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転生姫はお飾り正妃候補。愛されないので自力で幸せ掴みます  作者: 福嶋莉佳
三章

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最終話 新陽

セレナの部屋には、灯が静かに揺れていた。

アルシオンの影が長く伸び、扉に背を預けたまま深く息を吐く。


「……ザリーナは、いつも“正しいこと”を言う人だった」


沈んだ声音に、セレナはそっと近づいた。 

ひどく弱った背が、揺れる光に浮かぶ。


「殿下……?」


アルシオンは視線を落としたまま続ける。


「俺を王太子に推したのも、あの人だった。幼い俺を守るように、“この子を”と言って……聖母のようだと皆が言った。俺も……そう信じていた」


その横顔には、深い痛みの影が宿る。


セレナは黙って、寄り添うように立った。


「でも……気付けなかった。あの裏の動きも……“母”の影の部分も」


そっと距離を詰め、セレナは柔らかく囁いた。


「殿下。義母であっても“母”を疑うなんて……誰にでもできます。殿下の弱さではありません。……殿下の優しさです」


その言葉に、アルシオンの肩がわずかに揺れた。


「……そんなことを言ってくれるのは……お前くらいだ」


セレナはふっと微笑む。


「殿下は優しい方です。ただ……少しだけ、鈍感ですけど」


「……鈍感……?」


アルシオンが目を見開く。セレナは少し唇を尖らせて、視線を逸らした。


「覚えてますか? 殿下と初めて会った時……私、殿下に“ときめいていた”んですよ?」


アルシオンの呼吸が止まった。


「……ときめいて……?」


「はい。殿下を目にした瞬間、胸が跳ね上がって……」


言いながらも、どこか切なげに笑う。


「でも殿下は、私のことなんて全然気づいてくれなくて。

 そのままサフィア殿のところへ行ってしまわれて……」


アルシオンの呼吸が止まった。

痛むような表情のまま、一歩で距離を詰める。


「……セレナ」


伸ばされた腕に引き寄せられ、体温が重なる。


「気づけるわけがなかったんだ……あの頃の俺には」


低い声が、苦しげに揺れた。


「お前の気持ちも、笑顔の意味も……

 全部、見ようとさえしていなかった。

 自分が……どれほど盲目だったか、やっと分かった」


抱く腕がわずかに強くなる。


「だから……すまない。

 あの時のお前を、ちゃんと見てやれなかった俺が、悔しい」


灯火が揺れ、影がひとつに重なる。


「いいのです、もう……」


アルシオンの喉が震えた。


「……セレナ……」


セレナは顔を上げ、揺れる灯りの中でそっと囁いた。


「だって……殿下は今、私を見てくださっているから」


アルシオンの瞳が大きく揺れた。

次の瞬間には、そっと額が触れ合った。


吐息が混ざり、触れたところから全身がじん、と熱を帯びる。


「……セレナ」


低く沈んだ声に、セレナの喉が小さく震えた。


「はい、殿下……」


互いの視線が絡み、静寂が落ちる。


そして――


そっと、唇が触れた。


今の気持ちを確かめるような、

甘い――静かで、確かな口づけ。


ふたりの影が灯の揺らぎに重なり、

世界はしばし、二人だけのものになった。


その中でアルシオンは、ほんの微かに唇を離し、名を呼ぶように囁いた。


「……セレナ……もう、離れたくない」


そのまま再び、ふたりはゆっくりと引き寄せられていった。





翌朝の後宮は、妙な熱気に包まれていた。

侍女たちのあいだでは早くも噂が広がり、廊下の端々で小声が弾ける。


「……殿下、昨夜は姫様のお部屋に?」

「ほら見て……あれはもう、正妃さま決まりよね……」


そのざわめきを、レイラは涼しい顔で聞き流していた。


小広間で庭を望みながら扇を揺らし、アシェラとアナヒータを呼び寄せる。


「さて……ついに、ルナワの姫様の時代かしらねぇ?」


レイラの声音に、アシェラが肩をすくめた。


「文官たちが騒いでたわよ。

 “殿下の隣に姫殿下が立っていた”“元老院の顔が柔らかかった”ってね」


アナヒータは書簡を閉じ、静かに微笑む。


「正妃即位は、遅かれ早かれでしょう。

 むしろ……ようやく“後宮の空白”が埋まります」


レイラが目を細めた。


「あなた、本当に現実的よねぇ、アナヒータ様」


「事実を述べているだけですわ。

 それに……姫様が後宮を立て直してくださいましたもの。

 あの方なら、私たちも過ごしやすいでしょう?」


アシェラが扇を軽く鳴らし、ふと思い出したように笑う。


「そういえば……また“婚姻の宴”は開かれるのかしら?」


レイラはぱっと顔を輝かせ、身を寄せる。


「ええ! ぜひもう一度開いてほしいわ」


アシェラも軽く頷く。


「そうね。あれくらい華やかな場なら、私も好きよ」


レイラはじとっと横目を向ける。


「まあ? アシェラ様、“興味ない”とおっしゃっていたのでは?」


アシェラは視線をそらし、扇の縁をなぞった。


「……あれは雰囲気と勢いよ。

 それに、次期正妃殿下の催しなら……興味も湧くでしょう?」


「ほんと、素直じゃないんだから」


レイラは扇で口元を隠し、くすりと笑う。


その横で、アナヒータがそっと声を落とした。


「私は個人的に……“後宮の新たな営み”に期待しています」


「営み?」


レイラとアシェラが同時に首を傾げる。


アナヒータは書簡を開き、セレナが試験導入している“香り付きの石鹸”の試作品を見せた。


「これ、市で評判がとても良いのです。

 外交使節への贈り物にも最適ですし。

 姫様にお願いして、運営を手伝わせていただきたいの」


レイラの目が輝く。


「まあ素敵! 香りの品は広まるのが早いのよ。

 後宮で扱えば、一気に浸透するわ」


アシェラが楽しげに扇を鳴らした。


「さすがアナヒータ様。

 ……でも、本当に面白いのは“正妃になった後”でしょうね?」


レイラが悪戯っぽく囁く。


「後宮をどう束ねるのか。

 殿下とどう歩むのか。

 そして――どんな正妃になられるのか」


三人がふっと微笑み合い、扇が軽やかに揺れる。


「期待しましょう、姫様に。

 わたくしたちを……飽きさせないことを」


小広間の空気は、熱を帯びたまま静かに流れていった。






同じ頃。


文官棟の一室では、静かに茶の香りが立ちのぼっていた。


ラシードは書板を広げ、昨夜から今朝にかけての報告を淡々と整理している。

対面ではナヴァリスが腕を組んだまま、無表情に書類へ目を落としていた。


「……後宮は、完全に落ち着きました。

 王妃派だった侍女たちも含め、動線は安定しています。

 混乱の芽はありません」


ナヴァリスの報告に、ラシードは小さく鼻で笑う。


「“姫様が顔を出した”……それで鎮まった、と」


「ええ。

 王妃派の侍女ほど、姫様の動きをよく見ています。

 ……人心の扱いが、非常にうまい」


いつも通り淡々としているのに、その評価だけは揺らがなかった。


ラシードは筆を置き、静かに息をつく。


「殿下も……ようやく腹を括ったようだな」


「当然でしょう。

 あれほどの働きを見せられては、

 “誰を正妃に据えるべきか”は明白です」


「だが……」


ラシードは椅子に背を預け、天井を仰いだ。


「……王妃陛下の処分は、今日からが本番だ。

 王妃派は、まだ生きている」


ナヴァリスは目を伏せ、低く続ける。


「王妃派が静かに動き始めています。

 ただ――彼らが後宮を揺らすのは難しいでしょう」


「理由は?」


ナヴァリスは一冊の帳簿へ指先を落とし、軽く叩いた。


「後宮の出庫と人の動きを、一本に繋ぎ直しました。

 女官長印のない出庫、代理受領、二重記載――すべて洗い出しています。

 ……もう、裏で回す余地はありません」


ラシードが、ほんのわずかに口元を緩める。


「……規格外だな、あの姫様は」


「褒め言葉と受け取っておきましょう」


ナヴァリスの目が、わずかに細くなる。


「後宮だけではありません。

 検問所と書類の線まで、もう繋いでいる。

 ……姫様は、盤面を見ています」


ラシードは真顔に戻り、筆を取り直した。


「殿下と姫様が並び立つなら……王国は変わる。

 良くも、悪くもな」


「変わりますよ。必ず」


ナヴァリスの声は静かだったが、確かな重みがあった。


ラシードは茶を一口含み、ゆっくりと息を吐く。


「さて……残る課題はひとつだ」


書板を置き、ナヴァリスを見る。


「姫様の《正妃発表》を、いつ行うか」


ナヴァリスは静かに頷いた。


「後宮は安定しています。

 問題は……“王都の空気”ですね」


「そうだ」


ラシードは椅子に背を預け、少しだけ表情を緩める。


「――ここ数日、市が妙に明るい。

 祭事や式典の再開を望む声が増えた」


「疫病が終息した影響でしょう。

 長く沈んでいたぶん……“祝いたい”気持ちが強いのです」


ラシードは指を鳴らした。


「それだ。

 戦は終わっていたのに、疫病で凱旋式が延びた。

 ――今なら、開ける」


ナヴァリスがゆっくりと頷く。


「凱旋の式を再開すれば、王都全体が祝賀に傾きます。

 そこへ正妃発表を重ねれば……民心は、さらに固まる」


「民心が“上向きの時”に知らせるのが一番だからな」


ラシードは書板を軽く叩き、結論を置いた。


「――よし。

 殿下の凱旋式と《正妃発表》を同日に」


ナヴァリスもすっと目を細める。


「これで……民心も、まず揺らがないでしょう」


静かな茶の香りの中で、

二人の間に新しい時代の段取りが、静かに固まっていった。





訓練場の空気は、朝の冷たさを吸い込んで凛としていた。


 カリムは文官から手渡された書板を読み終えると、短く息を吐いた。

 長く続いた疫病が終息し、王都でようやく凱旋式が開かれる――その知らせだった。


「やっと……か」


 書板を脇に抱え、迷わず隊舎へ向かう。

 "この報せをまず伝えるべき相手"など、考えるまでもない。


 扉を開けると、サフィアは一人、磨かれた槍をじっと見つめていた。

 いつもの鋭さをまとっているのに、胸の奥の影だけは隠しきれていない。


「……サフィア」


 声をかけると、彼女は僅かに顔を上げた。


「どうした。妙に急いでいるな」


「凱旋式だ。ようやく正式に決まった」


 サフィアの指先が一瞬止まり、ゆっくり槍から離れる。


「……そうか。ようやく、だな」


 静かな声音の奥で、心がわずかに揺れているのが分かった。


 カリムはしばらく彼女を見つめ、一歩踏み込む。


「……正妃の噂も、聞いたか?」


 サフィアの横顔がぴくりと動いた。


「後宮が騒がしい。侍女たちが……好きに噂していたよ」


 槍を置き、短く息を落とす。


「わかっていたさ。

 殿下が……誰を選ぶかなんて。

 頭では、ずっと前から理解していた」


 サフィアは苦く微笑む。


「けれど……実際に噂として耳に入ると、胸の奥が少し……痛むな」


 カリムが静かに問いかける。


「……悔しい、とは思わないのか」


「悔しくない、と言えば嘘だよ」


 サフィアは正面を見据えたまま続ける。


「でも……あの姫殿下は、私にはない“人を動かす力”を持っている。

 民も、後宮も、国も……あの人を目にすると、自然と動き出す。

 私は殿下の剣にはなれたが……あの人のようにはなれない」


 少し黙り、ぽつりと落とす。


「殿下があの人を選んだのなら……それでいい」


 カリムは小さく笑った。


「……ほんとに、強いな」


「強くなんかない。ただ……ようやく納得しただけだ」


 サフィアは立ち上がり、槍を手に戻す。


「私は、私の戦場に戻るまでだ」


 カリムはその背を見つめ、短く頷いた。


「そうだな。殿下も、それを望んでる」


 サフィアは穏やかに目を細めた。


「……凱旋式。私も正装の準備をしないとな……総指揮官として」




数日間は、砂のように指の間をすり抜けていった。


後宮は静かに、しかし確実に“式典の空気”へと変わっていく。

侍女たちは香炉の火を入れ替え、祝詞の文言を確かめ、廊下を行き交いながら衣裳箱を抱えていた。

文官たちは封蝋のされた書簡を抱え、

式次第と配置表を照らし合わせながら足早に行き交った。


私はというと──

衣裳の合わせに、王都各所から届く献上品の確認、

香り付きの石鹸の仕上げ、式当日の侍女配置の最終確認。

気づけば、夜の帳が落ちる頃まで動き続けていた。


(……こんなに準備が必要だったのね)


胸の奥でふっと笑う。


ナヴァリスは淡々と、

式当日の通路と立ち位置を確認して回り、

ラシードは式典の段取りを何度も確認しに来た。

ふたりの視線は、どこか私を“中心に据える”ようで──

慣れない重さに、肩が少しだけこそばゆい。


そして……殿下。


夕刻、政務の合間を縫って私を訪れ、

短く、けれど熱を滲ませる声で言われた。


「……当日は、必ず俺の隣に」


ただその一言だけで、胸がじんと熱を持つ。

あの夜の余韻がまだ体の奥に残っていて、

思い返すだけで頬がふわりと熱を帯びた。


……まだ殿下の言葉に慣れない……。

落ち着くのよ、私……。


何度そう言い聞かせても、胸は静かに騒ぐ。


そして──ついに当日の朝が来た。


王都は、久しぶりに澄んだ空を抱いていた。

窓の外では、早くも人々が通りに集まりはじめている。

“疫病の終息”と“凱旋式”の両方を祝う声が、薄い朝の光に溶けてゆく。


後宮の廊下には、香を焚く匂いがやわらかく漂い、

侍女たちはそわそわと袖を整え、私の姿を探していた。


「セレナ様、こちらの装束を……」

「髪飾りは王都の職人からの献上品です」

「もうすぐ殿下がお迎えに来られるかと……」


言葉ひとつひとつが胸に重なり、

緊張と期待の境目が分からなくなる。


ど、どうしよう……ちゃんとできるかしら……。


「せ……セレナ様……」

目を潤ませたリサが、そばに立っていた。


「とても素敵でございます……。

 どうか……いつも通りで。

 姫様は、それで十分でございますから」


……いつも通り?


扉の向こうから、足音が近づいてきた。


「セレナ」


名を呼ぶ声だけで、心臓が跳ねる。


振り返ると、殿下が朝の光を背に立っていた。

深い蒼の礼装に身を包み……

まるで、夢に見た“王子様”そのものだった。


「迎えに来た」


その一言が、今日という日の始まりを告げる。


私はそっと息を整え、殿下へ一歩近づいた。


──凱旋式へ。

──そして、正妃発表の場へ。





王都の大広場に、朝の光が満ちていた。


城門から広場へ続く街道には、花弁が途切れなく舞っている。

子どもたちが走り、老いた女が祈るように手を合わせ、男たちは肩を叩き合って笑った。

長く沈んでいた王都が――久しぶりに息を吹き返している。


太鼓が鳴り、城門が大きく開いた。


「……来たな」


戦旗を掲げ、整然と進む兵たち。

その先頭、馬上にサフィアがいた。


白銀の胸当てに北砦の徽章を刻んだ儀礼軍装。

肩から流れる深い色の軍装マントが風に揺れ、

短く結い上げた黒髪が朝の光を受ける。


戦場の緊張をそのまま纏った姿は、ただ真っ直ぐで――

見ているだけで、背筋が伸びた。


「サフィア総指揮官だ!」

「砦を守り抜いた英雄よ!」


歓声が波のように押し寄せ、広場の空気が一段熱を帯びる。


広場外縁の警備線で、カリムは槍を手に立っていた。

近衛副官として配置を確認しながらも、

視線だけは無意識に、馬上のサフィアへと向かってしまう。


軍列が広場中央で止まり、合図が走る。

サフィアは静かに馬を降り、手綱を兵に渡すと、

壇上へ続く階を迷いなく進んだ。


その背に、無数の視線と歓声が降り注ぐ。


最長老が壇上へ進み、杖を鳴らした。


「アウレナの兵よ! その勇に感謝する!」


広場の空気が、ぴんと張りつめる。


「まず――北砦防衛戦における戦功を読み上げる!」


書板が開かれ、重々しい声が響いた。


「サフィア・アルナス総指揮官!」


大広場が、息を呑んだように静まる。


「物資遅延・疫病蔓延という最悪の状況下にありながら、

 部隊の損耗を著しく低く抑え、

 敵の包囲を三度にわたり退けた功!」


「戦死者は最小限、

 撤退者・脱走者も極端に少なく、

 兵の規律と士気を保ち抜いた功!」


民衆がざわめき、やがて大きなどよめきへ変わっていく。


「戦況が崩れかけた北砦を――

 最後の瞬間まで持ちこたえさせた、その働き!」


最長老が、杖を高く掲げた。


「サフィア・アルナス総指揮官に――

 深き栄光を!」


兵たちが一斉に槍を掲げる。

民衆はその名を叫び、拍手と歓声が爆ぜた。

地面が震えるほどの祝福が、広場を包み込む。


サフィアは胸に拳を当て、静かに礼を返した。


その姿を見届け、カリムは誰にも聞こえぬよう息を吐く。


「……よかったな、サフィア」





サフィアの名を讃える歓声が、王都の空にいつまでも残響していた。


その余波が静まりきらぬまま、

大広場の中央――王太子席の前に、重々しい太鼓が三度鳴り響く。


民衆が一斉に息を呑む。


「――続いて、王太子殿下より《御発表》がございます!」


読み上げた文官の声に、空気が張り詰めた。


セレナの胸がきゅっと締まる。

凱旋式の準備で忙殺された数日の記憶が一瞬でよみがえり、

広場のざわめきが遠く感じられた。


……いよいよ、ね。


アルシオンがゆっくりと立ち上がった。

凱旋を祝う蒼い外套が風に揺れ、

民衆の視線が一斉に彼へ吸い寄せられる。


その隣に立つセレナの指先は、わずかに震えていた。

だが、視線を交わしたアルシオンの横顔は揺らがない。


――その瞬間、セレナの震えはすっと消えた。


アルシオンは一歩、前へ進む。


「民よ、聞いてほしい」


声が広場の端まで響き渡る。


「我らが国は、戦と疫病に覆われながらも、

 誰も諦めなかった。

 この国の“力”を示したのは、民であり、兵であり……」


アルシオンの視線が、ゆっくりと横へ動く。


「そして――《後宮の姫》だった」


ざわっ、と空気が揺れた。


「この国に新しい仕組みをもたらし、

 侍女も文官も、そして民を支え、

 混乱の只中でも前を向かせてくれた人がいる」


セレナの心臓が跳ね上がる。


「その働きと、その心、その覚悟。

 我が国は……そのすべてに救われた」


民衆のどよめきが一気に強まる。


アルシオンは、迷いのない声で告げた。


「本日ここに――

 ルナワ第一王女セレナを、

 我が国の《正妃》として迎えることを宣言する!」


歓声と拍手が重なり合い、

地面まで震えるほどの大歓声が、王都を包み込む。


セレナは息を呑んだまま動けなかった。

足が地にあるのに、浮いているようだった。


アルシオンはそっと彼女の手を取り、

民に見えるよう、そっと差し示す。


「この国の未来を、共に歩む!」


風が二人の衣を柔らかく結ぶ。


アルシオンが微笑んだ。


「セレナ。……これからも、共に」


セレナも自然と微笑み返す。


「はい。殿下と、共に」


ほんのわずか、指が絡む。


だが――

その祝福の渦から離れた場所に、静かな影が一つあった。


大広場の外縁、回廊へ続く石段の脇。

人々のざわめきから少し距離を置いた位置で、サフィアが立っていた。


真っ直ぐに、ただ二人を見つめている。


そしてサフィアはそっと背を向け、

喧騒から離れるように歩き出した。





式が終わり、人々の熱気がようやく引き始めた頃。

回廊の奥、喧騒から遠ざかった静かな一角に、サフィアは立っていた。


「……殿下の隣に立つのは、あの人……」


自分に言い聞かせるように、小さく息を吐いたそのとき――

衣擦れの気配とともに、セレナがゆっくりと歩み寄ってきた。


サフィアは気を引き締めるように姿勢を正す。


「……姫殿下」


セレナは立ち止まり、胸の前でそっと指を握りしめた。

迷いを隠せない表情。

それでも逃げずに、まっすぐこちらを見てくる。


……いつもの姫殿下じゃないな。


あの人は、本来もっと迷わず踏み込む。

――なのに、今日はどこか及び腰だ。


「……サフィア殿、少しお話ししてもいいですか?」


「……はい。ここでよろしければ」


「ありがとう……」


セレナは一度、目を伏せた。

言葉を選ぶように、息を整える。


そして、ゆっくりと口を開いた。


「……あなたに、謝りたかったの」


胸の奥が、きしりと鳴った。


「……謝ることは、何もありません」


「いいえ……」


セレナは扇を、胸に抱いた。


「私は……殿下のお心は一人のものじゃない。

 そう言い聞かせて、理解していました」


その言葉が、静かに突き刺さる。


セレナは視線を上げ、サフィアを見た。


「……でも、あなたは違う。

 傷つけてしまって、ごめんなさい」


――やめてくれ。


喉まで出かかった言葉を、サフィアは飲み込んだ。


そんなものを向けられたら……。


私は、

“気遣われる側”になってしまう。


「私は、あなたと殿下を引き離すつもりは

 一度もなかった。

 それは今も、変わらない……」


その誠実さが、

何よりも残酷だった。


サフィアは、そっと息を吐いた。

一度だけ視線を落とし、そして――上げる。


「……顔を上げてください、姫殿下」


静かな声だった。


「確かに……胸が痛まなかったと言えば、嘘になります」


それは認めるし、否定しない。

だが――


「けれど、それは

 殿下を想っていた私自身の問題です」


言葉を区切り、はっきりと告げる。


「姫殿下が誰かを奪ったわけでも、

 引き裂いたわけでもありません。


 選ばれたのは、姫殿下です。

 ――それだけのことです」


一拍、置いて。


「……ですから、どうか謝らないでください」


セレナの瞳が、揺れた。


「私は、私の立つ場所へ戻るだけです」


ほんのわずか、視線を逸らして。


「それに――殿下の隣に立つ方が、

 あなたであるなら……

 私は、納得しています」


セレナの喉が、小さく鳴った。


「サフィア……」


それ以上、言葉は続かなかった。

泣かないように、腕に爪を立てて耐えているのが、痛いほど分かる。


「……わたしは、大丈夫ですから」


セレナは、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


サフィアは応えず、踵を返した。


衣擦れの音が、遠ざかっていく。


その背が角を曲がり、視界から消えるまで――

セレナは、ただ立ち尽くしていた。





回廊を進むたび、足音がやけに大きく響いた。


――殿下のお心は、一人のものじゃない。


言葉が、勝手に頭の中で繰り返される。


「理解していた、だと?」


拳を握りしめる。


……選ばれた側の言葉だ。


腹の底が、まだ熱い。

怒りなのか、苛立ちなのか、自分でも判別がつかない。


――そのとき。


「サフィア」


呼び止められて、足を止める。


振り返ると、柱の影からカリムが顔を出していた。


「……どうした。式のあとにしては、えらく険しい顔だな」


「そうか?」


自分では、いつも通りのつもりだった。


カリムは少し首を傾げてから、軽く肩をすくめる。


「いや。

 なんかこう……殴り合いの直前みたいな顔してる」


「……」


サフィアは一瞬、視線を逸らした。


「なあ、カリム」


「ん?」


「お前ならどうする」


唐突な問いに、カリムが瞬きをする。


「何がだ?」


「……自分が想ってる相手がいて。だけど、

 “他にも大事な相手がいる。

 それでも一緒にいてくれるか”って言われたら」


「無理だ」


「即答だな」


「嫌だな。

 それ、俺が二番目って言われてるみたいじゃねえか」


サフィアは、ふっと息を吐いた。


「……だよな」


「お前は?」


そう聞かれて、少しだけ間が空く。


「……私は」


言いかけて、止める。


「いや。いい」


カリムはじっとサフィアの顔を見てから、口の端を上げた。


「……なんかさ」


「?」


「さっきより、顔が少し楽になった」


サフィアは眉をひそめる。


「そうか?」


「ああ。

 怒ってる顔じゃなくなった」


少し考えてから、サフィアは肩をすくめた。


「……仕事に戻る」


「おう」


「殿下の周り、引き続き頼む」


「任せとけ」


サフィアは踵を返す。


歩き出しながら、胸の奥でひとつだけ思う。


……ああ。

やっぱり私は、できない。


だからこそ――

あれは、私には届かない覚悟だ。


背筋を伸ばし、歩調を早める。


サフィアは、再び自分の戦場へ戻っていった。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。


セレナとアルシオン、そしてサフィアたちの物語は、これにて完結となります。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


また別の物語でも、お会いできましたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
ナヴァリスがお似合いだったような。 腹黒いからピュアなセレナの好みではなかったのか。
最初はサファイアに優越感が見られて苦手でしたが、本当はとても高潔な人で、最後はもうかわいそうで辛かったです。 「選ばれた側の言葉だ」という一言に、すごく共感しました。セレナの気持ちも分からなくはないけ…
後宮が有って正妃選びが有るということは、当然複数の則妃の存在や必要性が求められる時代・社会の物語。私の価値観は一夫一婦制なので、違う価値観の社会にはどこか違和感を感じでしまうのかな、と思いながら読ませ…
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