第1章:サイロの中にいたのは、絶滅したはずの相棒とアイヌのシャーマン
北海道別海町。
地平線まで続く広大な大地と、どこまでも高い青空が広がるこの町で、三十五歳の俺――岡田良太は、今日も実家の牧場で汗を流していた。
主な仕事は肉牛の飼育と、とうもろこしをはじめとした野菜類の出荷だ。
専門学校を卒業した後、一念発起して介護福祉士や保育士の資格を取得したまではよかった。だが、生まれつき人間関係が苦手な俺は、どの職場に行っても長続きせず、職を転々とした。
見かねた両親や兄夫婦の勧めもあり、結局はこうして実家に戻り、家業を手伝う形で落ち着いている。
「……はぁ」
牛舎の掃除をしながら、思わずため息が漏れる。
子供の頃から家の手伝いをしていたから、農作業自体はそこまで苦ではない。
実家暮らしなら、お金と食事に贅沢を言わなければ不自由はない。だが、やはりこの絵に描いたような単調な農家の暮らしには、どこか満足しきれない自分がいた。
(少し、刺激に欠けるんだよな……)
それに、いつまでも両親や兄夫婦の家庭に居候しているのも、男として少し肩身が狭い。
自立したい、独立したいという気持ちはある。だけど俺には、人と上手に付き合う才能が決定的に欠けているのだ。
そんな、代わり映えのしない、燻った毎日。
それが、ある日を境にしてガラリと一変することになる。
*
実家の近所――と言っても、ここは北海道なので数キロは離れたお隣さんなのだが――の佐藤家のおばあさんが亡くなった。
おじいさんはとうに亡くなっており、お子さんたちはとっくに離農して札幌へ出てしまっている。今の北海道の酪農地帯では、ごく普通の、ありふれた寂しい光景だった。
農協での葬儀がしめやかに営まれた後、俺は両親や農協の職員、そして佐藤家のご遺族から、ある頼み事をされた。誰もいなくなった佐藤家の、遺品整理の手伝いだ。
「日当が出るなら、喜んで!」
下心丸出しで軽トラを走らせた俺は、一日がかりで佐藤家の遺品整理に臨み、夕方にはなんとか全ての作業を終えた。
予定通り日当の封筒を受け取り、ホクホクした気分で軽トラの運転席に乗り込む。あとは実家を目指して帰るだけ。そう思って、何気なくフロントガラス越しに、佐藤家のシンボルである古いコンクリート製のサイロを見上げた。
「……ん?」
目を細める。夕暮れの光の向こう、サイロの影に、明らかに何かがいる気配がした。
他の人たちはもう全員、車に乗って帰っていったはずだ。ご遺族も農協の人間もいない。
「誰かいるのか……?」
不審者か、あるいは泥棒か。
いや、ただの好奇心だったかもしれない。俺は軽トラを降り、サイロへと近づいていった。
「おーい! 誰かいるかー?」
声を張り上げて叫んだが、返事はない。
静寂の中に、風の音だけが響く。
「なんだ、気のせいか……」
俺は首を振り、踵を返そうとした。
その瞬間、背中にピリッとした強烈な気配を感じて、勢いよく振り向いた。
サイロの暗がりの隙間から、一人の若い女性がすうっと立っていた。
「え……?」
俺は言葉を失った。
肩まで伸びた艶やかな黒髪。身にまとっているのは、現代の服ではない。幾何学的な刺繍が施された、アイヌの伝統的な民族衣装だ。頭にはお揃いの帽子をかぶり、胸元には立派な首飾りが鈍く光っている。
そして何より目を引いたのは、彼女の口元や手の甲に施された、青黒い伝統的な刺青だった。
「ここは……アイヌコタン(集落)ではないぞ……?」
困惑する俺を、彼女は二重瞼の大きな瞳でじっと見つめ、鈴を転がすような声で言った。
「佐藤様もお亡くなりになり、今後、私を養って頂けると嬉しいのですが」
「は……? 何を言ってるんだ?」
初対面の男に向かって、開口一番「養ってくれ」だと?
たしかに俺は独身だし、彼女は息を呑むほどの美少女だけど、俺だって実家の牧場にしがみついている居候みたいな身分だ。他人を養う余裕なんてこれっぽっちもない。
「私はアイヌの、先祖代々続く伝統的なシャーマン。現代の言葉で言えば、占い師や祈祷師みたいな者です」
俺は呆然とした。開いた口が塞がらない。
さっきから、この女は一体何を言っているんだ?
「悪いけど、他をあたってくれ!」
関わったらヤバいタイプだと直感が告げていた。霊感商法か、あるいはたちの悪い宗教の勧誘か。俺は逃げるように軽トラの運転席に乗り込み、バタンとドアを閉めた。
だが、彼女はいつの間にか運転席の窓の外に立っていた。
「幸せ? 宗教の勧誘か何かか?」
俺はため息をついて、キーを回して軽トラのエンジンをかけた。ブルンとディーゼル音が響く。
「私には見えます。私には、あなたの幸せを導くことができます。……あなたは、ご先祖様のご供養はされていませんね?」
ギクリとした。たしかに俺は、実家の仏壇に手を合わせることも、墓参りに行くこともマメな方ではない。図星を突かれて、俺はムキになって言い返した。
「霊感商法じゃねーか! 今時そんな詐欺まがいのことやってると、警察に捕まるぞ!」
強く言い放った。だが、窓の向こうの彼女の瞳は、怒る風でもなく、ただただ深い慈愛に満ちているように見えた。その真っ直ぐな視線に、俺のほうが毒気を抜かれてしまう。
(……まあ、どうせ俺は暇だしな。それに、女性にはほぼ無縁の人生を歩んできた。普段、女の話し相手なんて一人もいないし……)
寂しい男の悲しい性というやつだろうか。少しだけ、本当に少しだけ、下心が頭をもたげた。
「……チッ、仕方ないな。助手席に乗りなよ。送っていくから」
俺が助手席のロックを解除すると、彼女は「失礼します」と丁寧に頭を下げて乗り込んできた。
ドアが閉まると、狭い車内に微かな、植物のような優しい女性の匂いが漂う。急に若い女と至近距離になったことで、俺の心臓は一気にバクバクと暴れ出し、手のひらに嫌な汗がにじみ始めた。
「あの、お名前は……」
俺が緊張混じりに尋ねようとした、その時だ。
助手席の彼女が、開いた窓からサイロに向かって、凛とした声で叫んだ。
「荷台に乗りなさい!」
――ガルルルルル。
サイロの奥から、地響きのような唸り声が聞こえた。
次の瞬間、暗闇から飛び出してきたのは、信じられないほど巨大な四足歩行の影だった。並の大型犬を二回りほど上回る巨体が、軽トラの荷台にドサリと飛び乗る。バックミラー越しにそれを見た俺は、思わずシートから飛び上がりそうになった。
「って、オオカミじゃねーか!!」
鋭い牙に、灰色の美しい毛並み。どう見ても犬じゃない。
「正確には、エゾオオカミです。アイヌの信仰の対象――ホロケウカムイですよ。名前はウルフと言います」
「って、そのまんまじゃねーか!」
あまりの直球なネーミングに、緊張も吹き飛んでツッコミを入れてしまった。
ウルフと呼ばれたその巨獣は、俺のツッコミを無視して、荷台で我が物顔でゴロリと横たわっている。
「いや、待て待て! エゾオオカミって、明治時代に絶滅したはずだろ!?」
「いいえ、きちんと生きています」
彼女は静かに微笑み、自分の胸元に手を当てた。
「私は生命を殺めることは出来ませんが、失われたものに生命を吹き込むことはできるのです。今の時代にも、しっかりアイヌの信仰や伝統は存続していますよ」
バックミラーに映る、悠然とした本物のエゾオオカミの姿。そして、隣に座る謎の美女。
現実離れした光景を前に、俺の脳内にあった「詐欺」や「疑い」の二文字が、夕暮れの霧のように少しずつ、だけど確実に溶けていくのを感じていた。
「はじめまして。私はリムといいます」
女――リムは、座席の上で改めて丁寧に頭を下げた。
よく見ると、夕日に照らされた彼女の肌は透き通るように白く、だからこそ、口元や手の甲の刺青がいっそう鮮やかに目立っている。
「アイヌの信仰心を忘れずにいてくださる、親切な方々のお宅でお世話になってきました。……次は、あなたにお世話になりますね」
にこりと、無邪気にリムが笑う。
「え? いきなり俺の家に来るのか? いきなり同居かよ!?」
心臓がまた大きく跳ねる。
まあ……俺は独身だし、部屋も余ってるから、別にいいんだけどさ。
こうして、三十五歳ニート一歩手前の俺の軽トラは、アイヌの美少女シャーマンと、絶滅したはずの巨大オオカミを乗せて、実家の牧場へと走り出したのだった。
(第1章・終わり)




