あの、私だけが考えるんじゃなくて、別に検討は進めていただいているんですよね。」
「いや、神坂君に考えてもらいたい。まあ、普通の制度設計ならともかく、内容が内容なだけに、実務経験のないキャリアに今より良い強制処分についての制度設計は難しいだろうからね。」
そう言い切られると二の句が継げない。言葉に詰まる神坂の肩を、柳審議官はぽんぽんと叩いてにこやかに言う。
「期待しているよ。執行官に適性のある人間は少ないからね、神坂君に職務適性があって本当に良かったよ。」
そうだった、執行官に適性のある人間は少ないから、他の総合職の人間を配属して経験させるというわけにはいかず、たまたま適性のあった自分以外にできる人間はいないのだ。何だかやけに包み隠さず何でも話してくれると思っていたが、要するにこれがあったからその前提となる情報としていろいろ話してくれたのだと気付く。
「その、もしかして、美知留からの話がなくても、いずれわたしはここに呼ばれてこの話をされることになっていたんですか?」
神坂の問いに、柳審議官はにこっと笑みを浮かべて答える。
「いやあ、別にそういうつもりだったわけでもないんだがね。執行現場の知識と経験を積むのに、必ずしもこういう話を前提として聞いておく必要はないからね。それでも意識して務めてもらった方が良いのは確かだから、話す機会をうかがっていたというのはあるよね。だから美知留から話が来たのは渡りに船だったから、こういう機会を設けたわけだ。」
結局、執行課に配属された時からそういう役割を期待されていたということか。そして、審議官から直々に指示されてしまっては、やる以外の選択肢はないのだ。
「はい、わかりました。将来の制度再設計を念頭に置いた情報収集を意識しながら、執行課の職務を務めます。」
「うん、そうしてくれ。」
最初からそのつもりだったのだろう、さも当然といった風で柳審議官はうなずいた。そして一言加える。
「改めて言うが、目的は善良な市民を凶悪犯罪から守ることだ。君たちの働きで凶悪犯罪は著明に減少しているとは言っても、決してなくなることはない。まあ、世に犯罪の種は尽きまじ、といった所か。だから君たちの担う職務は今後も常に重要であり続けることになる。ぜひ、持続的で効果的な制度設計を考えてくれ。」
「はい。」
霞が関を後にして、事務所へ戻る道すがら、神坂の気は重い。ますます重い役割を担わされてしまった。でも考えてみると総合職なんてどこの職場でもみんなそんなものかもしれない。こういう仕事を振られるのはちょっと早くないかと思う一方で、別に完成までの期限を切られているわけじゃないから、結構気楽かもしれないとも思う。いずれにせよ、自分で望んで選んだ仕事だ。その望んだ職に就けた上に、その制度や運用をより良くする役割も担うというのは正に望むところだと言えるだろう。
「頑張らなくっちゃ。」
そろそろこの職に就いて一年になる。無我夢中で過ごしてきた一年間だったが、訓練期間を終えて正式に執行官となる日も近い。まだまだ神坂自身は発展途上ではあるものの、柳審議官の言った通り世に犯罪の種が尽きない以上、神坂が担わなければならない役割もまた尽きない。
再び巡って来る春、次はどんな未来が待ち受けているのだろうか。
おわり
あとがき
ご愛読ありがとうございました。これから、という感じも残しつつ、ここでひとまず幕を閉じることとしたいと思います。連載中、コメントや評価などあまり多くはなかったので、果たして皆さんに楽しんでいただけたのか不安には思いますが、多くの方に楽しんでいただけていたのなら、望外の喜びです。
例によってあまりきっちりと構想を固めずに書き進めてきましたので、何となく二十一話で完結という形になりました。そしてその二十一話、他の各話の倍程度の長さになってしまいました。半分程度で切って二話にする手も考えましたが、あまりうまく真ん中で切れなかったので、そのままにしてしまいました。それやこれやで全体的に完成度は高くありませんが、オリジナル小説としては第一作なので大目に見ていただければと思います。とにかく今回はオリジナル小説を完結させるということを目標にしていましたので。
今の所オリジナル小説の次回作の予定はありませんが、いつか、もっと多くの人に楽しんでいただけるお話が書けたら良いと思いますので、次回作の投稿の際にはまたお付き合いいただけると嬉しく思います。
では改めて、拙い作品にもかかわらずご愛読いただき、真にありがとうございました。




