第3話 祓
夜明けの霧が、砦の帷幕を薄く包んでいた。
灰にまみれた焚き火はほとんど消えかけ、兵たちは肩を寄せて沈黙していた。
三月に及ぶ膠着戦。剣を振るより、寒さと飢えに耐える日々が続いた。
勝利も補給も届かぬ日々が、希望そのものを磨り減らしていた。
サフィアは無言で剣を磨いていた。
刃はほとんど光を失い、手のひらの皮は厚く固まっている。
その動きはもう“戦支度”ではない。
“生き残るための習慣”だった。
磨くことだけが、今日も戦うと言い聞かせる儀式になっていた。
遠くから蹄の音が近づく。
夜明け前の白い空気を裂いて、ひとりの伝令が駆け込んできた。
「伝令――王都より至急! 王太子殿下の名において、全戦線停戦!
敵国との講和が結ばれた!」
声が霧の中に溶ける。
兵たちは顔を見合わせ、誰もすぐには動かなかった。
「……終わったのか?」
誰かがかすれた声で呟く。
次の瞬間、疲れ切った笑いがぽつりと漏れた。
「終わった……やっとだ……」
「もう、戦わなくていいのか……」
泣く者、地に座り込む者。
喜びというより、ただ力が抜け落ちるような安堵。
勝ち負けのない終わり――それでも、彼らは生き延びた。
サフィアは立ち上がり、風に揺れる帷幕の向こうを見つめた。
冷たい光が頬をかすめ、長く張り詰めていた心が軋む。
終わった……。けれど、何を得たの?
国は守られた。それなのに――
殿下の剣としての“証”は、どこにも刻まれていない。
剣を握る手がわずかに震える。
あの方は……この終わりをどう見ておられるのだろう。
殿下の声が遠くにある気がした。
焚き火の灰が風に舞い、空へ昇っていった。
「殿下……」
低く漏らした声は、誰にも届かず、霧の中に消えた。
サフィアは剣を鞘に戻し、静かに目を閉じた。
そこにあったのは、勝利ではなく――ただ、戦の終わりという名の虚無だった。
◆
白い回廊に陽が差し込み、噴水の水音だけが響いていた。
終戦の報が届いてから三日。
平穏が戻ったはずの宮中で、妙な緊張が漂っていた。
「まあ、聞いた?」
軽やかな声が弾み、レイラが絹の裾を揺らして現れる。
隣には、金の飾りを揺らしたアシェラが続いた。
「セレナ様、また城外へ向かわれるんですって。
しかも疫が流行っている街へ……」
「ほんとに? どうしてそんな危ない真似を……」
アシェラがわざとらしく息を呑む。
「終戦になったばかりなのに、病を持ち込まれたらどうなさるのかしら」
レイラが扇で口元を隠し、涼しい声で続けた。
「お可哀そうに。あんなに綺麗なお顔なのに、跡でも残ったら……」
「それに、後宮は神々の御座。
外の穢れを持ち込めば、祟られますわ」
近くにいた侍女たちが顔を見合わせる。
そのとき――背後から足音が響いた。
侍女に挟まれ、ちょうど通りかかったセレナが姿を見せる。
レイラとアシェラが気づき、慌てて姿勢を正した。
「……姫様も、お考え直しになって。
王妃様もきっとご心配なさいますわ」
セレナは穏やかに微笑む。
「皆様、ご助言ありがとうございます。
心優しい皆様方のお気持ちを受けて、
後宮の代表として王都を清められるよう努めたいと思います」
一瞬、空気が止まった。
レイラの笑みがわずかに引きつき、アシェラが息を呑む。
セレナは深く一礼し、そのまま回廊を進んだ。
庭に出ると、空気がわずかに冷たかった。
侍女たちが石鹸の包みを抱え、荷をまとめている。
白椿の花が枝から零れ、静かに足元へ落ちた。
「セレナ様、大丈夫ですか?」
リサが駆け寄り、唇を噛む。
「さっき、レイラ様たちが……」
「ええ、大丈夫よ。皆様、心配してくださっているだけだもの」
セレナが笑うと、侍女たちは少しほっとしたように息を漏らした。
けれど包みを抱える手は、わずかに固い。
そのとき、石畳を踏む柔らかな足音が近づいた。
ナヴァリスが姿を現し、巻物を脇に抱えたまま足を止める。
「姫様。……外出の件で後宮がざわついています」
「王妃陛下にも話が届いたようで、いずれお止めが入るやもしれません」
「その時は仕方ありませんね。
ですが――王宮が必ずしも安全とは言えませんでしょう?
流行り病はまた現れます。
だからこそ、民が病と戦える手立てを持つべきなのです」
ナヴァリスは一瞬だけ黙し、扇先に視線を落とした。
やがて、かすかに息を吐く。
「姫様は、形を崩さず本質を動かされる……厄介なお方です」
セレナは微笑みを返し、侍女たちの方へ向き直った。
「皆、怖ければ行かなくていいのよ」
侍女たちが息を呑む。
包みを抱えた指先が、わずかに強くなる。
「まずは、自分の身を案じてちょうだい。
無理に従うことはありません」
短い沈黙のあと、リサが一歩前に出た。
「……セレナ様だけに行かせるなんてできません」
別の侍女も、小さく頷く。
「わ、私も怖いです。
でも……姫様が行かれるなら、私も行きます」
その声に、続くように頷きが重なった。
その様子を目にして、
セレナは扇を胸に当て、目を伏せた。
私の行いが、姫として正しいとは思わない。
それでも――
「ありがとう……」
知らないふりで見過ごすのは、やはり違うと思う。
横顔に陽光が落ち、白椿の香りが風に溶けた。
◆
書記官たちが束ねた報告書を机上に積み、ラシードが淡々と文面を読み上げている。
「……後宮監ナヴァリスの名において、王女殿下一行、王都東区隔離施設への視察に出立。
目的は衛生指導および実地確認。随行は侍女六名。護衛および記録班は後宮監の指揮により派遣。」
その言葉に、アルシオンの手が止まった。
「……もう一度、今のを」
ラシードはわずかに姿勢を正し、同じ箇所を繰り返す。
「――出立、だと?」
アルシオンの声は静かだった。
だがその低さに、文官たちは一斉に背筋を伸ばす。
ラシードが視線を落とし、慎重に言葉を選んだ。
「形式上は後宮監の権限内でございます。
殿下の御承認を要する範囲には……該当しません」
「形式、か」
アルシオンは机の端を指で叩いた。
乾いた音が二度、三度、響く。
「誰の指図で?」
「ナヴァリス殿の提案にて。……姫様のご希望も強く、
“行動で示すべき時”と仰せだったそうです」
その言葉に、アルシオンの指が止まった。
目を伏せたまま、しばし動かない。
――また、自分で決めたのか。
理を掲げるたびに、あいつは遠くへ行く。
ラシードが低く言う。
「ナヴァリス殿によれば、
姫様は“後宮に閉じていては、王国の病は癒えない”と仰ったそうです」
アルシオンは目を閉じ、息を吐いた。
長い沈黙のあと、低く呟く。
「……ナヴァリスを呼べ」
「承知しました」
ラシードが一礼し、静かに退いた。
残されたアルシオンは、報告書を握りしめる。
書状の端が、指先の下でわずかに折れた。
その刹那――扉が開いた。
ナヴァリスが姿を現す。
一礼を終え、迷いなく殿下の前へ進む。
「殿下のご召喚と伺いました」
「来たか」
アルシオンは書状を持ち上げ、その一節を指で叩いた。
「この報告書の内容、貴殿の署名で間違いないな」
「はい。私の名において出立を許可しております」
「なぜだ」
アルシオンの声は低い。
「なぜ俺に報せず、勝手に動かせた」
ナヴァリスは視線を伏せ、整った呼吸で答える。
「後宮監の権限として、王族女性の外出許可を出せます。
加えて姫様は“視察”という公務目的を明示されておりました。
――形式上、妨げる理由はなく。
ゆえに敢えて殿下へはお知らせいたしませんでした」
「形式を言い訳にするな」
アルシオンの声が低く震えた。
「姫がどこまで踏み込むか、貴様が一番知っているだろう」
ナヴァリスは目を上げる。
「だからこそ、殿下。止めなかったのです」
「……何?」
「姫様が動かねば、誰も動きません。
後宮の者も、王都の者も。
恐れと祈りの間で立ち尽くすだけです。
あの方は、それを壊す力をお持ちだ」
アルシオンは沈黙した。
「……力を持つ者ほど、脆いものだ」
掠れた声で呟き、額に手を当てる。
「守らねばならん立場で、あいつがいつまで立ち続けられるか――」
「それを案じる殿下がいれば、姫様は倒れません。
私は現場の記録を逐一報告いたします」
「……必ずだ」
ナヴァリスが下がり、扉が静かに閉じる。
アルシオンは書状を見つめ、吐息のように零す。
あいつは……本当に、俺より先に国を動かすつもりか。
その呟きが紙の上に落ち、静かに消えた。
◆
「水を、もう一桶!」
リサの声が響いた。
桶を抱えた侍女が駆け込み、泡立つ石鹸水の匂いが漂う。
薬草を煮る湯気、汗と土の混じる空気――隔離院の中庭は騒然としていた。
呻く男を抱えた女が泣き叫び、兵士たちは戸惑いながら距離を取っている。
誰も、どう動けばいいのか分からずにいた。
「姫様、ここは危険です! お下がりください!」
護衛が叫ぶ。
しかしセレナは、泥をものともせず踏み出した。
「皆さん、落ち着いてください」
セレナはためらいなく患者の傍に膝をつき、倒れた男の衣の裾をそっと整える。
頬に手をかざし、呼吸を確かめると、侍女に短く指示を飛ばした。
「浄化の水を。――今すぐ」
その言葉に、周囲の目が凍りついた。
「姫様が……触れる気か?」
「だめだ、病がうつる!」
ざわめきが走り、止めようとする手が上がりかける。
だがセレナは顔を上げ、まっすぐに言った。
「ちゃんと手順を取れば大丈夫です。
まずは落ち着いて。私や医師の指示を聞いてください」
セレナは立ち上がり、淡い泥のついた裾も気に留めず、人々を見渡す。
「皆さん。
患者に触れた後は、清めの泡で手を洗ってください。
そして部屋を整え、布を外へ――病を祓うのです」
その響きに、周囲の手が止まった。
泣き叫んでいた女も、怒鳴っていた兵も、いつの間にか息を潜めていた。
「怖れるのは当然です。
けれど祈りの手順を踏めば、病は去ります」
一拍の静寂。
それを破ったのは、扉を開ける足音だった。
医師が小さく頷き、室内を開け放つ。
侍女たちが動き始め、布を干し、水を運ぶ。
中庭の空気が、少しずつ動き出す。
「……後宮の姫が……」
「まさか、自らここへ?」
「神の御技か、それとも……」
囁きは消えずに残ったが、先ほどまでの混乱はもうなかった。
セレナは胸に手を当て、静かに息を整えた。
私……最近嘘ばっかり言ってない……?
その思考が、誰にも触れぬまま院の喧騒に沈んだ。




