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【完結】転生姫はお飾り正妃候補。愛されないので自力で幸せ掴みます  作者: 福嶋莉佳
一章

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9/51

第9話 痕

アルシオン王太子の正妃――

それは、次期王妃を意味する。


他にも王子はいるけれど、殿下が抜きん出て優れている。


飢饉の折には倉を開き、民を救ったと聞く。

隣国の侵略では、名将を相手にしながら前線で退けたと噂されている。


その経歴は国を越えて轟き、

まるで太陽のように照らし導く人――。


そんな方の正妃候補だと告げられたとき、

私でいいのだろうかと怯みながらも、ときめいていた。


……では、王妃にふさわしいのは、どんな人だろう。


サフィア。

あの武官が、迷いなく殿下の隣に立つ姿を思い浮かべる。


孤独な王にも、

真っ直ぐに寄り添い続けられる人。

――きっと、彼女だ。


けれど――それだけでいいのかな。

小さなざわめきが残り、

問いかけが消えない。



◆



後宮に暮らし始めて、しばらく経つ。

妃候補たちと馴れ合うことはないけれど、特に

争いごともなく――比較的、穏やかに過ごせている。


「さて……

 今日は本を閉じて、散歩にでも行きますか」


リサを連れて回廊を歩き出す。


最近、リサは少しずつ文字を読めるようになってきた。

山岳地帯の出身だからか、特に植物の本を好んで手にしている。


散歩の途中でも、花や草を見ると立ち止まり、名前や効能を教えてくれる。

私が本で読んでもいまいち実感が湧かないことも、

リサから聞くと不思議と頭にすっと入ってくる。


ちらりと横に立つリサを見やり、自然に口元がほころぶ。


リサも気づいたのか、小さく笑い返してきた。


その時――


回廊の角を曲がった先に、壁際を伝うように歩く侍女の姿が目に入った。


足取りが妙におぼつかない。

「……大丈夫?」


セレナが声をかけると、侍女はびくりと肩を揺らし、慌てて振り向いた。

「ひ、姫様……な、なんでもありません」


俯いたままそう言うが、袖口の隙間から、不自然な紫の痕がちらりと覗いた。

「それ……どうしたの」


指先で示すと、侍女は一瞬ためらってから、小さく答えた。


「仕事中に……棚にぶつけて」


「仕事中の怪我なのに、休ませてもらえないの?」


口では穏やかに問いかけつつ、

その痣が、答えを語っていた。


隣にいたリサが、抑えきれない様子で口を開く。

「そんな痣になるまでぶつけるなんて、

おかしいですよ!」


侍女は顔を伏せ、消えるような声で

「本当に……なんでもないんです」と繰り返す。


「……女官長には報告したの?」


「……いえ、その……」


言葉を濁すと、侍女は一礼して、足早に立ち去ってしまった。


「あれは絶対誰かにやられたんですよ!」

リサが声を潜めながらも、憤りを隠せない様子で言う。


「侍女に暴行するなんて……誰が、こんなことを」


足を止めてリサを振り返る。

「……女官長は何をしているのかしら」


「きっと、見て見ぬふりですよ」

リサは唇を噛み、声をさらに落とす。

「あの方、ザリーナ王妃の派閥ですから」


「ザリーナ王妃の?」セレナは眉を顰める。


「派閥がどうであれ、怪我人を放置するのは駄目で

しょう」


リサは「そうですね」と頷きながらも、不安げに目を逸らした。


セレナは扇を抱き寄せる。

「――放ってはおけないわ」


「でも、セレナ様が動いたら……」


「大丈夫。私一人の問題じゃないし、これは

後宮全体の問題よ」


セレナは踵を返し、女官長の執務室がある棟へと

向かい始めた。


疑問と怒りを抱いたまま、歩調を緩めることなく進む。


リサが慌てて後を追いながら、小声で囁いた。

「……セレナ様、顔が怖いです」


「え、そう?」

目だけで返し、歩みは緩めなかった。



◆



女官長マリシェの執務室前に着くと、扉の前で控えていた若い侍女が慌てて姿勢を正した。


「姫様……どういったご用件で?」


「女官長にお話があります」


きっぱりした返答に、侍女は戸惑いながらも中へ声をかける。


「――入りなさい」

低く張った声が返り、扉が静かに開いた。


部屋の奥にある、立派な長机の前に、

マリシェは冷ややかな顔で座していた。


「姫様が、わざわざこちらに?」


「後宮内で怪我をした侍女を見かけました。

把握しておられるのですか?」


マリシェは顔を上げたが、すぐに書類へ戻した。

「怪我は日常茶飯事です。転倒や不注意によるものも多い」


「では、治療や休養は?」


「規則に従い、業務に支障が出ない限りは許可して

おりません」


セレナは、驚きの色をあえて大きく見せた。

「仕事中の怪我なのに、ですか?」


「後宮は大所帯です。一人休めば他が負担を負う。

軽傷であれば従事してもらうのが常です」


侍女の怯えた姿が脳裏に浮かぶ。あれが軽いはずがない。


「それは改めるべきです。あの様子では再発も――」


「姫様」

机越しに、ぴしゃりと落ちる声。


女官長の眉がわずかに動き、その瞳の奥に冷えた刃が光った。

「後宮の運営は私の職務です。お気持ちはありがたい。ですが……まずはご自分のお立場を」


背後でリサが身を縮める。


セレナはその冷たい視線を正面から受け止めても、一歩も退かなかった。

「……では、私が直接確認します」


「それは――」


「女官長、これは職責を怠っているも同然です。

その責は逃れませんよ」


張り詰めた空気が、

乾いた石に細かな亀裂が走るように軋んだ。


マリシェの瞳の奥に宿った色は、怒りか、それとも

警戒か――読み取りづらい。


「……お言葉ですが、姫様」


マリシェは目を細めた。


「後宮の采配は私の務めにございます。姫様が口を

挟まれるのは……」


「後宮の秩序を保つのは私たちの務めでも

あります……そうでしょう?」


女官長の唇が硬く結ばれる。


リサのごくりと喉を鳴らす音が、やけに大きく感じられた。



◆



後宮奥の人気のない洗濯場。

水桶に布を沈めていた侍女が、物音に気づき、

肩を跳ねさせた。


セレナはゆっくりと歩み寄り、その前に立つ。

「こんにちは。昼間に会ったわよね」


侍女は視線を彷徨わせ、

「は、はい」と小さく返す。


「腕の痣――あれ、仕事中にぶつけたのよね?

なのに、まだ働いているの? 休まないと」


侍女は小さく身を固くし、返事の代わりに濡れた布を強く握った。

水面が、ぱしゃりと音を立てる。


横でリサが、唇を噛んだ。

「……こんな痣になってるのに、休まないなんておかしいです」


セレナはうなずき、声を落とす。

「勤務中の怪我なのに働かせるなんて……

後宮にとって、許されないことよ」


そっと手を差し伸べる。

「さあ、一緒にいらっしゃい。

後宮監に話を通して、休ませてもらわないと」


侍女は首を振った。

「……お気持ちは嬉しいのですが、

本当に……大丈夫ですから」


リサがすかさず一歩踏み出す。

「無理をすれば、もっと悪くなります。

私も同行しますから」


その言葉に、侍女の瞳が揺れ、

袖口を強く握りしめた。


セレナは、侍女に一歩近づいた。


「さっき、ふらついていたでしょう?

――助けたいだけなの」


侍女は唇を震わせた。

「……本当に、助けてくださるんですか」


「ええ」セレナはためらいなく頷いた。


その言葉に、侍女の肩が震えた。

リサがその背に手を添え立ち上がらせる。


三人は回廊へ進んだ。


セレナは歩きながら問いかける。

「……その腕の傷、どうやってできたの?」


「……本当に、転んだだけです」


セレナは歩みを止め、侍女の前に立った。


「……もし本当に転んだだけなら、

一時的な保護で終わるわ。それでもいい?」


はっきりと言葉を継ぐ。


「でも――違うのなら、私は必ずあなたを守る。

だから、ちゃんと教えて」


沈黙が落ち、石床に靴音だけが響いた。

リサが小さく頷き、侍女を見守る。


やがて、押し殺した声がこぼれた。

「……サーヒ様に……」


セレナの背骨に冷たいものが走った。


サーヒ……正妃候補の一人……!


「……話してくれて、ありがとう」


セレナは侍女の手を取った。


「心配しないで。私が必ず守るから」


三人は足並みを揃えて踏み出した。


セレナは袖口を押さえ、歩調を上げた。

「後宮監に会わないと」


足音を石床に響かせながら、

後宮監の執務棟へと向かった。

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