第4話 座動
投稿遅れてすみません。
王都東区の隔離施設に入ってから、数日が過ぎた。
隔離施設は、混乱の色を少しずつ失いつつあった。
初日にセレナが板に描いた
“祓いの順番の図”と“清めの時間を示す印”が入口に貼られ、それが人々の動く目印になっていた。
図は、子どもでも分かるほど単純だった。
水の印、手の形、寝具の場所を示す丸。
動線を表す矢印。
それだけで、人々は迷わなくなっていったように見えた。
ピクトグラムを真似しただけなんだけど……
「上手くいってよかった」
医師たちはその印に合わせて記録を整え、
兵士は決められた時間に出入りの人数を管理し、
侍女たちは図の通りに洗濯場と寝具の区画を分けた。
住民たちも、印の示す時刻に作業を行うようになり、
恐れで揺れていた空気も、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「布はこちらへ。
祈りを捧げて──沸かした湯で清めてください」
セレナの声に、人々は迷わず動いた。
侍女の一人が水桶を運びながら小さく呟いた。
「姫様の描かれた印だけで……こんなに動き方が変わるんですね」
医師も頷く。
「祓いの順番と言われると、皆、理屈より先に手が動く。
……信心と理を喧嘩させずに済むとは。つくづく、不思議なお方だ」
そのすぐ脇で、倒れた男の妻が布を握りしめていた。
「……助からないと思っていましたのに」
侍女がそっと支えながら、小声で続ける。
「……この三日で、亡くなる方が半分以下になりました。
姫様の手順を皆が守ったからだと医師達が……」
その言葉に、周囲が息を呑む。
人々の顔に、初めて光が宿った。
この頃には、他区から使者も来ていた。
「北区も、この“祓いの図”を写していいか」
「中央区でも、この分け方を試したい」
セレナが離れても、
貼られた印と人々の口伝だけで現場が回り始めているのが分かった。
命を数える夜を越え、
ようやく落ち着いた朝――
現場の落ち着きを見届けたのち、セレナは後宮へ戻った。
到着すると、ナヴァリスが静かに頭を下げた。
「姫様。疫が出た区域から戻られた方は、
古より“祓い期間”として三日、後宮の外でお過ごしいただくのが定めです」
セレナは目を瞬かせた。
「医師も姫様に症状は見られぬと申しておりますが、
万が一ということもあります。どうか従っていただけますか」
「ええ、もちろんです。皆に迷惑はかけられませんし」
こうしてセレナは三日間、後宮の奥の部屋に籠もることになった。
寝台の隅には、侍女が運んできた台帳と記録の束が積まれている。
「今のうちに溜まった台帳、整えないと……」
セレナは筆を並べ、
各“座”に届けられた物資の数、
侍女の勤務記録、
調度品や香料の出納帳──
次々に目を通していった。
「……この香料の算段……
仕入れ量と支出の印が噛み合ってない……」
筆でそっと印を押さえながら、
セレナは小さく息をついた。
「……後で確認しなくちゃ」
◆
その三日間、後宮の回廊では妙な噂が静かに広がっていた。
政務殿で報告を受けたアルシオンが、
日が落ちるたびに後宮へ姿を見せるからだ。
「殿下、ナヴァリス殿より“面会は不可”と──」
護衛が困ったように言いかける。
「わかっている。ただ……様子だけ見に来ただけだ」
声は低いのに、足取りは妙に速かった。
回廊の柱から柱へ。
侍女の足音が聞こえれば、さりげなく進む向きを変える。
何度も、何度も。
「……また殿下が」
「毎晩よ。姫様のお部屋の前を」
囁きが水面みたいに広がっていく。
……これで“様子を見るだけ”ね。
壁際に控えたまま、カリムは苦笑を喉の奥に押し込んだ。
サフィアは砦で“殿下のもとへ帰る日”を待ってるってのに。
あんたは別の女の扉の前で夜を明かすのかよ、殿下。
侍女たちの囁きが、じきに後宮中へ広がることくらい分かっていた。
この話はそのうち砦にも届く。
その時、あいつはどんな顔をするんだか……。
けれど何も言わない。
ただ軍衣の裾を揺らし、影のように殿下の背に従った。
――三日後の朝。
ナヴァリスが報告書を手に、頭を下げた。
「姫様。体調に問題はございません。
これより後宮内の移動を許可いたします」
セレナは静かに息をついた。
湯殿で身を清め、上衣を整え、
政務殿へ歩を進めた。
扉の前で護衛が姿勢を正す。
「殿下は……何度もお見えになりました」
「何度も……?」
首を小さく傾げる。
扉に手をかける直前、セレナは小さく呟いた。
「私……何かしたのかしら……?」
◆
政務殿には、いつもと違う静けさがあった。
文官たちは書簡を運びながらも落ち着かず、
机上の封蝋文巻は、紐も解かれぬままだった。
アルシオンが端を押さえては止める、その繰り返しが室内の時間を軋ませていた。
……三日だ。
ただの“祓い期間”だというのに……
静かに息を吐き、指先で書簡の端を押さえる。
視線は文字を追っているはずなのに、
頭の中では別のことばかりが渦を巻いていた。
――あの日、後宮から戻ったと聞いたときの安堵。
――面会不可と告げられたときの焦れ。
あいつは……こんな時でも働くのか。
倒れたらどうするつもりだ。
額に指をあて、軽く押さえた。
文官が控えめに口を開く。
「殿下、こちらの書状にお目通しを──」
「あとでいい」
短い一言に、文官の肩が跳ねた。
アルシオン自身も、それが苛立ちから出た声だと分かっていた。
回廊を歩いた夜の冷たさが、まだ手の甲に残っている気がした。
扉の前に立つことすら叶わなかった、あの数歩の距離。
そのとき――
政務殿の扉の向こうで、衣の擦れる微かな音がした。
アルシオンの手が止まる。
視線が扉へ向く。
……来たか──?
コン──
控えめなノック。
「……入れ」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
扉がゆっくりと開く。
現れたのは──
「殿下、書状の整理が終わりましたので……」
ラシードだった。
アルシオンの眉が、わずかに落ちた。
ただ、心底がっかりした男の顔だった。
ラシードは一歩入ったところで、空気を察したように瞬きをした。
「……あれ? 今、何か……お望みの方ではありませんでしたか?」
「……いや。何も」
低く返す殿下に、ラシードは肩をすくめた。
「殿下の期待した後の落胆の顔は、なかなか珍しいものですね。
思わず記録に残したくなりました」
「残すな」
即答だった。
ラシードは軽く咳払いし、
机の端に書状を置くと小声で付け加えた。
「……ああ、申し上げ忘れておりました。
姫様は、間もなくこちらへ向かわれるそうですよ」
アルシオンの指が止まる。
「……今、なんと言った?」
「“間もなく”です。
三日の祓いを終え──
ようやく殿下のところへ」
アルシオンは静かに息を吸い、
低く呟いた。
「……そうか」
「では私は、邪魔にならぬように退場いたします。
……殿下、表情を整えられた方がよろしいですよ?」
「余計なお世話だ」
ラシードは扉を開ける直前、ふと振り返った。
「……殿下。
その、そこまで表情に出るご様子、
姫様のこととなると顕著でいらっしゃいますね──」
「ラシード」
「……失礼しました」
扉が閉まる。
政務殿には再び静寂が戻った。
ただし先ほどとは違う。今度は、何かを待つ静けさだった。
◆
侍従が扉を開けると、政務殿には夕の光が差し込んでいた。
アルシオンは席に座ったまま、扉の方へ視線を向けていた。
その目がセレナを捉えた瞬間──
ほんの一拍、空気が止まった。
……あ。
アルシオンの肩が、わずかに下りた。
セレナは歩み出て、深く一礼した。
「殿下。ご無沙汰しております。
三日の祓いを終え、ただいま戻りました。
本日は、王都東区の隔離施設の件でご報告があり──」
言いかけたところで、アルシオンがゆっくり立ち上がった。
「……無事でよかった」
「え……?」
アルシオンはすぐに視線を逸らした。
「詳しい報告はあとでいい。
まずは……身体の方だ。疲れは残っていないか?」
セレナは胸の内で、アルシオンの言葉の温度におどろきを覚えた。
気の所為だろうか、
ルナワから戻って以来、殿下との距離が近くなった気がする。
「……無理をするな」
アルシオンは机の端に手を置き、続けた。
「お前の働きは、すでに報告で聞いている。
王都東区は……姫、お前がいたから混乱しなかった」
言いながら、アルシオンは視線を机上へ落とした。
「……感謝している。
王国のために、あそこまで踏み込んでくれたことを」
セレナは扇を胸元に寄せ、やわらかく微笑んだ。
「いえ……私は、出来ることをしたまでです」
アルシオンの表情が、わずかに動いた。
視線がセレナへ向けられる。
だが彼はすぐに目を逸らし、息を整え低く言った。
「……そうやって笑うから、余計に心配になる」
セレナはわずかに息を呑んだ。
扇を指先でそっと整え、ためらうよう口を開いた。
「殿下が……私を待ってくださっていたと、耳にいたしました。
……何か、ご用がおありでしたか?」
アルシオンの手が、机の端で止まる。
視線がゆっくりとセレナへ戻った。
「用……と言えば、そうだな」
深い息をひとつ落とす。
「ただ……お前の顔を見ておきたかった。
それでは、駄目か?」
「……え……?」
頬が熱を帯びていくのが分かる。
扇の陰に隠そうとしたが、間に合わなかった。
アルシオンが、わずかに目を見開いた。
「私は……その……」
言葉が続かない。
頬の熱だけが、痛いほどはっきりしていた。
「……すまない。
変なことを口にした」
アルシオンはその沈黙をほどくように、
机の端をそっと指で叩いた。
「……さて。報告を聞かせてくれ」
努めて平静を装った声に戻っていたが、
先ほどの言葉の余韻までは消えていない。
セレナは慌てて扇を握り直し、背筋を正す。
「は、はい……もちろんです。
えっと……王都東区の隔離施設ですが──」
話し始めた声は、ほんの少しだけ上擦っていた。
アルシオンは視線を紙へ落としている。
けれど、その手の指先がかすかに動いていた。
「……続きを」
彼の促す声は低く穏やかで、
それだけでセレナの胸が小さく跳ねた。
◆
停戦の報が届いてから、まだ数日しか経っていなかった。
砦には、戦の疲労と静寂がまだ色濃く残っていた。
届けられた噂を聞いた瞬間、
サフィアは息をひとつ飲み込んだ。
──“後宮の姫君が、王都の混乱を鎮められた”
兵たちが焚き火のそばで囁く。
「姫様が前に立った」「民が一斉に従ったらしい」
「殿下の代行みたいだった」と。
「……殿下の、代わり、か」
胸の奥が、きゅうと軋んだ。
サフィアはずっと信じていた。
剣を振るい、国を守り抜けば──
“殿下の正妃として並び立つ資格”を得られると。
血に塗れ、傷を抱え、
たった一人のために刃を掲げてきた。
「それなのに……」
泥と汗の匂いを纏う自分とは対照的に、
その姫は言葉だけで、人々を導き、
“殿下の代わり”として王都を鎮めた。
……私が欲しかった立ち位置なのに。
勝利を積み上げても、
民の前に立つのは本来“正妃”の役目。
それを、後宮の姫が自然に果たしてしまった。
拳が強く握られ、手袋が軋む。
……セレナ。
名を思い浮かべた刹那、胸の奥がひどく揺れた。
剣では届かない領域で、彼女は殿下の側にいる。
──“殿下の隣”を巡る戦は、
刃ではなく、“場”で決まるのかもしれない。
夜風が焚き火を揺らす中、
サフィアは静かに目を閉じた。
……奪わせない。絶対に。
その誓いは、誰の耳にも届かず、
夜の底で静かに燃え続けた。
◆
アルシオンは一歩進み、深く頭を垂れた。
「ご用がおありと伺いました、王妃」
ザリーナは静かに彼を見やった。
「……殿下。
姫君の件で、先にお話ししておかねばなりません」
姫君――セレナのことだ。
アルシオンは胸の奥がわずかに強張るのを感じながら、静かに頷いた。
「伺いましょう」
王妃は扇を閉じた。
「殿下。
疫の地より戻られた“後宮の姫”を
政務へ近づけようとなさるつもりでしょう?」
アルシオンの指先がわずかに止まる。
王妃は淡々と続ける。
「後宮は清めの座。
世を鎮め、王家の血統と祈りを守るための場所です。
そこに混乱や例外が持ち込まれれば、
祈りが揺らぎ、国そのものが乱れます」
王妃は緩やかに首を傾げる。
「まして姫様は後宮の序列に在す身。
その役目を越えて動かれれば――
妃たちの均衡も、正妃の座も揺らぎましょう」
アルシオンは息を静かに吸った。
王妃の言葉は理に適っている。
十歳より、幾度も教えられてきたことだ。
後宮は形を守る。
祈りを乱さぬ象徴として在れ。
政治に触れることは禁忌。
だからうなずくのは自然だった。
――だが、胸奥に微かなざわめきが残った。
本当に祈りだけのためか。
王妃は柔らかく言う。
「功で席を得るのは兵と官だけ。
妃は祈りと形を守る者。
国は形で立つのです。
……どうか姫様の立つべき場をお間違えになりませんように」
アルシオンはゆっくり頭を垂れた。
「……承知しました」
王妃の間を辞し、扉が閉じた瞬間――
胸奥の渦だけが生きていた。
立つべき場……。
では、疫の地であいつが作った場は間違いだったのか。
白衣の裾で泥を踏み、
恐れの中の民を導いた姿が脳裏に浮かぶ。
「あれを、閉じ込めろというのか……」
答えの出ぬまま政務殿へ戻ると、
そこには、いつもと違う静けさが落ちていた。
控えめなノックが扉を叩く。
「殿下、よろしいでしょうか」
入ってきたのは、巻物を抱えたラシードだった。
「姫様のご報告について、整理を」
「……ああ。頼む」
アルシオンが返すと、ラシードは巻物を広げた。
「王都東区の混乱は完全に収まりました。
医師と検問所の兵が足並みを揃え、
他区から“祓いの図”の写しの依頼が増えています」
「想像を超えているな……あいつがここまで場を動かすとは」
ラシードは小さく笑い、言葉を滑らせる。
「殿下。少々失礼ながら――
姫様は、後宮の飾りではございません」
「……分かっている」
「いいえ。まだ、分かっておられません」
静かに刺す言葉が、妙に胸に響いた。
ラシードは報告書の端を指で撫でる。
「姫様が動けば、民が動きます。
兵も、医師も。
殿下の命が届かぬところにすら、あの方の声が届く」
アルシオンは黙し、視線を落とした。
報告に記された様子だけでも分かる。
王太子の名ではなく――彼女自身の力で、場を動かしたのだ。
「殿下はお気づきでしょう。
姫様はすでに“一つの座”を持っておられる」
「座……?」
「民の心を束ねる座です。
後宮の飾りでは収まらぬほどの力。
本人の意志とは関わらず、形になりつつある」
胸がざわついた。
あれほど自らを飾りと卑下していた彼女が──
気づけば、王都すら動かしている。
「殿下。支えてください。
さもなくば姫様は、いずれ“殿下より先に国を動かす”存在になります」
「……もう、そうなりかけている」
漏れた言葉に、ラシードが静かに頷いた。
アルシオンは拳を膝に置き、低く言った。
「セレナに正式な役を与える。
王都の疫を鎮める新しい仕組み――
あれを、あいつに預ける」
「良い判断です、殿下」
夕刻を告げる音が、外で鳴り始めた。
ラシードが退出した後、
アルシオンはしばらく報告書を見つめ続けた。
……あいつだから出来たことだ。
なら、並び立てる場所を与えてやるべきだ。
胸奥が熱く疼く。
これまで名をつけずにいた感情が、
ようやく形を持ちはじめていた。
あいつを誰の影にも置かせない。
その場所を与えるのは、他でもない俺だ。




