幕間
もし死んだ人が誰の記憶にも残らずどの記録にも残らなかったとしたら、その人は生きていた、存在したといえるだろうか。
それは否。その存在は否定され、最初からいなかったことと同義だ。
人の存在の軌跡は死してなお続く。死が終着点ではない。生者に受け継がれ世界に刻み続けるのだ。俺は、私はここにいた、生きていたと。
いうなれば、軌跡とは世界の記憶であり、記録だ。
善人悪人老若男女貴賎を問わず、世界は記憶し、記録し続ける。何をしたか、どれだけ生きたか、有益か何一つ関係ない、ただ無情に、無機質に。
例えるなら、人がペンで、世界が紙だ。ペンは自分の軌跡を紙に書き連ね、紙はただそれを受け入れる。
それは神のシステムといえるだろう。故にそれは人が操作することはかなわない。軌跡を消すこともその逆も。
故にそれは異常。意図的であろうが、そうでなかろうがそんなものは関係ない。神のシステムに干渉したことそれは本来であったならありえない。
この世界に確かにいた者が誰の記憶にも残らず消えてしまうなんてことはありえないのだ。規模の大小関係なくこれは世界改変だ。そんなことできる人間などいないし、いてはいけない。その力は人を明らかに超えているから。
そうありえないし、ありえてはならない。しかし、それがあったのだから異常なのだ。
それは一人の少女の存在の抹消。死んだのではない。むしろより酷い、世界からその存在を否定されたようなものだから。
少女は越えたのだ、境界線を。その境界線は世界と世界を隔てる壁。
世界同士認識することはできない、行き来などもってのほかだ。
それは水面の先の世界。だれが水面の先に世界など想像しようか。
だからこそ、その世界は誰にも信じられず、夢物語と思われている。
実質行き来できないことを考えるとそれもあながち間違ってはいないだろう。
だから水面の先の世界。
神のシステムに干渉し、世界を渡る。それはもはや人の手では成し遂げられない、魔術ではなく魔法。それほどまでにそれは常軌を逸している。笑い話にもならない。
だからこそこれは笑い話なんてありえない。まるで夢のようでそれは寒気がするほど血の通った現実だ。絶対の真実としてそれは君臨する。間違いではない、勘違いなどありえない。
目をそらすことは叶わない、どうしても見てしてしまうから。
耳をふさぐことは叶わない、どうしても聞こえてしまうから。
思考停止などありえない、どうしても理解してしまうから。
故にこれは万人が万人真実として受け入れるだろう。疑うことすらせずに。
それが少女のひとかけらの真実。無意識とはいえ魔法を使ったという。
魔術師は嫉妬し、魔術師でないものは畏怖と畏敬の念を少女に向けるだろう。
まるでそこは、嵐の、竜巻の中だった。荒れ狂っている。いや荒れ狂っているなんて生ぬるい。うねりにうねる、そこは平衡感覚を即座に奪う。上下左右、落ちているのか上っているのか、それともその場から動いていないのかそれすらわからない。
だが境界は得てしてそのようなものだ。侵入者への洗礼として機能する。
少女は気を失っているが故に、その空間に耐えられた。
うねるような空間は常人には耐えられるものではないだろう。
どれだけの時間少女は流されていたのか、短いのか長いのか、ここでは判断はつかない。
光が見えた。うねりに流され、少女の体はその光に向かって流れていく。
そこはきっと出口であろう。境界の出口であり、世界の入り口。
つまりゴールだ。
少女、クーリアは何をしたか理解することも、認知することもなく世界間を渡った。




