第8話 素質
今日も務めは回ってこない。
することもなく、せめてと思い、リサを伴って書庫を訪れる。
読み書きを学び始めて間もない彼女が、
少しでも記号や音を覚えられれば――
それだけで無駄ではない。
道すがら、リサが指を軽く組み、
少し弾んだ声で囁いた。
「あの、新人の子たち……最近は掃除もきちんと
やってくれるようになったんです」
頬をほのかに染め、誇らしげに口元を綻ばせる。
「それに……皆、顔つきが変わりました。
怯えるより、考えて動くようになってます。
……セレナ様のおかげです」
セレナは足を止め、リサへ向き直った。
「……それなら、よかったわ」
リサは肩をすくめるようにして照れ、
足取りを少しだけ軽くした。
そして再び二人は並んで、歩きだす。
重い木扉を押し開けると、
ひんやりとした空気と、日干し粘土の匂いが迎えた。
棚の影に人影――宰相ラシード。
まだ老け込む年でもないのに、
その陰った表情と肩の重さは、老書官のように見えた。
「ごきげんよう、ラシード様」
声をかけると、彼は羊皮紙から顔を上げた。
「……これは、姫様」
「今日はずいぶんお疲れのご様子ですね」
「まぁ、そうですな」
ラシードは口元をわずかに緩めたが、
その目には明らかな倦みが刻まれていた。
「……何かお困り事でも?」
「困りごと、ですか……」
言葉を探すように一瞬目をさまよわせ、
肩をすくめる。
「宰相という立場になりますと、
日々が困りごとの積み重ねでしてな」
苦笑を浮かべつつ、額を押さえる。
――ほんの一瞬、
セレナを一瞥してから、ラシードは粘土板を手に取った。
「では――
分かりやすいところから申しましょうか」
粘土板を机に置き、指先でとん、と叩く。
「まずは南門の検問所ですな。
馬一頭で税が幾ら、人が幾ら……
と昔から決まっておりますが、
最近は納得しない商人が増えてきましてな」
ラシードは机に手を置いた。
「“馬より高い人間がいるか”などと、
面と向かって申してくる」
そう、この時代の検問所は、かなりずさんであった。
リサがぽかんと目を瞬かせる。
「えっ……そうなんですか?」
セレナは小さく息を漏らした。
「……よく今まで揉めませんでしたね」
「笑い事ではありませんぞ」
ラシードの声に苦味がにじんだ。
「さらに、戦場への配給と市中への配給の割合も
揉めておる。兵糧を増やせば商人は怒り、
街に回せば軍が足りぬと騒ぐ」
「なるほど……」
ふと、前世で読んだ小説が頭をよぎる。
もしかして……
この時代にも使える策では……?
セレナは指先で机の端を軽く叩き、
ほんの少し考えてから口を開いた。
「あの……根本を変えてみてはいかがですか。
豊作な国との間で、一定額・一定量での
継続的な輸入契約を結ぶのです。
そうすれば価格も安定しますし、
配分の争いも減ります」
リサが感嘆し、セレナに慌てて会釈する。
「……ほう、前向きな案だが、
相手国が戦に巻き込まれたらどうしますかな?」
「その時のために、相手国は二つ以上にします。
一方がだめになっても、もう一方から入るように」
ラシードは粘土板へ目を落としながら、
低く唸った。
「理屈は通るが……外交も輸送も手間がかかる。
費用対効果は慎重に見ねばならぬな」
「う……」
リサは唇をきゅっと噛み、
指先で衣の端を握りしめる。
それでも、何か他にないか。
諦めきれない思いが残る。
――修学旅行の光景を思い出す。
先生が海外で必死にタバコの本数を数えていた。
扇を抱え、セレナは別の案を口にする。
「……検問所の件ですが、
どうして量や品で価格を決めないのですか?」
ラシードは眉をひそめた。
「昔から、人は幾ら、馬は幾らと定められております。それを変えるとなると……」
「それを、人・馬・荷車……と分けて一律料金にして
しまえば、入り口での口論も減るのでは?
まるで通行札のように、
決まった額を払うだけにすればいいのです。
あと、人と馬は入り口も分けてしまえば、
混雑や順番争いも減ります」
ETCみたいに……。
リサが、ぱっと顔を上げ、主を見つめた。
宰相は机に肘をつき、鼻を鳴らした。
「ふむ……門を増やす工事費が要りますな」
「でも、日々の揉め事と徴収の手間は減ります」
ラシードはしばし考え、鼻先をかすかに緩めた。
「……まあ、検問所だけならお試しでやってみても
よいかもしれませんな」
ラシードは筆を走らせた。
「少なくとも、商人どもが
“馬より高い人間”論争を続けるよりは有益だ」
「……採用、ですか」
思わず顔が緩む。
セレナの内側で、何かが弾んだ。
リサは「さすがセレナ様……」と口の中で呟いた。
ラシードは粘土板を棚に戻し、肩をわずかに回した。
「……姫様、妙案ではありますが、
なぜそんな発想が出てくるのですかな」
セレナは口ごもる。
「ええと……昔、その方法を導入している国の話を、
書物で読んだことがあって……」
ラシードの目がすっと細まる。
灯りに揺れた影が、その横顔をなぞった。
「……書物で、ですか」
穏やかな笑みを浮かべたまま、
灰色の瞳は鋭くセレナを探っていた。
「異国の書物か、あるいは学者に学ばれたか。
……それとも」
指先で机を軽く叩いた。
「ただの“姫”の発想にしては、
あまりに実務的すぎる」
リサがごくりと唾を飲み、
固唾をのんで主を見つめた。
ラシードの眼差しを受け止めながら、
セレナはふっと微笑んだ。
「それは……つまり、
私に素質があるってことですか?」
声にはほんのり嬉しさがにじんだ。
ラシードはその反応をじっと観察し、
わずかに口角を持ち上げた。
「素質……そう言えなくもありませんな。
ですが、姫様――」
彼は机に手を置き、声を落とす。
「素質とは磨かねば錆びるもの。
光る石も、削らねばただの石ころに過ぎませんぞ」
セレナは思わず、扇を握る手に力を込めた。
「……ですが姫様。石ころで終わるか、
宝石に磨かれるかを決めるのは、いつだって
“持ち主”ではなく“石”自身ですぞ」
「……私自身、ですか?」
その横で、
リサがそっとセレナを見上げた。
セレナの瞳に、宰相の眼差しがまっすぐ射し込む。
「もしご自身を錆びさせたくないのであれば――
人の与える務めを待つのではなく、
自ら務めを作り出すことです」
セレナは目を瞬いた。
「……まあ、そういうことですな。
受け身であればただの石。
けれど自ら磨く意思を持つなら、
宝石にだって変わり得る」
その声音は穏やかだが、
どこか試すような重みがあった。
刺さっていた棘が、小さな灯へ変わる。
セレナは深く一礼した。
「ご助言……ありがとうございます」
その言葉を受け、室内にひと呼吸分の静寂が落ちた。
ラシードはゆっくりと椅子に身を預け直す。
「さて……せっかくですし、
もうひとつ、お耳に入れておきましょう」
リサがこくりと喉を鳴らし、背筋を伸ばす。
「殿下には、すでに心を寄せるお方がいる。
武官にして、正妃候補の列には加えられぬ――
しかし、殿下の寵愛を一身に受ける方です」
リサの瞳が大きく揺れた。
セレナの内側にも、ざわりとしたものが走る。
「正妃とは形式。
殿下の心は、すでに別にある。
――その現実を前にして、
姫様は何をなさるおつもりですかな?」
セレナは小さく息を吐いた。
「……特に、何も。
殿下の幸せを邪魔するつもりはありません。
私はただ、自分の居場所を探すまでです」
ラシードは、ほんのわずかに首を傾げる。
「……なるほど。
殿下の幸せを邪魔しない、と」
その声音は穏やかだが、
どこか値踏みするような間があった。
セレナは続ける。
「それに……
ラシード様も以前おっしゃっていましたでしょう。
殿下は心の結びつきを求めている……
彼女が正妃になるのは、そう遠くないはずです」
ラシードは鼻でふっと息を鳴らした。
「鋭い。
ただし――制度において正妃は、
殿下の心ひとつで決まるものではない」
眼差しが、一瞬だけ冷える。
「武官上がりの彼女を形式に据えるなど、
古老たちが血を吐いて倒れますぞ」
そして、静かに言葉を置いた。
「では姫様にとって――
“正妃”とは、何を指すお立場ですかな」
リサが息を呑む。
「それは……」
セレナは言葉を探し、唇を開きかけて止まった。
自分が正妃候補であるにもかかわらず、
“正妃とは何か”を真剣に考えたことがあっただろうか。
前世の記憶が戻ったと思えば、
後宮入りが決まり、
正妃候補としての作法や礼儀を叩き込まれ、
気づけば入内――。
考える暇など、正直なかった。
それでも、
一国を背負う立場になるかもしれないのに……。
胸の奥が、ちくりと痛む。
セレナは思わず目を伏せ、
扇を握る手に力を込めた。
机上の粘土板に反射した陽の光が、
やけに眩しく映る。
ラシードは、
その様子をしばらく黙って眺めていた。
やがて息を吐き、肩をわずかに揺らす。
「……答えられぬのは、無理もありませんな。
“考える必要のない立場”で、
ここまで来られたのですから」
声音が、わずかに低くなる。
「ですが――正妃候補となった以上、
それはもはや許されぬ理由でもある」
リサがはっとしてセレナを見る。
小さく「セレナ様……」と声が漏れた。
「正妃候補とは、
“選ばれる者”である前に――
“自ら形を示す者”です」
ラシードは机上の羊皮紙に指を軽く走らせる。
「理想像を描けぬままでは、
どれほど血筋があろうと、
どれほど価値ある駒であろうと、
石ころのまま錆びていく」
その言葉は冷静で、容赦がなかった。
「……いずれ必ず問われます。
姫様にとって“正妃とは何か”を」
視線が、まっすぐにセレナを射抜く。
「その時までに答えを持てぬなら――
姫様は、
後宮に立つ理由すら失うことになりましょう」
◆
回廊を歩きながら、
セレナは宰相の言葉を、まだ引きずっていた。
「……正妃、か」
無意識にその言葉を反芻しつつ、
隣を歩くリサへと、ふと視線を向けた。
「ねえ、リサ」
声を落とすと、侍女はぱっと顔を上げる。
「……リサは、どんな人が正妃だったら嬉しい?」
リサは足を止めかけ、ぱちぱちと瞬きをした。
「えっ……わ、私ですか?」
頬をほんのり赤く染め、
慌てて両手を胸の前で組む。
「うーん……そうですね……」
少し考え込んでから、
言葉を選ぶように、ゆっくりと紡いだ。
「怖くない人がいいです。
偉いからって怒鳴ったり、
何もかも命令するんじゃなくて……」
目を伏せ、声を落とす。
「出来ないことがあっても、
“役に立たない”って切り捨てずに、
ちゃんと教えてくださる方。
……そんな正妃様だったら、
みんな安心して仕えられると思います」
照れくさそうに視線を泳がせながら、
そっとセレナを見上げた。
「……あの、セレナ様みたいに」
セレナは目を瞬かせ、
それから、ふっと微笑んだ。
「……ありがとう」
それだけを返し、再び歩き出す。
正妃になれないにしても……
一度、考え直してみよう。
宰相の言葉は、まだ胸に残っている。
けれどそれは、もうただの棘ではなかった。
私も、アウレナの民のうちの一人だもの。
その思いを確かめるように、
セレナは扇を軽く握り直した。
◆
――正妃に。
初めてそれを聞いたのは、夏の陽が強い午後だった。
稽古場で汗を拭っていたとき、背後から声がした。
「……サフィア」
振り返ると、軍装の上着を脱いだアルシオンが立っていた。
「殿下?」
片膝をつこうとした瞬間、彼に制される。
「いや、いい。……座れ」
木陰に並んで腰を下ろす。
青い瞳が、真っすぐに射抜いてくる。
「サフィア。……お前が、正妃ならいいと思っている」
鼓動が大きく鳴った。
「……せ、正妃……?
それは、冗談で……」
「冗談ではない」
はっきりと言い切る。
「母上や重臣たちは政略を望む。
だが俺は――もう二度と、愛のない婚姻はしたくない」
拳を握る。
「お前なら違う。
戦場でも日常でも、隣に立ってきた。
その強さと真心を、俺は信じている」
「……でも、私はただの武官です。
血筋も、作法も、教養も……」
「学べばよい」
間髪入れずに返る声。
「大事なのは、俺が共に歩みたいと願うことだ」
視線を逸らさず、静かに続ける。
「サフィア……お前を、正妃にしたい」
熱を帯び、言葉が詰まる。
「……殿下……それは……」
彼はその手を取り、強く握った。
「答えはすぐでなくていい。
ただ知っていてくれ――
俺の望みは、お前と共にあることだ」
――その日交わされた言葉の熱は、
今もなお、胸の奥に消えずに残っている。
アルシオンは立ち止まり、彼女を振り返った。
「……サフィア。
俺の気持ちは変わらない。
お前が、正妃であってほしい」
内側で、またざわめきが走る。
以前なら、首を振っていたかもしれない。
だが今は、視線を逸らさずに見返した。
「……殿下。
私は武官で、作法も教養も、まだまだです」
一度だけ小さく息を吐き、
言葉を選ぶように続ける。
「正妃に相応しいかどうかは……正直、分かりません。
でも……」
指先に力を込め、はっきりと言った。
「殿下が本気でそれを望まれるのなら、
私は逃げません。
逃げずに、学びます」
アルシオンの眉が緩み、
青い瞳に安堵の光が宿る。
「……それで十分だ。
お前はもう、俺にとって誰よりも相応しい」
握られた手が、鼓動と重なる。
サフィアはその温もりを受け止めながら、
微笑んだ。
「殿下……でしたら、
どうか私を導いてください」




