第2話 和
政務殿の長卓には地図と報告書が積まれ、傾いた陽が影を濃くしていた。
「姫様、やりますねぇ」
ラシードが柔らかい笑みを浮かべていた。
「元老院の石頭どもを、たった数言で黙らせるとは。見ていて爽快でしたよ」
セレナは肩をすくめた。
「びっくりするほど、皆さまご自分に正直でしたから」
「欲で動く者ほど扱いやすい。理想や正義で動く者の方が手強い」
「……たしかに」
セレナは一瞬だけ視線を横に流した。
長卓の向こう、報告書の山を前に立つアルシオンが、
それでも――わずかに息を吐いた。
張りつめていた空気が、ほんの一筋ほど緩んだように見える。
小さな安堵を悟られぬよう、セレナはすぐに視線を落とした。
その端で、卓の地図が目に入った。
……あ。
「宰相殿。王宮に戻る道中、新しい検問所を見かけ立ち寄りました」
ラシードの指が止まり、アルシオンが顔を上げる。
セレナは地図を広げ、一本の線をなぞった。
「記録板には荷駄が通過したと記されていましたが――その先の倉庫には物資がありませんでした」
ラシードの目が細くなる。
「……北の砦の町ですか」
「ええ。なので迂回路で物資が届くよう指示しました」
アルシオンが眉を寄せる。
「また抜かれたか」
ラシードが顎に指を置く。
「その区間を担当している商家に覚えは?」
セレナは考えて口にする。
「確か……リーファ・ザルクと」
「北方補給の中継を担う古い商家。問題の多い相手です」
アルシオンの指先が卓を軽く叩く。
「……ラシード」
ラシードが姿勢を正す。
「この件、表沙汰にするな。兵站局にも報告不要だ。裏で調べろ。“誰が抜いたか”掘り起こせ」
「承知しました」
セレナが息を呑む。
「殿下、それほどまでに……?」
「報告すれば誰の耳に届くか分からん。兵站も商会も戦で肥え太った。戦の終わりを望まぬ者がいるかもしれん」
アルシオンは地図を指で叩く。
「国の血管を詰まらせる者がいるなら戦より厄介だ。放置すれば国が腐る」
その時――扉が開いた。
甘い香油とともに、絹の裾が床を滑る。
「まあ……殿下。ずいぶんお忙しそうですこと」
セレナとラシードは頭を垂れ、一歩退いた。
「戦を……おやめになるのですね?」
ザリーナ王妃が進み、視線がセレナを射抜く。
「――戦は王国の誇り。それを止めるよう促すとは……これだから“外の姫”は、情に走る」
空気が凍りついた。
――その時。
「王妃陛下。口を慎まれよ」
アルシオンがゆっくりと一歩前へ出た。
「終戦は私の決断だ。彼女はそれを助けただけだ――国のためにな」
王妃の目が細まり、すぐ微笑に戻る。
「まあ……殿下がそうおっしゃるなら。せいぜい“外の理屈”で王国を救ってみせてくださいな」
王妃は微笑を残したまま踵を返した。
絹の裾が翻り、甘い香油だけが室内に残る。
その背を見送りながら、セレナは息を詰めた。
「殿下……ありがとうございます」
「気にするな。あの方はいつもこうだ」
◆
夜の砦は静まり返っていた。
焚き火の火が風に揺れ、帷幕の布を赤く照らしていた。
サフィアは剣を膝に置き、深く息を吐いた。
冷えた空気が鎧の隙間から静かに染み込む。
……今日も、何も起こらなかった。
敵は動かず、遠い山の向こうで煙が上がるだけ。
張りつめた沈黙の方が、胸を締めつけた。
早く来ればいいのに。
こんな膠着戦、いつまで続くの……。
指先に力が入り、剣の柄がかすかに鳴った。
これが終われば、私はようやく――
殿下の隣に立てる。
あの方の誇りを守った“私”として……。
微笑もうとしたが、すぐに消えてしまう。
なのに……どうして、こんなに寒いの。
外で兵が咳き込んだ。
その短い音が夜気に滲み、サフィアの背筋を揺らした。
彼女は剣を見つめ、低く囁いた。
「あと少し。
……もう少しだけでいいから、持って」
その声は焚き火の音に紛れ、夜へ溶けていった。
◆
元老院の承認はまだ降りていない――
自らの利益と退路を計算し終えるまでは、老臣たちは頷かない。
ラシードいわく、
「元老院の決はまだ先でしょう。ですが——
こちらが先に終戦の形を整えてしまえば、
否とは言えなくなります」
——だからこそ、先手を打つ必要があった。
机上には封蝋の文巻が積まれていた。
ラシードは筆を走らせ、慎重に言葉を選んでいた。
「……終戦布告前の信書、相手国宰相宛て。文面ひとつで受け取りが変わります。
穏やかに、しかし確かに“終わり”を伝えねば」
セレナは隣で紙面を覗き込み、息を潜めていた。
筆先が止まり、ラシードが首を傾げた。
「この一文――“戦の終息を以て、神の御心を果たす”……抽象的すぎますな。
もっと“和解”の象徴が欲しい」
セレナは少し考え、筆を取った。
「……こんな言葉を添えてみては」
『慈しみとまことは相まみえ、正義と平和は口づけを交わす。
ゆえに我ら、この道をその証として築く。』
ラシードがその文を読み上げ、わずかに目を見開いた。
「……見事な文。どこかの聖典ですか?」
「ええ、まあ……そんなところです」
聖書だけど、誰も知らないはずだしいいよね?
ラシードは深く頷いた。
「信仰の句で理を包む……姫様、あなたは実に怖い」
セレナは微笑み、乾きゆく墨を見つめた。
平和のためだもの。神様だって許してくれるはず。
セレナは視線を紙面に落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……サフィアは……無事なのですよね……?」
ラシードは筆を止め、短く頷いた。
「ええ。前線は落ち着いています。……今のところは」
その“今のところ”が、セレナの胸に静かに沈んだ。
「そうですか……」
◆
政務殿。
ラシードが巻物を束ね、静かに言う。
「……殿下、外交信書の草案は整いました。明朝には封蝋を」
アルシオンは頷き、机上の書面へ視線を落とした。
書面の末尾に、一節が記されている。
――正義と平和は口づけを交わす。
ラシードが微笑を含んで口を開く。
「その一節、姫君が添えられたものです」
「そうか。まるで神託だな」
「姫様は、書き終えた後でこう仰いましたよ。
“これから自分は何をすればいいんでしょうね”と」
アルシオンの手がわずかに止まる。
「……何を、すればいいか」
低く繰り返し、息を吐く。
「それを考える者が、この国にどれほどいる」
「だからこそ、殿下の隣に姫様がいるのは幸運なのです。
あの方は、“終わりの先”を見ておられる」
アルシオンは短く笑い、書面へ視線を戻した。
「……終わりの先、か。
なら俺も、そこを見ておかねばな」
「……ちなみに。
姫様は、筆を置かれた後で、
サフィア将の安否を確認されました」
アルシオンの視線が、封蝋から離れる。
「命を案じる声でした。
政ではなく――人としての問いでした」
アルシオンは何も言わず、しばし沈黙した。
やがて、低く息を吐く。
「……そうか」
封蝋の上に置かれた指が、
わずかに力を帯びた。
◆
後宮の事務机には台帳が山積みで、
空欄の多い紙面が並んでいた。
結局私って、役目がないから埋めるものがないのよね。
戦を止めさせた責任感が胸の底で渦を巻く。
もう少し……視野を広げて……そうだ。
セレナは立ち上がり、扇を取った。
歩き出そうとした瞬間、背後から足音が追う。
「姫様、どちらへ向かわれるんですか?」
息を切らせたリサが慌てて追いつく。
「ナヴァリスに会いに行くの。少し、話したいことがあって」
回廊に出ると、黒衣の影が立っていた。
巻物を抱えたナヴァリスが静かに頭を下げる。
「——姫様。珍しいですね、わざわざこちらへ」
「少し、お時間を。話したいことがあるのです」
「……承りましょう。話とは?」
セレナは息を整え、真っ直ぐに言った。
「王都に出て、隔離施設を見て回りたいのです」
「……姫様が、ですか」
「はい。状況を、自分の目で確かめたいのです。
王都に戻った直後、一か所だけ訪れましたが……
まだ感染対策が行き届いているとは言えなくて」
あれだけ伝えたのに……全然実行されていないんだもの。
ナヴァリスは眉を寄せる。
「……それはお控えください。身分ある方が感染地に赴くのは危険です」
「危険なのは承知です。でも、分かる人間が指示を出すべきでしょう?
後宮に籠もって何もしないより、アウレナのために動きたいのです」
隔離施設のことを思うと、
胸の奥に小さな火が灯る。
ナヴァリスは無言のまま見つめた。
その沈黙が、答えを測るようだった。
その時、背後から声が飛ぶ。
「セレナ様が行かれるなら、私も同行します!」
振り向けば、リサが拳を胸に当てていた。
「わ、私も!」「姫様だけに危険なんて負わせません!」
いつの間にか侍女たちが集まり、
声が次々と重なった。
セレナは瞬きを落とした。
目の奥が、少しだけ熱くなる。
「皆、ありがとう。でも、無理はしないで……」
侍女たちはそれでも頷き続ける。
ナヴァリスは小さく息を吐き、目を伏せた。
「……止めるほど焚きつけてしまうとは。
姫様は本当に、風向きを変える方だ」
セレナは首を傾げる。
「では、許可してくださるのですね?」
「ええ。ただし私の指揮下で。記録も護衛も私が整えます」
「感謝します、ナヴァリス殿」
でも……侍女たちを連れて行くなんて——あ、そうだ。
「みんな、石鹸はまだ余ってる?」
ナヴァリスが眉をひそめた。
「……石鹸?」
「ええ。手や衣を清めるものです。教育座で作った分があって。
役に立つはずです」
リサが目を輝かせる。
「まだいくつか部屋にあります!セレナ様、あれも持って行きましょう!」
後宮に来てすぐ、失敗だらけで作り始めたものだ。
温度を誤れば分離し、焦げれば全て台無し。
何度も失敗して、ようやく形になった頃——
侍女たちが教えてほしいと言い出し、
今では教育座の一課になっている。
「後宮ではもう広まっているんですよ。
妃候補の方々の間でも評判で」
「……なるほど」
セレナは扇を胸に抱き、息を整えた。
「よし……準備をしましょう」
侍女たちは足早に散っていく。
その背を見送り、ナヴァリスが呟いた。
「……姫様は、ご自身の意思とは別のところで、
すでに国の形を動かしておられる」
セレナは肩越しに微笑む。
「まさか。私はただ——できることをしているだけです」
午後の光が回廊を照らし、石床に影を伸ばした。




