第1話 理
投稿遅れて申し訳ございません。
軍議が終わっても、広間の空気はすぐには冷めなかった。
焦げた油と蝋の匂いが、まだ喉の奥に残る。
諸将は順に退き、
最後に残った将軍も、短く礼をして踵を返した。
――重い扉が閉まる。
ようやく、広間に残ったのは二人だけだった。
セレナは扇を胸に、ひと息だけ整える。
一歩、踏み出しかけた刹那。
「――セレナ」
低い声が先に落ちた。
アルシオンだった。
卓の端に指を置いたまま、こちらを見ている。
「……よくもあの場で、“あれ”を口にしたな」
セレナは驚きと戸惑いのまま息を吸う。
「殿下……申し訳ございません。あのような無礼を――」
しかも、詐欺まがいの手口を押してしまった……
「……あの場で、俺が何を選ぶか。見込んでいたな?」
「……殿下、そのような――」
「迫られたわけではない。……導かれたと言うべきだ」
静かに断じられ、声が喉で溺れる。
アルシオンは卓から離れ、一歩だけ近づいた。
「おまえが口を開かなければ、俺はまだ駒を動かしていた。
――もう十分だ」
セレナの胸が、熱く軋んだ。
「殿下……」
「おまえの見てきたものを、俺は選んだ。それだけだ」
その言葉にセレナは息を呑む。
目を伏せ、やがてアルシオンを見据えた。
「殿下……私も、アウレナのために尽くします」
ぱち、と炎が弾ける。
アルシオンは一瞬だけまばたきし、
「……そうか」
低い息が漏れ、声音がわずかに和らいだ。
「ありがとう、セレナ」
名を呼ばれ、胸が小さく跳ねた。
「おまえが力を尽くすと言うのなら、俺も応えねばなるまい。
国のために。そして……
おまえを信じた自分のためにも、な」
「ありがとう、ございます……」
視線が合い、思わず目を逸らした。
逸らした先で、アルシオンの背後に視線が滑る。
地図の置かれた卓が目に入った。
……あれ。
セレナは、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
総指揮は、王族が執るはず。
それなら……
「殿下……」
思わず、口を挟んだ。
「今回の戦、前線にはどなたが行かれているのですか?」
アルシオンは、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
「……サフィアだ」
セレナは目を見開き、裾をきゅっと握る。
「……そう、ですか」
沈黙が落ちた。
広間には、まだ軍議の余熱が残っていた。
◆
夜の砦は静かだった。
焚き火の赤が石壁に揺れ、遠くで見張りの足音が響く。
サフィアは鎧の留め具を外し、膝の上で手袋を外した。
鉄の匂いがまだ指先に残っている。
……今日も終わった。けれど、明日も同じ日が来る。
寝台に腰を下ろし、片膝を抱える。
外の空気は冷たく、焚き火の煙がかすかに流れ込む。
アルシオン……今ごろ、王都ではどんな顔をしているの。
思わず小さく笑う。
「多分また、机の上で唸っているのかな」
自分で呟き、唇を噛んだ。
ちゃんと伝わっているのだろうか。
私がここで、あなたの誇りを守ろうとしてるって。
眠気と疲労の狭間で、ふと胸が痛んだ。
辛い……けれど。
あの隣に立てる日が来るなら――
目を閉じる。
その時までは、倒れるわけにはいかない。
風が帷幕を揺らし、焚き火の灯が静かに揺れた。
◆
深夜の政務殿。
散らばった駒の上に、アルシオンは拳を置いた。
ラシードが巻物を抱えて現れる。
「布告には元老院の承認が要ります」
「……分かっている」
「殿下が感情で動いたと思われれば全て潰れます」
「……ならば、理を握れる手を前に出せ」
駒をつまみ、掌で転がす。
その重みの奥に、昨夜の瞳が浮かんだ。
「剣の後は――あの女の言葉で刺す」
その低声に、ラシードが静かに笑う。
「殿下らしく」
明日。
昨夜の言葉がまだ燻っているうちに、元老院へ行く。
……あの女を、俺の刃として立たせる。
駒が掌を離れ、石を打った。
◆
湯殿には白い蒸気が立ちこめ、石床の上に朝光が溶けるように降りていた。
侍女たちが布を絞り、香油を運び、髪を梳く音が、水盤の波紋と混じり合う。
「もう聞いた? 殿下が抱きかかえて戻られたって――」
「倒れたら迎えに来てくださるなんて……ねえ、私も気絶してみようかしら」
小娘じみた声が湯気に弾け、浅い湯槽のあちこちで笑いが泡立った。
そのざわめきを、奥の区画で静かに聞いている影があった。
磨かれた石椅子に腰をかけ、侍女に髪を拭かせるレイラ。
「……子どもね。噂一つで湯が沸くなんて」
隣のアシェラが、湯を掬った指先で喉元をなぞりながら微笑んだ。
「でも、火種になるには十分よ。
殿下が自ら迎えた――それだけで一日分の話題になるもの」
アナヒータは水盤に指を浸し、
静かな眼差しで浅い槽の賑わいを眺めた。
「羨望って、香油より濃い香りがするものね。
……あれを嗅いだ女は皆、“自分こそ”と思っているわ」
下位の妃候補たちは湯気の向こうで恋の噂を囁き、
侍女たちはそれを拾っては広げていた。
「セレナ様ってすごいのね」
「市中に下りるなんて……私なら怖いわ」
「殿下が追いかけるなんて……いいわね」
レイラの唇が、わずかに歪んだ。
「……殿下が追ったのか、連れ戻されたのか。
その違いを見分けられる子は、ここには少ないわ」
アシェラが口角を上げ、囁く。
「物語に酔っていた方が、女は幸せでいられるのよ」
アナヒータは静かに微笑んだ。
「――殿下の本当の顔を知らない方が、ね」
レイラは扇をゆるく扇いだ。
「あの子、殿下の視線の色にまだ気づいていないのでしょうね」
アシェラが扇を傾け、喉で笑う。
「気づいたらどうするのかしら。
怯える? 縋る? ……それとも、見えないふりをする?」
アナヒータは肩をすくめた。
「どれであっても面白いわ。
殿下が揺らぐのは――あの子のそばにいる時だけだから」
その時、湯殿の外がざわめき、
入口近くの侍女が思わず声を潜めた。
「……聞きました?
セレナ様、昨夜――軍議の席にお出になったとか」
浅い槽が一瞬でざわめいた。
「えっ? 軍議!?」
「女が? 本当に?」
「殿下と並んでいたって話まで……!」
湯殿の空気が変わる。
レイラが扇の影で唇をなぞる。
「……それは湯殿が沸くわけね」
アシェラがゆっくり浴衣を滑らせる。
「妃候補どころか――
殿下の側近席じゃないの。
……“剣”の女が不在のあいだに、ね」
アナヒータは湯面に指先を滑らせ、静かに微笑んだ。
「戦が終わる前に、
女の戦場が始まるなんて……面白いわ。
あの人――サフィアが戻られた時の顔が、今から見ものね」
◆
朝の光が机の上に淡く落ちていた。
後宮の一室――セレナの机には、昨夜の軍議とは違う種類の静けさがあった。
葦筆を指に絡めながら、彼女は粘土板に刻まれた数字の列を追っていく。
食糧の配給、侍女の配置、消えた名前と戻った印――
うう、整えたのに……また荒野になりつつある……。
リサがそっと近づき、湯気を立てた茶を置く。
昨夜、彼女も武官によって連れ戻された。
頬が赤いので尋ねたら「な、なんでもありません!」とそっぽを向かれてしまった。
「セレナ様、殿下は今朝より政務殿に籠もられております。
元老院の方々をお招きになるとか……」
「……そう」
セレナは窓へ目をやった。
殿下、気が休まらないわよね。
恋人が戦地にいるのだもの。
ふと、胸が引っかかった。
……あれ?
それって――
私と彼と、同じじゃない。
セレナは机へ視線を落とした。
そっか。
彼も、こんな気持ちだったのか……。
私が仕事に向かうたび、
彼の瞳が揺れていたのを思い出す。
そして私は――帰らなかった。
セレナはぎゅっと手を握った。
殿下とサフィアには、
私たちみたいな思いをしてほしくない。
セレナは机の端に積まれた粘土板へ目をやった。
それは昨夜、震える指で読んだ法律書の写し。
軍議で終戦は決まった――けれど、
正式な布告には元老院の承認が必要だ。
“終戦の布告は元老院三分の二の賛成をもって成る”
――その細い文字が、まだ胸の内に残っていた。
でも……殿下はこの国の英雄だし、
反対なんてあり得るのかしら。
葦筆の先が止まり、セレナは昨夜の王妃の横顔を思い出した。
胸の奥がざわつく。
王妃というのは、ああいう“目”になるものなのかしら。
その時、戸口から控えめな足音がした。
「……姫様」
聞き慣れた声に顔を上げると、ナヴァリスが立っていた。
「ご帰還、安堵いたしました」
「ありがとう。あなたもご無事のようで何よりです」
ナヴァリスは頷き、粘土板に視線を落とす。
「留守の間、後宮は滞りなく動いておりました。
とはいえ……姫様の手で整えられた秩序は、少々、揺らいでおります」
セレナは小さく息を呑んだ。
「なんだか、責任を感じてしまいますね」
「責任ではなく、“影響力”でしょう。
姫様の形は、想像以上に後宮に根付いております」
「影響力なんて……お飾りの正妃候補なのに」
「お飾りほど、形を左右するものはありません。
姫様が動けば、後宮だけでなく――王国も揺れる」
「王国だなんて……大げさね」
セレナは顔を上げた。
「ところで、元老院は、終戦を承認しますよね?
だって殿下が決められたのですもの。
反対なんて――」
ナヴァリスは静かに遮った。
「――姫様、それは楽観というものです」
机の端を指で叩きながら言う。
「元老院の者たちは戦場を知らぬ。
彼らにとって戦は、数字と名誉の糧。
終戦とは、己の正義を失うことに等しい」
セレナは思わず眉をひそめた。
「正義……?」
なにそれ……自己満足じゃない。
「ゆえに彼らには“理由”が要ります。
己の正義を保つ大義と、権益を手放さずに済む実利――
二つ揃わねば、言葉は届きません。
……殿下お一人では押し切れぬでしょう」
ルナワの豪族たちと同じね……
結局、国のためより自分の利益。
「……元老院は、兵士の気持ちも、国民のことも考えないのですか?」
ナヴァリスは淡い笑みを浮かべた。
「考えはするでしょう。――口では。
痛みを知らぬ者ほど、理想を語りたがるものです」
彼は粘土板に視線を落とし、静かに続けた。
「……だからこそ、姫様。
殿下の終戦を現実にするには、
もう一つの場――元老院そのものを動かさねばなりません」
声が僅かに低くなる。
「その役目を担えるのは――姫様、あなたです」
「……私?」
「……姫様の言葉なら、彼らも耳を傾けるでしょう。
何より、殿下が信じた女の声ですから」
ナヴァリスは深く一礼し、部屋を出た。
セレナは沈黙し、粘土板の角を撫でる。
理か、それだけでは動かないわよね。
“得”を提示しないと……
何かいいアイデアないかしら?
光が粘土板の上を滑り、刻まれていない欄に淡い影を落とした。
◆
王都政務殿の奥――円形の大広間には、朝の光が高窓から差し込んでいた。
石の壁面には凱旋の戦車を刻んだ浮彫が並び、
半円状の壇上には金糸縁の外套を纏った老臣が列を成す。
卓上には巻物と印章が積まれ、油と墨の匂いが濃く漂っている。
……ここが評議の場。
元老院の議場ではない。
だが王太子が彼らを招き、ここに座らせれば――
この広間は元老院そのものになる。
セレナは緊張を隠し、アルシオンの横に立っていた。
王女や妃候補がこの場に立つなど、本来あり得ない。
だからこそ、老臣たちの視線が一斉にセレナへ向いた。
「本日の議題――砦戦線終結に関する殿下の布告」
書記官の声が響き、ざわめきが走る。
「性急すぎる」「王国の栄誉を捨てる気か」
「民の疲弊など故にこそ戦果が要るのだ」
声が交錯し、議場の空気が荒く波立つ。
アルシオンは沈黙のまま卓に手を置き、視線を巡らせた。
隣でセレナは唇を結ぶ。
なによ……誇りでごはんは食べられないのよ!
苛立ちを飲み込む間にも、老臣の声が響く。
「殿下、神託を楯にするとは――信仰を政治に汚すおつもりか」
「戦は神意ではなく、人の決断ぞ!」
アルシオンは前へ一歩進み、低く問う。
「――では、問う。
お前たちは、この戦をどこまで続けるつもりだ?
民の命が尽きるその日までか」
すぐさま別の老臣が切り返す。
「民の犠牲の上に王国は築かれた!
それを恐れ剣を収めるなど、後世の恥辱!」
怒声が重なり、アルシオンの問いは飲み込まれる。
拳が卓を打つ――だが、その先の言葉が出ない。
「王妃陛下もお嘆きであろう」
「陛下は継戦をよしとされておいでだ」
その名が出た途端、議場の空気がわずかに張り詰めた。
老臣たちの背後――卓の端に、王妃付きの侍女が沈黙して控えていた。
ただ静かに、議場を見つめている。
それだけで、王妃陛下がここを見ていると分かる。
セレナは息を詰めた。
アルシオンは沈黙し――
その一瞬、首を垂れたように見えた。
その刹那、彼は視線だけを横へ滑らせていた――セレナの方へ。
殿下……?
ほんの瞬きほどの合図。
ここで刺せと、声を持たない声が確かに届く。
熱を飲み込むようにひと息つき、
セレナは一歩を踏んだ。
「――お言葉ですが」
ざわり、と空気が止まる。
老臣たちの視線が一斉に向いた。
「私は……数年後の繁栄を確かなものにする方策を
ご提案したく存じます」
老臣が顔を見合わせる。
「方策だと?」
「神託の女が策を?」
嘲りかけたその表情を、セレナは静かに見返した。
前世の祖国が証明してくれた――
「――相手国に、和平のための補給路建設を提案します。
戦で傷ついた土地を結び直す道です。
その費用は……互いの未来への投資として、
貴国にご負担いただくのです」
一瞬、議場が静まり返った。
次の瞬間、老臣たちの表情が計算へと変わる。
「補給路……?」
「復興と通商……経済が繋がる……?」
議場にざわめきが広がった。
「敵国の費用で建設すれば、道が増える……」
「交易が開けば、戦費も回収できる……」
先ほどまで怒声を上げていた口が――
今は己の利益を数え始めていた。
……ほんと、現金な人たち。
やがて最年長が口を開いた。
「……戦を終わらせ、道を通すか。
神託にしては、よく練られた理よ。
本件――審議に値する」
皮肉まじりの声が、やがて同意のざわめきに変わる。
否定の声は、もう上がらなかった。
早すぎでは……王妃様よりも利益を選んだのね。
セレナは微かに息を吐いた。
アルシオンは低く呟く。
「……おまえの“理”が、手を動かした」
理? 欲の間違いじゃあ……。
セレナは苦笑し、頭を垂れた。
「ともあれ……通れてよかったです」
アルシオンは小さく息を吐いた。




