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第二十話 それでも悩みは尽きない

 神坂は、河上班長に訓練に付き合ってもらったことをきっかけに、その後もたびたび一緒に訓練を重ねることになった。同じ状況を繰り返すだけでは足りないので、いろいろと状況を変えて、回避する訓練を重ねる。立ち上がって向かってきた場合、足元を蹴ってきた場合、手当たり次第に物を投げてきた場合、刃物で切り付けてきた場合、銃を向けてきた場合、部屋の入口の陰に潜んで襲いかかってきた場合、等々、様々なパターンを試してみる。こういう訓練を重ねることで、何が起きても冷静に対処して、職務を確実に執行することに対して、自信が芽生えてくる。正に神坂の目指している『葉隠』の一節、『一生落度なく、家職を仕果すべきなり』を自分のものにできそうだ。これは、神坂に限ったことではないので、今後入ってくる新人たち向けの訓練に取り入れても効果が期待できることだろう。


 そして今日も訓練が始まる。どうやら班長というのはそんなに事務仕事が多くはないようで、滅多に断られることはない。まあ、河上班長が自分に合わせて、仕事をやりくりしてくれているのかもしれないが。

「河上班長、今日もよろしくお願いします。」

「ああ、わかった。今日はどんなパターンで行くか?」

 気さくに応じてくれるのはありがたいが、やっているうちに興が乗って来たのか、河上班長の攻撃がどんどん厳しさを増してきているのが恐ろしい。

「はい、今日はオーソドックスに、部屋に座っていたところからとびかかってくるパターンで。」

「そうか、この前の物陰から襲いかかるパターンでなくていいのか? 対処できていなかっただろう。」

「やめてください。あれ本当に心臓が止まるかと思ったんですよ。続けてやったらトラウマになりそうです。」

「そうか。」

 河上班長は相変わらず必要最小限程度のことしか言わないが、心なしか表情が柔らかくなってきた気がする。訓練の相手をすることに馴染んできたのか、あるいは、訓練に熱心に取り組む自分のことを認めてくれているのか。


 訓練は、臨場感を高めるために突入訓練に使っていた訓練場を使う。神坂は玄関から踏み込むと、体を壁に沿わせて奥へと進む。突入訓練の時とは違って拳銃は持っていないが、拳銃を持っているように構えて進む。奥の部屋の入口に差し掛かると、前回の訓練のことが頭をよぎる。前回は部屋の入口すぐ脇に河上班長が隠れていて、部屋に踏み込むなり横から飛び掛かられて、本当に仰天した。もちろんなすすべもなくあっさり押さえ込まれた。しかし今日は部屋の真ん中に背中を見せて座っているから、そういうことはない。神坂は確実に執行すると思い定めながら左斜め後ろに立つと、拳銃を握り締めている想定の両手を背中に向ける。


 河上班長は背中でタイミングを計っていたように、構える寸前に振り返りながら神坂の足元に向けて飛び出してくる。これは跳び越えるパターンだ。神坂はぱっと跳び上がって前回り受け身の体勢で河上班長を跳び越える。しかし次の瞬間、河上班長は思い切り床を蹴って今しも跳び越えようとしている神坂に跳び付いてくる。予想外の変化だ。

「しまった!」

 かわすこともままならず、両足をがっちりと抱え込まれた。そのまま体を半回転ひねりながら、床へと押し倒される。どすっと鈍い音を立てて神坂は背中から床に叩きつけられた。受身を取る余裕もなかったので、したたか打ちつけられて息が止まる。動きが止まったその機を逃さず、河上班長が上にのしかかってくる。拳銃を握っている想定の右腕を向ける暇もなく、右腕もがっちりと押さえ込まれた。万事休すだ。河上班長はナイフを握り締めているかのように握った右手を振りかざすと、神坂の胸をめがけてゆっくりと下ろしてくる。殺される! 殺されかけたときの恐怖がまざまざとよみがえってきたその時、とん、と河上班長の右手が胸に落ちた。全身を戦慄が走る。刺された! 何度も思い描いた、刺されるその瞬間のイメージが全身に広がる。切り裂かれた心臓から溢れた鮮血が気道に溢れて呼吸が詰まる。目の前が暗くなる。意識が遠のく。私は死ぬんだ。寒い……。


「おい、どうした。」

 河上班長の声で神坂は我に返る。

「どうかしたのか、顔色が真っ白だぞ。」

 刺されたと感じた瞬間、繰り返し思い描いてきた自分が殺されるイメージが蘇ってきて、体が勝手に反応してショック状態に陥ったようだ。下手をしたらそのまま本当に死んでいたかもしれないと感じるほど激しい反応だった。だが、そんなことでは死ねない。死なないために常住死身を実践してきたのだ。

「大丈夫です。これくらい慣れていますから。」

 平静を装ってそう答えてみても、声がかすれているのを感じる。まだ体が戻ってきていない。常住死身の境地にはまだ隔たりがある。

「あまり無理はするなよ。繰り返すと深刻なストレス障害になるかもしれんぞ。」

「はい、でも乗り越えなきゃなりません。」

 何が起きても冷静に対処できる所まで行くには、こんなことで動けなくなっていてはいけないのだ。だから更なる鍛錬が必要だ。もっとも、今回の様に胸に刃物を突き立てられるところまで行ってしまったら、ショック状態に陥らなかったとしてもどのみち逃れることはできない。その手前で逃れるすべを身に付けなければならないのだ。


 そんな訓練を重ねるうち、次の任務が巡ってくる。

「今回の執行対象者は中川弘隆、79歳、男だ。」

「えっ? 79歳ですか?」

 そんな高齢にもなって凶悪犯罪を計画しているとは、なんという人だろうと思う。人は歳を取ると丸くなるのではないのだろうか。正直、神坂の感覚では、その歳でなお凶悪犯罪に走る人間がいるということはちょっと信じられない。

「現場は神奈川県の伊勢原市だ。5階建ての鉄筋コンクリートのアパートの5階だ。」

「はい、わかりました。」

 老い先も短い対象者に強制処分を執行するのはあまりいい気持ちがしない。自然に老衰で亡くなるのを待っていられればいいのにと思う。もうとっくに年金の出る歳なのだから、余計なことで人の手を煩わせないで、大人しく暮らしていてくれれば良いのに。


 現場があるのは郊外の住宅地だ。大規模に開発された住宅地に一戸建ての住宅が並んでいる。比較的新しい住宅が多く、明るい雰囲気だ。都心からは距離があるので通勤に少し時間がかかるが、それなりの広さの一戸建てが比較的手ごろな価格で手に入るので、人気があるのだろう。そんな地区に隣接して、もう少し古い時期に開発された集合住宅が建っている。渋いというよりは古さが印象に残る、はっきり言えばみすぼらしい築50年にもなろうかという鉄筋コンクリートのアパートだ。それが今日の現場だ。それだけ古いと5階建てでもエレベーターなどは付いていない。神坂は階段を上って、執行対象者のいる5階まで進む。5階ともなると、執行対象者は窓から外に飛び出して逃げるということはできない。出入り口は正面玄関しかないので、正面を押さえてしまえば逃げ道はない。確実に執行できそうだ。


 神坂は入口のドアの脇で拳銃を構え、突入のタイミングを計る。執行対象者はどう出てくるだろう。これまでに繰り返してきた訓練の、さまざまなパターンを思い返す。まだ全てのパターンで確実に執行できる自信があるわけではない。ひょっとすると返り討ちにあうかもしれない。そう思うと緊張の余り気道が狭窄して、吸い込んだ息がひゅっと小さな音を立てる。

「行くぞ。」

 河上班長が小さく声をかけると、ドアをさっと開いた。いよいよ突入だ。


 神坂は素早く玄関に踏み込むと、警戒しつつ奥へと進んで行く。心臓が激しく打っているのを感じる。訓練の成果で無事に執行できるのか。それとも考えが及ばなかったところを突かれて命を落とすのか。訓練の成果が問われる瞬間だ。部屋に踏み込む。一瞬、物陰から飛び掛かられて、突き倒されて押さえ込まれる姿が脳裏をよぎった。


 部屋に踏み込むと同時に、拳銃を構える。部屋の中は片付けが行き届いていない、雑然と物が散らかっている状態だ。その真ん中に布団が敷かれていて、執行対象者はその布団の中にいた。踏み込んだ物音に反応して、執行対象者が頭だけ動かしてこちらに顔を向ける。その顔色は土気色で生気が感じられない。ぼんやりと開いた目には光がなく、まるで死んだ魚の目のようだ。一見すると病の床にあって、それもかなり深刻な病状にあると見えて、侵入者を返り討ちにすることなど思いもよらないようだ。異様な緊張感をもって突入してきた神坂は、肩透かしを食ったようでちょっと拍子抜けだ。この様子では凶悪犯罪に走ることなど思いもよらず、それどころか強制処分を執行しなくても、遠からず自然死を迎えそうにも思える。強制処分の執行が躊躇われるところだが、この場の印象で勝手な判断をしてはいけないことは十分承知している。

「強制処分を執行します。」

 神坂は引き金を引いた。



「河上班長。」

「何だ。」

「今日の執行対象者なんですけど……。」

「ああ、訓練の成果が出せなくて拍子抜けだったな。」

「はい、いえそうじゃなくて、班長も見ましたよね? ずいぶん重い病気だったように見えました。強制処分を執行する必要があったんでしょうか?」

 執行はしたものの疑問を引きずる神坂だったが、河上班長の答えは至ってシンプルだ。

「令状が出たんだ。執行する以外の選択肢はあるまい。執行しなければ職務放棄だ。」

「それはそうなんですけれど……。」

 このあたりの割り切りははっきりしている。それが河上班長の優れているところでもあり、神坂が不満を感じるところでもある。


 河上班長では期待する答えが得られないので、ここは佐久間課長に尋ねてみるしかない。神坂は佐久間課長に聞いてみる。

「……そんなわけで、今回の執行対象者については、今急いで執行する必要はなかったんじゃないかと思うのですが、執行を決める際にはそういった事情は考慮されないのでしょうか。」

 神坂の問いに、佐久間課長は今回も切り捨てたり、決めつけたりせず、丁寧に対応してくれる。

「それで、神坂さんはどうすれば良かったと思っているんですか?」

「はい、少なくとも病状が重い内は凶悪犯罪に走る恐れもないと思いますから、しばらく様子を見たら良かったんじゃないでしょうか。執行するのは、病状が回復して、それでもなお犯意を持ち続けていることを確認してからで良かったんじゃないでしょうか。」

 言外に、回復しないでそのまま病死すれば、あえて執行しないで済んだんじゃないかという思いがこもる。

「うん、気持ちはわかりますけれどね、いくら調査をしているといっても、担当医でもないのに病状の変化をリアルタイムで把握するのは難しいですよね。そうすると回復したのに気付くのが遅れて、執行する前に犯罪を実行されてしまうというリスクが残ります。そのリスクと、計画している犯罪内容や切迫度を考慮すると、病状を考慮して執行を遅らせるより、優先して執行すべきという結論になったものと思います。」


 佐久間課長の説明を聞けば、それももっともだと思う。だが、佐久間課長の説明は所詮一般論だ。現実に執行対象者を見た神坂のような臨場感がない。

「でも課長、課長も調査課の持つ情報や、何を根拠に執行対象者を選んだのかなどの、具体的な情報は持っていないんですよね。」

「そうですね、課長といえども情報提供はされない決まりです。」

「だったら今いただいた説明も一般論でしかないということですよね。」

「そうですね。でも神坂さんが問題にしているのは一見した印象だけで、判断の根拠になるようなそれ以上の確かな情報はないんですよね。」

「それはそうですけれど……。」

 佐久間課長の指摘はもっともで、あくまでちょっと見の印象の域を出ない。だが、直接その場で見て、感じた者だけが持つリアリティがあるので、その印象を捨て去ることはできない。それに、やっていることがやっていることであるだけに、それだけではないものがある。

「でも、多くの市民の生命や生活を守るために、私は自分の命の危険があることも承知の上でこの仕事をやっているんです。それなのに、逃げることも反撃することもできない状態の執行対象者を、まるで無抵抗の人を虐殺するかのように処分するのにはどうしても抵抗があります。だからそこを納得できる何かが欲しいんです。」


 神坂の訴えに、さしもの佐久間課長も考え込む。そしておもむろに口を開くが、原則論や一般論とはいえこれまでは明快だった説明が、歯切れが悪くなっている。

「うん、まあ、気持ちはわかるけれどね……。河上班長だったら令状が出ているのだから抵抗があってもやれと言うんだろうね。そうは言っても執行はしているんだから職務上の問題はないんだしね。うーん、でも今回だけ特例で情報を取ってくるというわけにもいかないしね……。」

「はい、それはわかっています。」

 わかっていても納得できないから厄介なのだ。死ぬ覚悟は大分できてきたが、それでも悩みは尽きない。


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